表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
東京影譚 ~エミリア、影を紡ぐ者~  作者: ミルティア


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

62/349

影の女王の逆鱗 其五

この物語はフィクションです。

この物語は、法律・法令に反する行為を容認・推奨するものではありません。


ようこそ、東京の影の中へ。

ここは、光が滅び、影が支配する世界。

摩天楼が立ち並ぶ、華やかな都市の顔の裏側には、深い闇が広がっている。

欲望、裏切り、暴力、そして死。

この街では、毎夜、人知れず罪が生まれ、そして消えていく。

あなたは、そんな影の世界に生きる、一人の女に出会う。

彼女の名は、エミリア・シュナイダー。

金髪碧眼の美しい姿とは裏腹に、冷酷なまでの戦闘能力を持つ、凄腕の「始末屋」。

幼い頃に戦場で、彼女は愛する家族を、理不尽な暴力によって奪われた。

それは、彼女が決して消すことのできない傷となり、心を閉ざした。

今もなお、彼女は過去の悪夢に苛まれ、孤独な戦いを続けている。

「私は、この世界に必要とされているのだろうか?」

「私は、幸せになる資格があるのだろうか?」

深い孤独と絶望の中、彼女は自問自答を繰り返す。

だが、運命は彼女を見捨てなかった。

心優しい元銀行員の相棒、エミリアの過去を知る刑事、そして、エミリアの過去を知る謎めいた女ライバル。

彼らとの出会いが、エミリアの運命を大きく変えていく。

これは、影の中で生きる女の物語。

血と硝煙の匂いが漂う、危険な世界への誘い。

さあ、ページをめくり、あなたも影の世界へと足を踏み入れてください。

そして、エミリアと共に、非日常の興奮とスリル、そして、彼女の心の再生の物語を体験してください。

あなたは、エミリアに、どんな未来を見せてあげたいですか?

…この物語は、Gemini Advancedの力を借りて、紡がれています。

時に、AIは人間の想像を超える unexpected な展開を…

時に、AIは人間の感情を揺さぶる繊細な表現を…

Gemini Advancedは、新たな物語の世界を創造する、私のパートナーです。


この作品はカクヨムにて先行公開しており、こちら(小説家になろう)では遅れて公開となります。あらかじめご了承ください。


ただし、どうか忘れないでください。

これは、あくまでフィクションだということを。

This is a work of fiction. Any resemblance to actual events or persons, living or dead, is purely coincidental.


Ceci est une œuvre de fiction. Toute ressemblance avec des événements réels ou des personnes, vivantes ou mortes, serait purement fortuite.


Dies ist ein Werk der Fiktion. Jegliche Ähnlichkeit mit tatsächlichen Ereignissen oder lebenden oder verstorbenen Personen ist rein zufällig.


นี่คือนิยายที่แต่งขึ้น บุคคล สถานที่ หรือเหตุการณ์ใดๆ ที่ปรากฏในเรื่อง หากบังเอิญคล้ายคลึงกับบุคคล สถานที่ หรือเหตุการณ์จริง ทั้งที่ยังมีชีวิตอยู่หรือเสียชีวิตไปแล้ว ถือเป็นเรื่องบังเอิญทั้งสิ้น


(この作品はフィクションです。実在の出来事や人物、存命・故人との類似はすべて偶然です)


