影の女王の逆鱗 其十二
この物語はフィクションです。
この物語は、法律・法令に反する行為を容認・推奨するものではありません。
ようこそ、東京の影の中へ。
ここは、光が滅び、影が支配する世界。
摩天楼が立ち並ぶ、華やかな都市の顔の裏側には、深い闇が広がっている。
欲望、裏切り、暴力、そして死。
この街では、毎夜、人知れず罪が生まれ、そして消えていく。
あなたは、そんな影の世界に生きる、一人の女に出会う。
彼女の名は、エミリア・シュナイダー。
金髪碧眼の美しい姿とは裏腹に、冷酷なまでの戦闘能力を持つ、凄腕の「始末屋」。
幼い頃に戦場で、彼女は愛する家族を、理不尽な暴力によって奪われた。
それは、彼女が決して消すことのできない傷となり、心を閉ざした。
今もなお、彼女は過去の悪夢に苛まれ、孤独な戦いを続けている。
「私は、この世界に必要とされているのだろうか?」
「私は、幸せになる資格があるのだろうか?」
深い孤独と絶望の中、彼女は自問自答を繰り返す。
だが、運命は彼女を見捨てなかった。
心優しい元銀行員の相棒、エミリアの過去を知る刑事、そして、エミリアの過去を知る謎めいた女ライバル。
彼らとの出会いが、エミリアの運命を大きく変えていく。
これは、影の中で生きる女の物語。
血と硝煙の匂いが漂う、危険な世界への誘い。
さあ、ページをめくり、あなたも影の世界へと足を踏み入れてください。
そして、エミリアと共に、非日常の興奮とスリル、そして、彼女の心の再生の物語を体験してください。
あなたは、エミリアに、どんな未来を見せてあげたいですか?
…この物語は、Gemini Advancedの力を借りて、紡がれています。
時に、AIは人間の想像を超える unexpected な展開を…
時に、AIは人間の感情を揺さぶる繊細な表現を…
Gemini Advancedは、新たな物語の世界を創造する、私のパートナーです。
この作品はカクヨムにて先行公開しており、こちら(小説家になろう)では遅れて公開となります。あらかじめご了承ください。
ただし、どうか忘れないでください。
これは、あくまでフィクションだということを。
This is a work of fiction. Any resemblance to actual events or persons, living or dead, is purely coincidental.
Ceci est une œuvre de fiction. Toute ressemblance avec des événements réels ou des personnes, vivantes ou mortes, serait purement fortuite.
Dies ist ein Werk der Fiktion. Jegliche Ähnlichkeit mit tatsächlichen Ereignissen oder lebenden oder verstorbenen Personen ist rein zufällig.
นี่คือนิยายที่แต่งขึ้น บุคคล สถานที่ หรือเหตุการณ์ใดๆ ที่ปรากฏในเรื่อง หากบังเอิญคล้ายคลึงกับบุคคล สถานที่ หรือเหตุการณ์จริง ทั้งที่ยังมีชีวิตอยู่หรือเสียชีวิตไปแล้ว ถือเป็นเรื่องบังเอิญทั้งสิ้น
(この作品はフィクションです。実在の出来事や人物、存命・故人との類似はすべて偶然です)
桐野冴子と相川奈緒は、自分たちの月収では、おそらく一泊はおろか、数時間滞
在することすら永遠に叶わないであろう、福岡市内でも最高級に属するホテルの、静まり返った豪奢な廊下を歩いていた。
床には、足音という生活音さえも拒絶するかのように、厚く柔らかな、深紅の絨毯が敷き詰められている。
