1 木犀の薫る朝①
これは、スマートフォンがまだ普及していなかったころのお話。
その日、結木碧生は学校へ行こうと玄関を開けた瞬間、ハッと足を止めた。
空気が、昨日までと確実に違う。じっとりと肌に絡む、夏の名残りの嫌な湿度がなかった。
それどころか、思わず深呼吸したくなるさわやかな風が吹いている。
そしてその風に、何とも言えない甘さをひそめた、澄んだ花の香りが含まれていた。
どうやらこの朝、木犀の花が一斉に咲き始めたらしい。
碧生が住むのは、奈良との県境の山のふもとの、大阪のはずれにある小さな町だ。
家内工業に近い零細な工場と賃貸住宅、合間にひょこっとコンビニエンスストアが入り混じった、あか抜けない下町である。
ただ、それは主に終戦後に開けた部分らしい。
この町の中核には多くの田畑を持つ(あるいは持っていた)先祖代々この土地で暮らす『地元の人』たちがいて、強固なコミュニティを築いている……らしい。
そんな人たちが暮らす一角は、白塀に棟門や冠木門の日本家屋だったり、金網状の塀に蔦を絡ませた瀟洒な和洋折衷のお屋敷だったりと、碧生たちプロレタリアート階級の人間の住いとは一線を画している。
そして、そういうお屋敷の庭には必ずと言っていいほど木犀の木が植えられていて、時期になると町中が甘い木犀の薫りに満たされるのだ。
六割がたは金木犀だったが、残り四割は、花が白くて薫り高い銀木犀だ。
あまり話の本筋とは関係ないが、碧生は物心がついて以来、金木犀と銀木犀は日本中どこでもそういう感じの割合で植えられているのだと思い込んでいた。
が、世間では、金木犀は知っていても銀木犀は知らないという人が多いということを中学生になってから知り、かなり本気で驚いた。
この町の銀木犀の普及率?は、全国的に見ても異常に高いみたいだが、何故なのかは碧生も知らない。
そんなどうでもいいことを、ぼんやりと思うこともなく思いながら碧生は、いつも通り学校へ向かう。
中学校への通学路は『地元の人』たちが暮らす、お上品な屋敷が並ぶ区画をちょうど突っ切るような形になる。
だから碧生はこの時期いつも、濃い木犀の薫りを包まれて通学していた。必然、木犀のことをぼんやり考えながら歩くことが多くなる。
実は碧生には、木犀の花の薫りにささやかな秘密の思い出がある。
そちらへ思いが流れるとどうしてもセンチメンタルな気分になるので、首を振って彼は断ち切った。
(……今日は数学の課題の提出日やん。一応、やってきたけどォ)
自信はない。
もはや中二の秋。
そろそろ真剣に進路のことを考えなくてはならない。
結木碧生は、小学生時代からそう成績の悪い方ではなかった。
なかったが、飛び抜けている訳でもない。
今まで塾や通信教育にも頼らず、学校の授業だけでギリギリ上位――上の下というか中の上、が正直なところ――の成績をキープしてきたが……さすがに最近、行き詰まりを感じていた。
(マジで塾へ行くこと、そろそろ考えやなアカンなァ)
しかし学習塾へ通うのなら時間の問題からもお金の問題からも、小学校一年生から習っている書道教室へ通うことは、あきらめねばなるまい。
そこへ思いが至ると碧生は知らず知らず、深いため息をついてしまう。
彼はかなり真面目に書道をやっている。
中学生の少年としては、ちょっと変わっているかもしれない。
極論すれば、書道というのは白い紙に黒い墨で字を書くだけ、だ。
他の習い事と比べて地味だし、普通の少年少女から退屈だと敬遠されがちな習い事だろう。
実際、今通っている書道教室で小学生の頃からずっと続けている中学生は、いつの間にか碧生ひとりになっていた。
でも碧生は、そりゃ地味で退屈かもやけど、だからエエねんけどな、と思っている。
何もない白へ、墨の黒だけで表現してゆく。
白の上へ、自分の意思で黒の線を走らせる。
字を書く、という行為にだけ集中する。
それ以外何もない、実にシンプル。
なのに、紙の微妙な色合いや質感、筆致の強弱や書体、必然と偶然が生み出す墨の濃淡で、同じ文言を書いてもがらりと表情を変える。
そこもいい。
もっとも、彼がその境地に至ったのは割と最近だ。
ひょんなきっかけで小学一年生の秋から書道教室へ通うようになった碧生だが、最初の頃は正直、惰性で通っていた。
だが根が真面目なので、指導された通り素直に一生懸命練習するからか、彼の上達は他の子供よりも早かった。
小学校の高学年になる頃には、自分はすでに小学生のレベルを超え、そこいらの中学生以上、あるいは大人に近い実力があると、内心ひそかに自負してもいた。
(……ま。ただの思い上がりやったんやけど)
世の中、上には上がいるのだ。
それを思い知ったのは、小学校六年生の冬。
ただきれいな字が書けるというだけで天狗になっていた自分を恥じ、本気で書道……『お習字』ではなく『書道』に向き合うようになったのはそれ以降、面白さがわかってきたのは中学生になってからだ。
だから今このタイミングで、書道をやめるのは嫌だった。
(でもなぁ……)
碧生はぼんやりながら、将来、大学への進学を希望していたが、家の経済状況から言って私立の大学へ通うのはきつい。
国公立大学へ、それも現役で入ろうと思えば、今から本気で勉強しても遅いくらいだという危機感くらいある。
特に昨今、理数系の科目が怪しくなってきている。
ため息をつきながらも碧生は、断ち切るように顔を上げ、軽く奥歯をかみしめた。
いくらこの道が好きでも、さすがに書道で食べてゆくのは無理。
身体が特別頑健な訳でも、絵が異様に巧い訳でも、手先が素晴らしく器用な訳でもない。
もちろん、運動神経がずば抜けている訳でもない。
冴えない、ごく平凡な中学生だ。
ならば真面目に勉強するくらいしか、今の自分に出来ることはない。
軽く足を止め、ひとつ深呼吸。
澄んだほの甘い今朝の空気が、少し、苦い気がした。