金曜日。


事務所の窓からは、冬晴れの突き抜けるような青空が見えた。

外の空気は依然として冷たく、乾燥している。


そのオフィスの中で、エミリアは朝から異常なほど上機嫌だった。

彼女は、まるでこれから初デートにでも行くかのように、落ち着きなく部屋の中を行ったり来たりし、時折、ご機嫌な鼻歌まで歌っている。


佐藤のデスクの前に、ついに仁王立ちになると、彼女は両手を腰に当て、期待に満ちたキラキラした瞳で宣言した。


「さあ、健ちゃん! 心の準備はいい? 夕方には、博多行きの新幹線に飛び乗るわよ! 目指すは、あなたの、輝かしき(?)同窓会会場よ!」


その声は、有無を言わせぬ、明るい、しかし抗いがたい圧力を伴っていた。


佐藤は、目の前のデスクトップパソコンの画面に並ぶ、まだ処理の終わらない資料の山から、うんざりした顔を上げた。


彼の肩は、これから起こるであろう出来事を思うと、鉛のように重い。


「…エミリア、本当に、そんなに今日の同窓会にこだわる必要、あるかな…。僕としては、正直、あまり気が進まないというか…できれば、この報告書の続きを…」


彼の声は、弱々しく、本気で抵抗しているというよりは、もはや儀式的な、諦めを含んだ響きだった。


エミリアは、そんな佐藤の消極的な態度を一蹴するように、彼のデスクの端に、こつん、と美しい指先で軽くノックをした。

そして、椅子に座る佐藤の顔を覗き込むように、身を屈める。彼女の、甘い香りがふわりと漂い、佐藤は思わず息を詰めた。


「でも、健ちゃん。せっかくの同窓会よ?」


エミリアは、少し声を潜め、しかし探るような、子猫のような悪戯っぽい上目遣いで、佐藤の顔を覗き込んだ。


「よく、物語のお約束であるじゃない。『同窓会で、初恋の相手と、運命の再会を果たし、新たな恋が始まる』…とか、そういうドラマチックな展開。健ちゃんには、そういう…『もしかしたら、会えるかな』って、淡い期待を抱いているような人、本当に、本当に、いないの?」


佐藤は、エミリアの、あまりにも直球で、かつ、明らかに何か(おそらくは、彼の反応)を探ろうとしている質問に、一瞬、言葉に詰まった。

彼の脳裏に、遠い昔、福岡の、陽光が降り注ぐ小学校の校庭で、快活に笑っていた少女の姿が、不意に、鮮やかに蘇る。…レイカちゃん。広東語の、独特の響き。


彼は、どこか遠い記憶の断片を手繰り寄せるように、ふっと視線を上げ、事務所の、真っ白な天井を見つめた。


「…レイカちゃん、かな…?」


呟くような、独り言のような声だった。


「うーん、でも…彼女が、今更、僕のことなんて、覚えてるとは思えないよ。それに、もう、何年も…」


「レイカちゃん?」


エミリアは、まるで獲物の名前を聞きつけた猫のように、その名前を、ゆっくりと、しかし鋭く繰り返した。

そして、さらに顔を近づけ、探るような上目遣いを、もう一度、今度は、逃がさないとでも言うように、佐藤に向けた。

その美しい碧眼の奥には、純粋な好奇心と、…もしかしたら、ほんのわずかな、嫉妬に似た何かの色が、宿っていたかもしれない。


「うん…」


佐藤は、エミリアの、その射抜くような視線から逃れるように、再び俯き、コーヒーカップに視線を落とした。


「親の仕事の関係で、香港から、僕がいた小学校に、転校してきててね。数年間だけだったけど…。僕が広東語を少し話せるのは、彼女に教えてもらったからなんだ。でも、本当に、ただそれだけだよ。もう何年も会ってないし、今さら会えたとしても、何を話したらいいか、全然わからないし…」


彼の声は、どこか他人事のように、感情が抑制されていた。まるで、自分自身に、「期待するな」と言い聞かせているかのようだった。


エミリアは、佐藤の、その、どこか突き放したような、しかし、声の端々に滲む、微かな感傷を、注意深く観察していた。

彼の言葉とは裏腹に、その瞳の奥に、一瞬だけ、甘酸っぱいような、切ないような、特別な感情の揺らぎが見えたのを、彼女は見逃さなかった。


(…ふーん、レイカちゃん、ね…。健ちゃんの『初恋』、か…)