壁には、有名作家のものらしい、しかし今の彼女たちにはその価値を推し量る余裕もない抽象画や、アンティークの装飾品が、計算され尽くした間隔で配置され、柔らかな間接照明に照らし出されていた。
空気は、完璧に温度と湿度が管理され、微かな、しかし、明らかに高価で複雑な調合の、フローラル系の香りが漂っている。
日曜日の早朝だというのに、ここは下界の喧騒とは完全に隔絶された、まるで深海のような、静謐で、そして重苦しいほどの空間だった。
桐野が、常に周囲への警戒を怠らず、しかしそれを微塵も感じさせない、滑らかな動きで先陣を切り、相川が、その後ろを、数歩の間隔を保ち、神経を研ぎ澄ませて背後を護るように続く。
その動きは、警察学校で叩き込まれた基本であり、彼女たちがプロフェッショナルであることの証だった。
彼女たちの頭の中には、所轄署に急遽立ち上げられたばかりの捜査本部で、上司(担当警視だろうか)から、出発前に、まるで世間話のように、しかし、その実、強い含意を持って、口頭でさりげなく注意された言葉が、冷たく反響していた。
『これから話を聞きに行く参考人だがな、…相手とその連れ、少々、厄介かもしれん。扱いには、くれぐれも注意するように。下手に突つくと、思わぬところから横槍が入る可能性もあるぞ』
その短い言葉に込められた意味――「警察の威光をただ振りかざすな。相手の背景を甘く見るな。下手に事を荒立てれば、こちらが、あるいは組織が、痛い反撃をくらうぞ」という、暗黙の、しかし極めて重い警告――は、警察官としてのキャリアがまだ浅い彼女たちにも、嫌というほど、理解できていた。
問題の参考人、『佐藤健』。
昨夜、大規模な車両盗難事件が発生したディーラーの、重要参考人である井上剛が、同窓会会場で一方的に因縁をつけ、トラブルになった相手。
その経歴は、調べれば調べるほど、不自然さと、奇妙な繋がりが浮かび上がってくる。
関西の、有名な国立大学経済学部卒。
新卒で、日本を代表するメガバンクの一つに就職。
しかし、わずか二年で、理由は不明瞭ながら解雇。
その後、二年間の、完全に追跡不可能な空白期間。
そして、現在。
突如として、『海外の富裕層や投資ファンドから絶大な信頼を得ている、フリーランス・コンサルタント付きの、有能な投資アナリスト』として、活動している…らしい。
(…ふざけているのか、あるいは…)
経済犯罪の捜査経験もある桐野は、最初にその経歴を見た時、直感的に、警察学校の教科書に載せても良いほどの、分かりやすすぎる『うさん臭さ』を感じた。
よくいる、経歴を詐称した、小物の詐欺師か何かだろう、と。
しかし、予備調査で、彼が関与しているとされる『東京湾岸エリアのマンション群調査』が、実際に、海外の大手投資ファンドから、彼らの所属する(とされる)設立間もない会社に、正規に依頼されていたことが確認されると、話は一変した。
そのファンドの規模と影響力は、無視できるレベルではない。
こうなっては、話が、全く変わってくる。
桐野の背筋に、冷たいものが走った。
あの、最初の直感が感じた、単なる『うさん臭さ』が、一気に、明確な『危険な香り』へと、その質を変えたのだ。
なぜなら。賢く(国立大卒、元メガバンク)、金回りも良く(大手ファンドが信頼)、世界に通じるコネクションを持つ(海外クライアント)人間が、もし本物だとしたら? その人間が、この日本国内で、事を構えた時に、動かせる力は? …優秀で、口が堅く、そして高額な報酬で動く弁護士。
あらゆる情報を集め、あるいは揉み消すことができる、裏の調査員やフィクサー。
金で動かせる、数多くの、そして種類を選ばない『手ごま』…。
それは、まさに、捜査本部の上層部が、遠回しに、しかし明確に危惧していた、『ちょっと厄介かもしれない参考人』が放つ、危険で、甘美で、そして、下手をすれば、こちらが絡め取られてしまうような、深い闇の香りそのものだった。
桐野は、目的のスイートルームのドアが近づくにつれて、この一見単純な任意聴取が、もしかしたら、自分たちの、まだ始まったばかりの警察官としてのキャリア…いや、それ以上の何か、人生そのものの命運さえも左右しかねない、重大な局面になるかもしれない、という、重い予感を、全身で感じ始めていた。
