2 青い空、白い大地②
秋は日の暮れるのが早い。
傾きかけた黄色い陽射しを浴びながら、碧生は帰宅する。
なんだかぐったり疲れた。
初対面の人に複数会ったし(そのうちの一人には無駄に絡まれたし)、いつもと違う練習方法だったし、疲れて当然だが。
そういう単純な疲労だけではない。
(……今までのやり方やったら、限界きてるんよな~)
元々碧生としても、その辺の自覚がなかったわけではない。
が、では具体的にどうすればいいのか。
手本を見て、それをしっかり真似る……手本の表現しているモノを含めて、真似る。
今までの碧生の『稽古』のやり方だ。
それは今後も必要な稽古だろうが(『臨書』とはそういうものだ)、今回の作品は『臨書』をするのではなく、『結木碧生として作品を書く』ことが最終目標になる。
(そりゃあ……、書いてみたい、けど)
唯一無二、自分だけが書ける作品。
ナンフウ、みたいに……。
(あいつは……つまり。天才、なんやろうなァ)
おそらくナンフウは初めて筆を持った時から、ナンフウにしか書けない『作品』を書いていたのではないだろうか?
まあ、字を覚えるまではヤツもある程度、真似をしていただろうが。
早い段階――多分、小学校低学年の頃――から、いわゆる真似とは違う、ヤツらしいとしかいえない字を書いていたのではないかと思う。
でなければ、小六であんな堂々たる『作品』を書きあげられまい。
(天才を羨んでもしゃーないけど。しゃーないけど……、羨ましいよな、本音ゆーたら)
意味もなく道の途中で立ち止まり、碧生は、大きなため息をひとつ吐いた。
帰宅し、玄関の引き戸を開ける。
安物くさいアルミサッシの引き戸だ。
碧生が家族と暮らしている家は、築五十年に迫ろうかという二階建ての古い借家。
『文化住宅』という名で呼ばれたタイプの借家だ。
古いからボロだが、間取りや部屋そのものは昔の物件らしく、余裕のある作りになっている。
一階は小さな台所と、六畳と四畳半の和室。後で無理やり増設したらしいユニットバスと洋式のトイレ。
二階は四畳半の和室が二間、家の規模にしては余裕のあるベランダ。
同じ体裁の家が横並びに五軒あり、碧生の家は一番奥になる。
「おかえり」
あがりがまちで靴を脱ぐ碧生へ、四畳半の居間でテレビを見ながらお茶を飲んでいる母が声をかけた。
日曜の午後らしい、適度に間延びしたどうでもよさそうなバラエティ番組を、漫然と見ていたらしい。
そばで父が、二つ折りにした座布団を枕にうとうとしている様子だ。
「どうやった? 一般の部」
母が、待っていたように訊いてくるが、碧生としては面倒くさい。
面倒くさいが、返事をしないわけにもゆかない。洗面所で手を洗いながら声を張る。
「ん~、まあアタリマエやけど、子供相手の稽古日の雰囲気とは全然違うなあ。手本見て書いてたらエエってわけでもないし」
「そりゃまあ……そうやろうなあ。子供さんと大人のヒトの指導が同じなわけないやろうし。これからはそーゆー指導中心になるんとちゃう? 知らんけど。アンタもボチボチ子供やなくなってきてるんやし。なんにしてもアンタ、中学生から大人とおんなじ指導とか、エエ経験さしてもろてるやん」
よかったなあ、と母は居間に戻った碧生へ、私はすべてわかっていると言わんばかりに勝手に納得し、うなずいている。
ちょっとイラっとした。
「ん~、まあ……そう、やな。せやけど疲れた。ナンか頭、痛なってきたし、二階でちょっと横になるワ」
まだ話したそうにしている母をやや強引に振り切ると、碧生は、速足で二階へ上がった。
碧生はうんと幼い頃から頭痛持ちの気があるので、『頭が痛い』と言えば母も、それ以上押してこない。
二階の一室は碧生の部屋ということになっている。
といっても、物干し台も兼ねているベランダのある側の部屋になるので、プライバシーはないに等しい。
書道の道具をきちんと片付け、素早く彼は、部屋着兼パジャマのスウェットに着替える。
押し入れから布団を引っ張り出し、雑に畳の上へ延べるとすぐに横になった。
母のおしゃべりを封じる方便ではなく、本当に頭痛がしてきたのだ。
ため息を吞み、碧生はギュッとまぶたを閉じた。
そして、ざくざくと脈打つこめかみを、ほぐすように押さえる。
目を閉じてしばらくすると、今日書いた『明鏡止水』の手本が脳裏に浮かんできた。
何故あの手本に心惹かれたのか、碧生自身、よくわからない。
だけど心の奥深くへスッと、あの冴えた楷書の筆致が刺さったような感覚があった。
背筋が伸びるような緊張感、そのくせ同時に感じるのは不思議な懐かしさ。
(明鏡止水。あんな景色を、どこかで見た……)
そんなことを考えているうちに碧生は、いつしかまどろんでいた。