彼女は、その名前と、佐藤の複雑な反応を、記憶の、最も重要で、かつ、最も危険なファイルが保管されているフォルダに、そっと、しかし確実に、保存した。


廊下に続く階段から、再び、あの、どこか間の抜けた、しかし耳慣れてしまった電子メロディが、事務所内に響いてきた。

誰かが上がってくる合図だ。

佐藤は、また郵便配達員だろうか、とぼんやり思った。


「おはようございます! 郵便でーす! サインお願いしまーす!」


果たして、聞こえてきたのは、いつも元気の良い、若い郵便配達員の声だった。

受付のサスキアが、音もなく立ち上がり、完璧な微笑みと流れるような動作で応対し、小さな封筒を受け取る。

配達員は、サスキアの女神のような微笑みに一瞬見惚れ、すぐに「では、失礼しまーす!」と、心なしか、いつもより弾んだ声で去っていった。


サスキアは、受け取った封筒を手に、エミリアのデスクへと、静かに近づいた。


「シュナイダー様。差出人名義『代理人(Agent Proxy Service)』より、先日ご依頼のあった、海外からの至急扱いの書類です」


その報告は、いつも通り、淡々として、感情が読み取れない。


「来たわね!」


エミリアは、待ってましたとばかりに、パッと顔を輝かせた。

まるで、待ち望んでいたプレゼントが届いた子供のようだ。

彼女は、サスキアから封筒を、ややひったくるように受け取ると、佐藤に見せつけるように、バリバリ、と、いささか乱暴に封を開けた。

中から出てきたのは、ベルベットのような内張りの、小さなケースだった。


「じゃーん!」


エミリアは、そのケースを、まるでマジシャンが鳩を出すかのように、パカリと開けて、佐藤の目の前に、得意げに突き出した。


「見て、健ちゃん! ヴァネッサには一日遅れちゃったけど、これこそ、今の健ちゃんに、一番相応しいクレジットカードよ!」


佐藤は、仕事中にいきなり目の前に突き出されたそれに、完全に面食らった。

ケースの中に収められていたのは、一枚のクレジットカード。

しかし、それは彼が見慣れたどの日本のカードとも、あるいは昨日ヴァネッサから渡された、あの重厚な金属製のカードとも、明らかに異なっていた。

色は、深く、吸い込まれるようなマットブラック。

表面には、発行銀行や国際ブランドのロゴは見当たらず、ただ、所有者名「KEN SATO」と、幾何学的な、しかし非常に洗練された、見たこともないシンボルマーク、そしてICチップだけが、控えめに配置されている。

それは、プラスチックではありえない、ひんやりとした、しかし不思議な軽さを持つ素材でできていた。

まるで、未知の合金か何かのように。


「どう? すごいでしょ?」


エミリアは、目をキラキラさせながら、そのカードの「素晴らしさ」を熱弁し始めた。


「これはね、その…ごく一部の、特別な顧客しか相手にしない、特別なカードなの! これ一枚あれば、世界中どこへ行っても、大抵のことは『顔パス』よ。もちろん、利用限度額なんて、実質ないようなものだし、健ちゃんの日本の信用情報には、一切、利用履歴すら残らないわ!」


彼女は、自分の手配したカードがいかに優れているか、ヴァネッサのカード(=普通の、追跡可能なカード)と比較して、自信満々に語る。


「これで、健ちゃんが同窓会に行く準備は、もう、完璧に終わったも同然ね!」


エミリアの笑顔は、冬晴れの太陽よりも眩しく、佐藤には、ただただ、圧倒される思いだった。

彼は、その、あまりにも現実離れしたカードと、それを無邪気に自慢するエミリアを前に、もはや、驚くとか、戸惑うとかいう感情さえ、どこか遠くへ行ってしまったような、奇妙な感覚に包まれていた。


                   ***


金曜日の昼前。


佐藤は、事務所近くの、活気はあるがどこか庶民的なスーパーマーケットで、今夜のエミリアのリクエストである鍋料理の食材を買い込んでいた。

カートには、白菜、春菊、しめじにえのき、豆腐、そして「健ちゃん、たまには良いお肉食べないと!」というエミリアの(やや強引な)リクエストに応えた、少しだけ奮発した国産の鶏肉が収まっている。

色とりどりの野菜と肉を眺めながら、彼は無意識にため息をついた。


(それにしても…賃貸の事務所で、火気厳禁なはずなのに、エミリア、どこから卓上IHコンロなんて、当たり前のように持ち出したんだろう…バレたら大問題になるんじゃないかな…)


彼の心配は、いつも杞憂に終わるか、あるいは、想像の斜め上の方法で解決されるかのどちらかだ。


そんなことを考えていると、エミリアの、さらに現実離れした発言が、彼の脳裏に鮮やかに蘇る。

報告書を仕上げながら、まるでコンビニで限定スイーツでも買うかのように、彼女は言ったのだ。


『大丈夫よ。今回のマンション群のお仕事がうまくいけば、この事務所が入っている、この古くてパッとしない雑居ビル、丸ごと買っちゃうから。そしたら、コンロの一つや二つ、問題ないでしょ?』


(ビル一棟、丸ごと…? さすがに、いくらなんでも、それは…)


佐藤は、カゴの中の白菜を手に取りながら、首を振った。

エミリアが、自分の知らない方法で多額の資産を運用しているらしいことは、薄々感づいている。

彼女が時折見せる金銭感覚のスケールは、明らかに元銀行員の自分の常識を超えている。

しかし、それでも、都内のビル一棟を、ポンと買えるほどの資産が、本当にあるのだろうか?