しくじれば、ただでは済まない。
自分だけではない、相川も、そして、上司たちも…。
相手は、ただの元銀行員ではない。
その背後には、計り知れない、そして、おそらくは、極めて危険な何かが、静かに潜んでいる可能性がある。
桐野の後ろを歩く相川もまた、廊下の、非現実的なほどに静かで、重厚な空気の中で、同様のプレッシャーを感じていた。
先輩である桐野の、いつも以上に硬く、張り詰めた背中。
そして、これから会うであろう、経歴不詳の『投資アナリスト』と、その『謎の外国人恋人』。
これは、ただの事情聴取ではない。
自分たちの能力が、そして、もしかしたら、組織の威信さえもが、試される場なのだ。
彼女は、緊張で、乾いた唇を、そっと舐めた。
目的のスイートルームの、重厚なマホガニーのドアが、もう、目の前に迫っていた。ドアノブに手をかけることさえ、躊躇われるような、異様な圧力が、そこには漂っていた。
***
日曜日の朝・福岡市内 高級ホテル・スイートルーム
エミリアは、スイートルームのリビングエリアに現れた、二人の見慣れない女性訪問者を、まるで予定通りの来客であるかのように、穏やかな、しかし完璧に計算された微笑みで迎えた。
一人は桐野冴子、もう一人は相川奈緒と名乗った。福岡県警の刑事だという。
部屋に通された二人は、その豪奢な内装――天井まで届く窓の外に広がるパノラマビュー、デザイナーズ家具、壁にかけられた現代アート――に、一瞬だけ、わずかに目を奪われたが、すぐにプロフェッショナルな無表情を取り戻した。
「どうぞ、お掛けになってください」
エミリアは、リビング中央の、上質なイタリア製であろうソファを勧め、自身も、その向かいの一人掛けソファに、音もなく、優雅に腰を下ろした。
部屋には、淹れたてのコーヒーの芳醇な香りが漂っている。
「申し訳ありません、突然、このような時間に」
桐野が、硬質な、しかし丁寧な口調で切り出した。
彼女の鋭い視線は、エミリアの全身――その若さ、服装(シンプルだが明らかに高級品)、そして何より、その底知れないほど落ち着き払った態度――を、瞬時に分析しているようだった。
「いいえ、お気になさらないで」
エミリアは、微笑みを返す。
「ただ、あいにく、クレジットカードの特典でレイトチェックアウトをお願いしているとはいえ、今日の午後には福岡を発ち、東京へ戻る予定でして。あまり、長くはお時間を取れないかもしれませんが、お許しください」
彼女は、先手を打って、時間的な制約があることを、やんわりと、しかし明確に告げた。
「それから、もう一つ。私のパートナー…佐藤のことですが」
エミリアは、奥の寝室のドアに、ちらりと視線を送る。
「昨夜の同窓会で、少し、はしゃぎすぎたようでして。今は、ようやく、ぐっすり眠っているところなのです。申し訳ありませんが、彼を起こすのは、少し忍びなくて…。私でお答えできることであれば、私が、責任を持ってお話しさせていただきますわ」
その口調は、どこまでも優しく、パートナーを気遣う、献身的な恋人のそれに見えた。
(…パートナー? 佐藤健が? この、若く、そして只者ではない雰囲気の女の…?)
桐野は、内心の驚きを表情に出さず、慎重に質問を重ねた。
「失礼ですが、エミリア…様、とお呼びすればよろしいでしょうか? あなた様のご経歴と、佐藤さんとのご関係について、少し、お伺いしても?」
「ええ、エミリアで結構ですわ」
エミリアは、微笑みを深める。
「そうですね…彼、ケンとは、仕事の関係で偶然出会いまして…あとは、まあ、その…私の方が、一目惚れ、という関係です。彼の、その、経済や市場に対する深い見識に感銘を受けまして、ぜひ、二人で一緒に仕事ができればと、会社を立ち上げた、という次第ですわ」
彼女は、少しだけ頬を染め、はにかむような仕草を見せた。
(…芝居がかっている…しかし、隙がない…)
隣で、相川奈緒が、タブレット端末に高速でメモを取りながら、エミリアの表情、声のトーン、微細な仕草を、食い入るように観察していた。