(…いや、待てよ。エミリア本人が買う、とは限らないか…)


彼の思考が、別の、より『ありそうな』可能性に行き着く。

あの、冷徹で、全てを支配しているかのような、『妹』の存在。


(エミリアが、ヴァネッサさんに泣きつく…いや、もっと巧妙にだ。『日本の活動拠点の確保は、組織全体の戦略上、不可欠である』とか、『このビルは、セキュリティ的にも、地理的にも、極めて重要な価値を持つ』とか、それらしい大義名分を並べ立てて、説得…いや、誘導するんじゃないか? ヴァネッサさんは、エミリアには、なんだかんだ言って、妙に甘いみたいだし…それで、結局、ヴァネッサさんが、彼女の、あの底なしに見える組織の資金か、あるいは、前にエミリアが話していた、あの『厄介な信奉者』のお金を使って、エミリアに、あるいはエミリアたちのペーパーカンパニーに、ビルを買い与える…うん、その方が、よっぽど現実的だ…)


彼は、一人、妙に納得していた。

あの姉妹の間では、常識的な理屈は通用しないのだ。


佐藤は、カート一杯になった食材を、スーパーの無人レジへと運んだ。

ピッ、ピッ、と商品のバーコードをスキャンしていく。

合計金額が表示され、彼は、ズボンのポケットから、使い慣れた、少し端が擦り切れた革製の財布を取り出した。

中には、昨日、ヴァネッサから送られてきた、重厚な金属製のクレジットカードと、エミリアが「これこそ健ちゃんに相応しい」と得意げに突きつけてきた、マットブラックの謎めいたカードも、確かに入っている。

それらは、まるで異世界のアーティファクトのように、彼の財布の中で、場違いな存在感を放っていた。


しかし、佐藤がレジの支払い端末に差し込んだのは、それらの特別なカードではない。財布の一番手前のカードポケットに収まっている、ごく普通の、彼が大学生の時に、スーパーで作った、年会費無料の、何の変哲もないクレジットカードだった。

プラスチック製の、少し傷のついたカードが、ピ、と軽い音を立てて決済を完了させる。


支払いを終え、食材がずっしりと詰まったエコバッグの取っ手を、両手でしっかりと掴む。


「…僕には、これで十分なんだけどな…」


彼は、誰に言うともなく、自嘲するように、小さく呟いた。

ヴァネッサやエミリアが与えてくれる『ステータス』は、今の自分には、あまりにも重すぎる。


店を出ると、冬の冷たい風が、容赦なく頬を打った。

空っ風が吹き抜ける、厳しく乾燥した東京の空の下、彼は、(そして、おそらくは、今日も自分が腕を振るうであろう)食材を待っている、あの奇妙な事務所へと、少しだけ重い足取りで、しかし、確かな現実感を持って、足を向けた。エコバッグの重みが、彼の日常の証のように、妙に心地よかった。


                   ***


体の芯から温まるような鍋料理の後片付けは、いつの間にか、完全に佐藤の役割として定着していた。

エミリアとサスキアは、彼が(事務所で卓上コンロを使うことへの罪悪感を抱きながらも)丁寧に準備した寄せ鍋を、美味しいわね、と褒めながらも、当たり前のように綺麗に平らげ、サスキアは既に、音もなく受付カウンターの奥にある自身の執務スペースへと戻っている。

この、奇妙なオフィスにおける、暗黙の、しかし揺るぎないヒエラルキーの最下層――それが、今の佐藤のポジションだった。

そして彼は、特に抵抗する気力もなく、それを黙って受け入れていた。


給湯室のステンレスのシンクで、佐藤は、鍋にこびりついたネギや白菜の欠片を、スポンジで黙々とこすり落とす。

窓の外は、すっかり暗くなり、金曜日の夜の喧騒が、遠くに聞こえるような気がした。

本来なら、一週間の仕事の疲れを癒やし、週末の予定に心を躍らせる時間のはずなのに、彼の心は、どんよりとした灰色の雲に覆われたままだった。


その時、背後から、やけに明るく、弾むような声がかかった。


「健ちゃん、後片付け、お疲れ様!」


振り返ると、そこには、既に外出用の、上品なカシミアのニットに、動きやすそうな、しかしラインの綺麗なパンツを合わせた姿に着替えたエミリアが立っていた。

彼女は、口では「仕事の下調べと、明日からの福岡での『市場調査』の最終準備が終わったところよ」と言っているが、その表情は、隠しきれないほどの喜びに満ち溢れ、まるで待ちに待った旅行に出かける直前の子供のようだった。


「タクシー、もう下に予約して呼んであるから!」


エミリアは、まるで最高のニュースでも告げるかのように、両手を軽く広げて言った。

その碧眼は、期待にキラキラと輝き、佐藤の憂鬱な気分など、全く意に介していない。


「健ちゃんも、早く出かける準備、終わらせてね! 博多行きの最終に近い新幹線の時間、ギリギリになっちゃうわよ!」


その声は、有無を言わせぬ、明るい決定事項の通告であり、彼女のウキウキした気分が、声のトーンからも伝わってきた。


佐藤は、エミリアの、その、あまりにも楽しそうな、そして自分の沈んだ気持ちなど全く考慮されていないであろう言葉に、手にしていたスポンジを、シンクの中に、ぽとり、と力なく落とした。

とうとう、この時間が来てしまったのか。

行きたくない、とあれほど願っていた、あの小学校の同窓会へ。

悪夢へのカウントダウンが始まったような気分だった。


彼の肩が、目に見えて、がっくりと落ちた。

重く、深い、諦念に満ちたため息が、彼の口から漏れる。

それは、シンクに流れる水の、ごぼごぼという虚しい音に、あっけなくかき消された。

エミリアの輝く笑顔が、今の彼には、やけに眩しく、そして少しだけ、恨めしかった。


                   ***


午後六時過ぎ。事務所のドアが静かに開き、コートを羽織った佐藤とエミリアが出てきた。

受付カウンターの奥から、サスキアがすっと立ち上がり、完璧な角度で一礼する。


「シュナイダー様、佐藤様、どうぞお気をつけて。ご予定に変更があれば、いつでもご連絡ください」


その声も表情も、常に変わらず冷静沈着、プロフェッショナルそのものだった。

エミリアは、「ええ、頼りにしてるわ、サスキア」と軽く片手を上げて応えると、躊躇なく佐藤の背中を促し、例のメルヘンチックなメロディが、彼らの背後で物悲しく(佐藤にはそう聞こえた)鳴る階段を、足早に降りていった。


ビルを出ると、金曜の夜の、冷たく乾いた空気が二人を包んだ。

サスキアが手配したのだろう、黒塗りのハイヤーが、音もなくビルの前に滑り込んできていた。

ドアマンのように、運転手が恭しく後部座席のドアを開ける。


乗り込んだハイヤーの車内は、上質な革の匂いと、微かな芳香剤の香りに満ち、外界の喧騒とは別世界の静けさだった。

金曜の夜、都心へ向かう道路は、やはりテールランプの赤い川となって、ゆっくりと流れている。

窓の外を、色とりどりの光のサイン、高層ビルの無数の明かり、そして家路を急ぐ人々のシルエットが、万華鏡のように、目まぐるしく流れ去っていく。

エミリアは、その光の洪水を楽しげに眺めながら、指先で窓ガラスに、小さく、秘密の音符でも描いているかのようだ。

これからの福岡での「市場調査」と、健ちゃんとの「二人きりの時間」(たとえそれが仕事の合間だとしても)への期待に、彼女の心は、今にも羽ばたきそうなほど、軽かった。


一方、佐藤は、隣に座る彼女の、その隠しきれない高揚感とは裏腹に、深くシートに沈み込み、ただ、どんよりとした気持ちで、窓の外を流れる景色を見ていた。

これから始まる長い旅。その先にある、思い出したくもない過去との再会。

そして、エミリアの『いじめっ子追っ払い宣言』…。

彼の心は、重たい鉛の塊を抱えているかのようだった。


ハイヤーが、巨大なターミナル駅――東京駅の、丸の内側の、ライトアップされた重厚な赤煉瓦駅舎前につける。

そこは、人の波、波、波。週末の夜、帰省する人々、旅行客、これから飲みに出かけるであろう人々で、巨大なホールは、巨大な生き物の臓腑のように、絶えず蠢き、様々な音と匂いを発していた。