だが、彼女の完璧な演技からは、今のところ、『恋する若い女性』以外の情報は読み取れない。
「そうですか…」
桐野は、一度、言葉を切った。
「大変、失礼とは存じますが、エミリアさん、身分を証明できるもの…例えば、パスポートなどを、お持ちではないでしょうか? 警察官としての職務上、確認させていただきたく…」
彼女は、あくまで事務的な手続きである、というポーズを崩さない。
「まあ、お仕事ですものね。大変ですわ」
エミリアは、困ったように、しかし快く頷くと、「それでは、必要な書類を取ってまいりますので、少々お待ちくださいませ」と、音もなく立ち上がり、奥の部屋へと姿を消した。
エミリアが部屋を出た、ほんの数秒。
桐野と相川は、素早く、無言でアイコンタクトを交わした。
(…手強いわね)
(はい、下手な揺さぶりは逆効果かと)
(今は無理せず、相手のボロを待つ…)
二人の間での方針は、一瞬で決定された。
それとほぼ同時に、エミリアが、何事もなかったかのように部屋に戻ってきた。
彼女の手には、濃紺の表紙の、見慣れた日本のパスポート…ではなく、ワインレッドの表紙に金の箔押しが施された、どこかヨーロッパの国のパスポートと、もう一つ、日本の法務省発行と思われる、しかし通常あまり目にしない形式の、顔写真付きの在留資格証明書があった。
そこには『経営・管理(高度専門職)』といった記載が見える。
「どうぞ」
エミリアは、それらをテーブルの上に置いた。
「失礼します」
桐野は、丁重に断ってから、それらを手に取り、記載事項を確認した。
名前、生年月日、国籍(おそらくはフランスか、あるいは別のEU加盟国)、そして、有効な日本の在留資格…。
相川も、横から覗き込み、その内容を記憶する。
「…確認のため、本部へ照会させていただいても?」
桐野が尋ねる。
「ええ、どうぞご自由に」
エミリアは、快諾した。
相川が、自身の携帯端末を使い、セキュアラインで捜査本部へ照会をかける。
数分間の、緊張した沈黙。
部屋には、空調の微かな音と、窓の外の、遠い街の音だけが聞こえる。
やがて、相川の端末が、短い電子音を鳴らした。
彼女は、画面を一瞥し、桐野に、小さく、しかし明確に頷いた。
(…どちらも、正規のもの。偽造の痕跡なし…)
(…不法滞在ではない…か。そうなると、攻め手は限られる…)
桐野は内心で舌打ちした。
だが、ここで引き下がるわけにはいかない。
彼女は、自身の得意分野である、経済・金融の知識を武器に、リスクを承知で、最後の揺さぶりをかけることにした。
「エミリアさん」
桐野の声は、先ほどよりも、わずかに鋭さを増していた。
「大変失礼な質問を重ねて恐縮ですが、…あなたは、まだ二十歳とお見受けします。その若さで、これほどの事業(海外の富裕層やファンドを相手にするビジネス)を立ち上げ、運営できるほどの、その…『信頼』や『実績』は、一体、どのようにして、お築きになられたのですか? 率直に申し上げて、通常のビジネスの世界では、考えにくいスピードですが」
その質問は、彼女の華やかな成功の裏にあるであろう、不透明な資金源や、人脈の出所を、暗に探るものだった。
経済犯罪の捜査官としての、鋭い一撃。
エミリアは、その質問に、一瞬だけ、虚を突かれたような表情を見せた。
しかし、すぐに、その表情は、深い悲しみを湛えた、静かなものへと変わった。
「…私が、育った家庭は、…とても貧しいところでした」
彼女は、ゆっくりと、遠い過去を語り始めた。
その声は、静かで、しかし、聞く者の心を掴む、不思議な力を持っていた。
「祖国では、日本で言うところの、義務教育を終えた後すぐに、私は、家族を助けるために、軍に志願したのです。それが、私のような、何も持たない人間が、生きていくための、唯一の方法でしたから」
彼女の碧眼が、わずかに潤んだように見えた(それは、完璧な演技かもしれないが)。
「そして、新兵として配属された、その、わずか数週間後に…」
彼女は、そこで言葉を切り、まるで、思い出したくない記憶に耐えるかのように、唇を噛んだ。
「…詳細は、軍事機密にあたるため、お話しすることは許されませんが、…私は、とある、極めて危険な戦場へと、派兵されることになったのです」
戦場――その言葉に、桐野と相川は、息を呑んだ。
日本の、平和な警察業務の中では、およそ想像もつかない世界。
「そこで、…私は、偶然、戦場を視察に来られていた、ある、非常に高位の方を、…敵の、ドローンによる攻撃から、…この身を挺して、お護りしたのです」
彼女の声は、震えている。
「幸い、ドローンは不発に終わり、私も、その方も、奇跡的に、大きな怪我をすることはありませんでした。…しかし、その時の、…精神的な衝撃、…トラウマにより、私は、軍務を続けることが困難となり、若くして除隊することになりました。…そのことを、私が身を挺して護った、あの方が、大変、心を痛めてくださって…。それで、その…除隊後の私の生活や、将来について、物心両面から、本当に、多くの、温かいご助言と、ご支援を、いただくことができたのです。今の私があるのは、本当に、その方のおかげなのです」
エミリアは、そこまで語ると、力なく、しかし、どこか吹っ切れたような、儚い笑みを浮かべた。
桐野と相川は、顔を見合わせた。
エミリアが語った内容を、嘘だと切り崩す術がないことを、二人は、瞬時に悟っていた。
貧困、軍隊、戦場、英雄的行為、トラウマ、そして、有力者からの恩顧…。
それは、あまりにもドラマチックで、しかし、彼女が持つパスポートや在留資格、そして現在の状況を説明するには、都合が良すぎるほど、完璧なストーリーだった。
そして、何よりも、『軍事機密』という、絶対に踏み越えることのできない、秘密のベール。
これ以上、彼女の過去や、現在の仕事の背景を追及することは、不可能だ。
桐野は、内心の焦りと、敗北感を押し殺し、努めて冷静な声で言った。
「…そうですか。大変、…ご苦労なさったのですね。…貴重なお話を、ありがとうございました」
彼女は、相川に目配せし、立ち上がる準備を始めた。
今日のところは、これ以上の深入りは、危険だ。
***
日曜日の朝。
井上 剛が勤める、今は静まり返った自動車販売店の応接室。
本来なら、柔らかな革張りのソファに顧客を座らせ、磨き上げられたテーブルの上で、夢の高級車購入への期待感を煽るための空間。
しかし、今は、その豪華さが、逆に井上を追い詰める、冷たい『取調室』と化していた。
彼は、そのソファに、まるで全身の骨を抜かれたかのように、力なく座っている。
窓の外では、規制線の向こうで、鑑識課員が黙々と作業を進める気配と、時折響く警察無線のかすれた音声が、非現実的なBGMのように流れていた。
部屋には、高価な革の匂いと、井上の、二日酔いと冷や汗が混じり合った、酸っぱい匂いが漂っている。
「井上さん」
渡辺刑事は、応接室の中を、まるで値踏みでもするかのように、ゆっくりとした、重い足取りで歩きながら、口を開いた。
その声は、穏やかだが、部屋の空気をさらに重くする。
「…そこの大きな窓。外の展示車がよく見える、一番良い場所ですね。その窓の隅に、何かを剥がしたような跡が残っていますが…」
渡辺は、立ち止まり、磨き上げられたガラス窓の、右下の隅に残る、わずかな粘着剤の痕跡と、そこだけ日焼けしていない、四角い跡を、指で、とん、と軽く示した。
「あれは、よく警備会社さんが、自社と契約している証として貼っていく、ステッカーの跡では、ありませんかな?」
その、あまりにも迂遠な、しかし、明らかに意図を持った質問に、井上は、まだアルコールが抜けきらない頭で、すぐには意味を理解できなかった。
「…あの、…そのシールの跡が、何か…?」
彼の声は、不安で、かすかに震えている。
渡辺は、その反応を、冷静な目で見定めながら、静かに、しかし、核心に迫る言葉を続けた。
「いえね、不思議に思いましてね。普通、ああいうシールは、契約期間中は貼っておくものですし、もし剥がすにしても、もっと綺麗に剥がすか、あるいは、契約が終わったのなら、新しい会社のシールが貼られていてもよさそうなものだ、と。…なぜ、わざわざ、中途半端に、剥がした跡だけが残っているのか、と思いましてね」