響き渡るアナウンスの声、キャリーバッグの硬質な車輪の音、人々の喧しい話し声、駅弁や様々な食べ物の混じり合った匂い…。


佐藤は、その圧倒的な人のエネルギーに、少し気圧されそうになる。

しかし、エミリアは、そんな喧騒など全く意に介さない様子で、淀みなく、しかし優雅に、人混みを縫って進んでいく。

彼女は、人々の視線を集めていることに気づいているのかいないのか、ただ、真っ直ぐに新幹線の改札へと向かう。

佐藤は、はぐれないように、必死でその後ろ姿を追った。


指定された新幹線のホームもまた、人で溢れていた。しかし、エミリアが(サスキアを通して)予約していたのは、博多行きの最終に近いグリーン車。

他の車両の乗車口の喧騒とは一線を画し、そのプラットフォームの区画は、比較的、人もまばらで落ち着いていた。

白い流線形の、最新型の車体が、静かに、しかし圧倒的な存在感を放って、ホームに滑り込んでくる。


プシュー、という空気音と共にドアが開くと、エミリアは、佐藤を促して、先に車内へと足を踏み入れた。


グリーン車の車内は、ホームの喧騒が嘘のように静かで、暖かな間接照明に照らされ、落ち着いた雰囲気に満ちていた。

柔らかな絨毯が足音を吸収し、飛行機のビジネスクラスを思わせる、ゆったりとした間隔で配置された、重厚な革張りのリクライニングシートが並んでいる。

エミリアが指定した席は、車両の中ほど、進行方向左手の窓際でありながら、前後の乗客との間に、書類などを広げても気にならない程度の、絶妙なスペースが確保されている、他の乗客からは目立ちにくい(そして、おそらくは、エミリアが好むであろう、監視や不意の接近をされにくい)場所だった。

さすがはサスキアの手配だ、と佐藤は内心で感心した。


佐藤は、エミリアに促されるまま、窓際の、まるで自分の体を包み込むような、柔らかなシートに、深く、そして今日何度目か分からない、重いため息と共に、体を沈めた。

エミリアも、その隣に、音もなく、しかし満足げな気配を漂わせて座る。

シートの、上質な革の滑らかな感触が、彼の疲れた体を、わずかに、しかし確実に、受け止めてくれた。


やがて、発車のベルが短く鳴り、白い鋼鉄の巨体は、滑るように、ゆっくりと動き出した。

窓の外の、きらびやかな東京駅の灯りが、徐々に速度を上げて、後方へと流れ去っていく。

これから約五時間、二人は、この快適で、しかしどこか密室のような空間で、西へ、福岡へと向かうのだ。

佐藤は、窓の外を流れる、闇に沈む街の灯りを見つめながら、隣に座るエミリアの、楽しげな気配に、再び、言いようのない緊張感と、そして、ほんのわずかな、諦めにも似た安堵感を覚えていた。


新幹線は、夜の闇を切り裂き、滑るように西へと疾走していた。

グリーン車の、体を深く包み込むような、柔らかなリクライニングシートに身を沈めた佐藤は、しかし、全くリラックスできなかった。

窓の外を流れる景色――というよりは、暗闇の中に時折、宝石のように散りばめられては猛スピードで後方へと消えていく、街の灯りの帯――を、ぼんやりと眺めている。

車内は、驚くほど静かで、かすかな走行音と、一定に保たれた空調の音だけが、繭の中にいるような、現実感のない静寂を作り出していた。


隣のエミリアは、その静寂とは対照的に、エネルギーに満ち溢れていた。

彼女は、いつの間にかどこからか取り出した、何冊もの、ページが擦り切れそうなほど読み込まれた(ように見えるが、実際は今日初めて開いたのかもしれない)海外の高級男性ファッション誌を、膝の上に広げていた。

その目は、獲物を見つけた狩人のように、真剣な輝きを放っている。


「ふむふむ…やっぱり、イタリアの、クラシックだけど少し遊び心のあるジャケットがいいかしら? 健ちゃん、意外と肩幅あるから、英国式だと堅苦しくなりすぎるかも…」


エミリアは、ぶつぶつと独り言のように呟きながら、いくつかのページに、自身のスマートフォンで撮影した画像(おそらく佐藤の体型データだろう)と見比べながら、付箋を貼っていく。


「インナーは、カシミアのタートルネックね。色は…そうね、オフホワイトか、あるいは、健ちゃんの優しい雰囲気に合わせて、ペールブルーもいいかも。パンツは、ミディアムグレーのウールスラックスで決まり。靴は…」


彼女の思考は、完全に『佐藤健・最高級バージョンアップ計画』に没頭していた。


佐藤は、そんなエミリアの様子を、横目で盗み見ながら、深い、深いため息をつきたい衝動に駆られた。

彼女は、本気だ。本気で、自分を、ショーウィンドウに飾られるマネキンのように、完璧に仕立て上げようとしている。

それは、彼の意思とは全く関係なく、エミリアの『こうあってほしい健ちゃん』像を、現実世界に顕現させようという、壮大な(そして、少し迷惑な)プロジェクトなのだ。

同窓会で、過去の自分を知る人々の前で、そんな虚像を演じなければならないのかと思うと、彼の胃は、今からキリキリと痛み始めていた。


窓の外の景色が変わる。

どこまでも続いていた東京の、無数の光の点の集合体が途切れ、時折、漆黒の闇の中に、巨大な工場のシルエットや、港湾クレーンの幾何学的な灯りが、孤島のように浮かび上がる。

そして、再び、地平線の向こうから、巨大な都市の光の塊――おそらくは名古屋だろうか――が現れ、一瞬で車窓をオレンジと白の洪水で覆い尽くし、そして、また深い闇の中へと遠ざかっていく。