その言葉が、まるで引き金のように、井上の脳裏に、数ヶ月前の、忌々しい記憶を、鮮明に蘇らせた。
あの、口うるさいだけの、警備会社の営業担当者の、最後の言葉と共に――。
***
『――ですから井上さん! 再度申し上げますが、この規模の販売店、しかもこれだけの高級車を扱われる店舗から、弊社のオンライン警備システムを解約されるというのは、あまりにも危険すぎます!』
中年の、少しやつれた営業担当者は、契約解除の書類を前に、必死の形相で、井上を説得しようとしていた。
『確かに、弊社の警備は、異常を検知して警報が鳴り、警備員が駆け付ける、というシステムです。警備員が到着するまで、数分から十数分のタイムラグがあるのは事実かもしれません! ですが、プロの窃盗団は、その数分で仕事をするかもしれませんが、逆に言えば、警報が鳴り、誰かが来る、警察にも通報が行く、という事実そのものが、最大の抑止力になるんです! 日本の警備員は銃を持っていなくても、状況を確認し、警察と連携して、被害の拡大を防ぐことができるんですよ!』
営業担当者の声は、次第に熱を帯びていく。
『それを、警備のノウハウも何もない、あなた方だけで、…しかも、聞けば、ホームセンターで買ってきたような機材で、代用しようなどと…! 正気ですか!? それは、泥棒に、「どうぞ、ご自由にお入りください。反撃もしません」と言っているのと同じですよ!! この店には、顧客から預かっている車も含め、高額な資産があるんですよ! そのリスクを、ご理解されているのですか!?』
だが、井上は、その必死の訴えを、完全に鼻で笑い飛ばした。
当時の彼は、トップセールスマンとしての成功(と、それに伴う不正)で、万能感に浸りきっていたのだ。
「はっ! うるせえなあ、オッサン。だから、大丈夫だって言ってんだろ? 毎月、あんな、バカ高い警備料払わなくたって、何かありゃあ、俺たちで対応すりゃいいんだよ。それに、ちゃんと対策は考えてるんだよ」
彼は、得意げに胸を張った。
「建物の出入り口にはな、最新の、指紋で開ける、ハイテクなカギを、俺が、わざわざ、取り付けてやったんだ。俺と、店長の指紋しか登録してない、完璧なセキュリティだぜ? 無理にこじ開けようとすれば、クソでかい音でベルが鳴るようにもしてある。わざわざ、秋葉原まで行って、一番でかい音が出るベル、買ってきたんだぜ? 高級車にはな、メーカー純正の、あんたらが知らないような、もっと凄い防犯装置が、最初から付いてんだよ。だから、店の建物さえしっかり守って、車のキーの管理さえ、ちゃんとしておけば、窃盗団なんか、来るわけねえんだよ!」
彼の声には、何の根拠もない、しかし絶対的な自信が満ち溢れていた。
警備会社の営業は、その、あまりにも無知で、傲慢で、そして絶望的なほど楽観的な井上の言葉に、完全に呆れ果てた表情を浮かべた。
そして、深いため息をつくと、最後に、冷たく、事務的な口調で、これだけを告げた。
「…そうですか。そこまでおっしゃるなら、仕方がありません。ただし、契約解除に伴い、現在、店舗内外に貼らせていただいている弊社のセキュリティステッカーは、全て、こちらで剥がさせていただきます。万が一、何かあった時に、弊社の警備サービスが提供されていたにも関わらず被害が発生した、などと、あらぬ誤解を招かないために。…よろしいですね?」
***
「――井上さん? 聞いていますか、井上さん?」
渡辺の、静かだが、鋭い声が、井上を、悪夢のような回想から、さらに悪夢的な現実へと引き戻した。
井上は、その時の、自分の、あまりにも浅はかで、傲慢な自信と、営業担当者の、呆れ果てた、そして、どこか憐れむような目を、今、はっきりと思い出していた。
顔から、サッと血の気が引くのを感じた。
指先が、冷たくなっていく。
(あの時、俺は、自分で、自分の店の、唯一の防御を、捨て去ったのか…? いや、それどころか、わざわざ、危険を呼び込むような真似を…?)