その目まぐるしい光と闇の移り変わりが、まるで佐藤の不安定な心境そのものを映し出しているかのようだった。


「まもなく、新大阪、新大阪です――」


やや抑揚のない、しかし明瞭な車内アナウンスが、次の停車駅を告げる。

名古屋を過ぎ、既に二時間半近くが経過していた。停車時間は、わずか1分。


「あ、そうだわ! チャンス!」


アナウンスを聞いたエミリアが、突然、悪戯を思いついた子供のように、声を上げた。


「健ちゃん、ちょっと待ってて! すぐ戻る!」


彼女は、そう言うや否や、シートから飛び起き、まるで瞬間移動のように、周囲の乗客がわずかに驚くほどの速さで、閉まりかけたドアの隙間から、新大阪駅のホームへと飛び出していった。


「え、エミリア!? ちょっと、どこ行くんだよ!」


佐藤が驚いて声をかける間もない。プシュー、という音と共にドアが閉まり、すぐに発車のベルがけたたましく鳴り響く。

ホームには、色とりどりの駅弁を売るスタンドが並んでいるのが、窓越しに見える。エミリアは、その中の一つ、特に人気のありそうな弁当のスタンドに駆け寄り、迷うことなく、二つ、三つと、温かそうな湯気を立てる弁当の包みを掴むと、閉まりかけたドアに、再び、文字通り、滑り込むように戻ってきた。

彼女の手には、弁当と、そしてデザートらしきものまで握られている。


プシュー、とドアが閉まり、新幹線は、何事もなかったかのように、再び、滑らかに、しかし力強く加速を始める。


「ふぅ、間に合った! 危ない危ない!」


エミリアは、少し息を弾ませながらも、満面の笑みで、買ってきたばかりの駅弁を、佐藤の膝の上に、どさりと置いた。

ほかほかと温かい感触と、食欲をそそる甘辛い匂いが、佐藤の鼻腔をくすぐる。


「はい、健ちゃん! 弁当と、 それから、冷たいデザート! やっぱり、長旅には美味しい駅弁がなくっちゃね!」


彼女は、まるで修学旅行を楽しむ少女のように、無邪気に笑っている。

その顔には、先ほどのファッション談義の時のような計算も、ましてや『影の女王』の冷徹さも、微塵も感じられない。


佐藤は、目の前に置かれた、温かい駅弁の包みと、エミリアの屈託のない笑顔を見つめた。

同窓会への憂鬱、様々な不安や混乱が、この、あまりにも日常的で、温かい光景と、食欲を刺激する匂いの前で、一瞬だけ、遠のいたような気がした。

彼の腹の虫は、その期待に応えるように、正直に、ぐう、と大きな音を立てた。


ほかほかと湯気を立てる弁当の、香ばしい匂いが、グリーン車の個室のような空間に満ちていた。

空腹だった佐藤は、理性を総動員して、自分で割り箸を手に取ろうとした。

しかし、それより早く、エミリアが「はい、健ちゃん、あーんして?」と、まるで幼い子供にするように、一切の悪意なく(しかし、佐藤にとっては羞恥以外の何物でもない)、熱々の牛肉を彼の口元に運んでくる。


「ちょ、ちょっとエミリア! さすがに、自分で食べられるって!」


佐藤は、顔を真っ赤にして、周囲に他の乗客がいないことを確認しながら、小声で抵抗する。

通路を通り過ぎる、上品な身なりのビジネスマンの視線が痛い。


「いいから、いいから。これも、ある種の『実地訓練』よ。将来、健ちゃんが、大事なクライアントのお嬢様とかと、こういう状況になった時に、スマートに対応できるようにね?」


エミリアは、全くわけのわからない、しかし妙な説得力(?)を持つ理屈で押し切り、結局、佐藤は、諦めて口を開けるしかなかった。悔しいが、弁当は、めちゃくちゃ美味しかった。彼女が素早く買ってきた、デザートも、彼の空腹と、ささくれだった心を満たしてくれた。


食事が終わると、エミリアは、まるでデザートのように、再び、分厚い海外の男性ファッション誌の束を取り出した。


「さ、健ちゃんの『変身計画』、第二段階よ!」


彼女は、ページをめくりながら、先ほど佐藤が(消極的ながら)「これならまだ…」と指差した、比較的オーソドックスなデザインのイタリア製ジャケットの写真を見て、ため息をついた。