渡辺は、そんな井上の表情の、微細な変化、瞳の動揺を、決して、見逃さなかった。
彼は、確信に、一歩、近づいた。
「あ、いや、その…」
井上は、必死で言葉を探した。
しかし、喉がカラカラに渇き、まともな言い訳が、何も出てこない。
顔から、急速に血の気が引いていくのが分かった。
「…他の方…ええ、こちらの経理担当の方や、契約を解除されたという警備会社の方にも、既に、少しだけ、お話を伺ったのですが」
渡辺は、まるで世間話でもするように、しかし、その目は、井上の僅かな反応も見逃すまいと、鋭く光っている。
「この自動車販売店…帳簿の上では、今でも、以前と同じ警備会社に、毎月、かなりの額の警備費用を、支払い続けている、ということになっているそうですねぇ…?」
その言葉は、静かな宣告だった。
横領。
井上の足が、ガクガクと震え始めた。
何か違う、誤解だ、と言いかけようとしても、唇が、意味もなく震えるだけで、声にならない。
「そして、もう一つ」
渡辺の声は、どこまでも平坦だった。
その平坦さが、逆に、恐ろしかった。
「今朝方、鑑識の方が、この建物の正面玄関の従業員用出入り口…あの、自慢の指紋認証システムを、詳しく調べたのですが。…その結果ですがね、井上さん。昨夜、このシステムが、最後に『正規に』解除されたのは…つまり、鍵が開けられたのは、貴方、井上 剛さんの名前で、正式に登録されている、その、あなたの指紋データによってだった、ということだそうです」
酔いとは違う。
眩暈とも違う。
それは、まるで、足元から、自分が立っているはずの地面が、音もなく、崩れ落ちていくような、絶対的な感覚。
井上は、自分が、もはや、この、顧客を騙すためだけに用意された、高価なソファの上に、形を保って座っていることすら、できなくなっていくような、恐ろしい錯覚に襲われた。
視界が、ぐにゃりと歪み、部屋の壁が、波打っているように見える。
「井上さん」
渡辺は、崩れ落ちそうな井上に、追い打ちをかけるように、静かに、しかし、冷徹な言葉を、ナイフのように、一つ、また一つと、突き立てていく。
「今の、その、いささか分不相応な、贅沢な生活を維持するために、まず、帳簿上で警備会社に支払っていることになっている、その警備費用を着服なさった。しかし、それだけでは、もう、物足りなくなった…。それで、さらなる贅沢のため、あるいは、どこかで抱えた、別の、厄介な借金の返済のためか…例えば、誰か、悪意のある人物から、自動車盗難に見せかけて、高額な保険金を山分けしよう、などと、甘い話に乗せられたとか? あるいは、もっと厄介な相手…例えば、反社会的な組織にでも、弱みを握られ、その返済のために、今回の犯行に、逆らえず、協力させられたとか? …いや、もっと短絡的に、ご自身で、SNSか、あるいは、夜の街ででも、プロの窃盗団に接触して、内部情報を提供する見返りに、分け前を要求なさったり…とか?」
渡辺が、まるで他人事のように、様々な、しかし、どれもが井上の胸に突き刺さる、可能性を並べ立てる。
その中に、『窃盗団の共犯』という言葉が、はっきりと響いた瞬間、井上の、恐怖に支配されていた思考が、一瞬、屈辱と、『嵌められた!』という怒りで沸騰した。
「ち、違う! 俺は、そんな、共犯なんかじゃ…!」
彼は、反射的に、ソファから立ち上がり、渡辺に掴みかかろうとした。
しかし、その、もはや何の力も残っていない、虚しい動きは、完全に読まれていた。
彼が腰を上げるよりも早く、背後に、影のように立っていた木村刑事が、音もなく、しかし、驚くほどの速さと、有無を言わせぬ力で、井上の両肩を、上から、床に縫い付けるように、強く抑え込んだ。
「ぐっ…! は、離せ! 俺じゃねえ!」
井上は、もはや、見苦しく、床の上で、子供のように、意味のない抵抗を繰り返すしかなかった。
「まずは」
渡辺は、そんな井上を、冷ややかに、そして、どこか憐れむように見下ろしながら、静かに、しかし、最終宣告のように言った。
「その、帳簿上では支払われていることになっている、警備費用のお金の流れについてですね、一から、詳しく、警察署の方で、ゆっくりと、お話を伺いたいと思いますが、…いかがでしょうかね? 井上さん」
井上は、もはや、言葉を発することもできなかった。
自分の築き上げてきた、見栄と嘘と不正でできた、きらびやかな砂上の楼閣が、轟音と共に崩れ落ちる音と、その破片が、ガラスのように、容赦なく自分に降りかかってくる景色に、彼の意識は、完全に飲み込まれようとしていた。
気絶したい。
逃げ出したい。
しかし、圧倒的な現実と、迫りくる破滅への恐怖が、それを許さない。
彼は、ただ、床の上で、見えない何かに押し潰されるような、息苦しい苦しみの中で、ひたすら、意味もなく、もがくしかなかった。