「んー、これも悪くはないけど…やっぱり、決め手に欠けるわね。健ちゃんの知的な雰囲気を活かすなら、もっと、こう…シャープで、ミニマルなデザインの方が…例えば、これなんかどう?」


彼女が指差すのは、北欧系のデザイナーズブランドの、シンプルだが、カッティングと素材の良さが際立つ、明らかに高価なコートだった。

佐藤には、値段以前に、自分がそれを着こなす姿が全く想像できない。


「いや、僕には、こういうのは、ちょっと…」


彼が、か細い声で反論しようとしても、エミリアは、雑誌から顔も上げずに、


「健ちゃんには、私が選んだものが、絶対に、一番似合うの! 私を信じなさい!」


と、有無を言わさず却下する。

もはや、これはコンサルティングではなく、エミリアによる『佐藤健・理想像創造プロジェクト』だった。

佐藤は、抵抗を諦め、ただ、エミリアが選ぶであろう、自分の経済状況とはかけ離れた服たちのことを思い、再び胃が痛くなるのを感じた。


新幹線は、漆黒の闇の中を、地上を滑る銀色の流星のように、西へと疾走し続ける。

車窓を流れる景色は、目まぐるしく変わっていった。

煌びやかな都市の灯りが、まるで宝石箱をひっくり返したように瞬いたかと思うと、次の瞬間には、工業地帯の機能的で無機質な光が流れ、そして、また深い闇の中に、ぽつりぽつりと、民家の温かい灯りが点在する。

闇が深くなると、窓ガラスは、鏡のように車内を映し出し、佐藤は、そこに映る自分の、不安げで、情けない顔と、隣で雑誌に熱中する、美しいエミリアの横顔を、ぼんやりと見つめていた。


(どうして、こんなことになったんだろう…)


岡山を過ぎ、広島を過ぎ、本州の灯りが遠ざかる。瀬戸内の、穏やかな海(は見えないが、おそらくそうだろう)、規則正しい走行音が、しばし単調に響く。

やがて、九州に入ると、車窓の景色は、再び、これまでとは少し違う、力強い街の灯りを見せ始めた。


「…ん…健ちゃん…」


不意に、隣のエミリアが、小さな声で呟き、こてん、と、その淡い金色の髪を、佐藤の肩に預けてきた。


「…ちょっと、…眠くなっちゃった…着くまで、…少しだけ、…寝てもいい…?」


その声は、甘く、幼く、そして、無防備に聞こえた

。彼女は、そのまま、すう、すう、と、規則正しい、穏やかな寝息を立て始めた…ように見えた。


佐藤は、肩にかかる、彼女の重みと、柔らかい髪の感触、そして、すぐ近くから香る、甘く清潔な匂いに、心臓が、大きく、そして不規則に跳ねるのを感じた。

顔が、耳が、熱くなる。

しかし、同時に、彼は気づいていた。

彼女の体は、眠っているにしては、わずかに、しかし確実に、緊張感を保っている。

それは、どんな状況下でも、周囲への警戒を怠らない、彼女の、戦闘者としての本能。

彼女は、眠ったふりをしながら、万が一の襲撃に、あるいは、もしかしたら、自分が変な気を起こさないか(!?)監視しているのだ。

その事実に、佐藤は、ときめきと、恐怖と、そして、自分たちが置かれている状況の異常さを、改めて、複雑な思いで、噛みしめていた。


「…まもなく、終点、博多、博多です――」


無機質なアナウンスが、長い旅の終わりを告げる。

新幹線は、ゆっくりと速度を落とし、巨大なターミナル駅の、明るいホームへと、滑るように進入した。

ドアが開くと、東京駅の、人を急かすような喧騒とは少し違う、もう少しだけ、穏やかで、しかし活気のある、独特の博多弁のイントネーションが混じる喧騒が、車内に流れ込んできた。


「さ、健ちゃん、着いたわよ! 起きて!」


エミリアは、ぱっと目を開け、何事もなかったかのように、テキパキと、しかし優雅に、荷物をまとめた。彼女の瞳には、もはや眠気のかけらもない。


二人は、人の波に乗り、新幹線の改札を出る。

近未来的なデザインの、広々とした駅構内。

金曜日の夜遅くだというのに、人の流れはまだ多い。

駅前ロータリーに出ると、ひんやりとした夜風が心地よかった。

そこには、既に、サスキアが完璧なタイミングで手配したのだろう、黒塗りの、静かなエンジン音を響かせるハイヤーが、彼らを待っていた。

制服に身を包んだ初老の運転手が、恭しくドアを開ける。


「市内のホテルへお願いします。予約は『タカツキ』で」


エミリアが、流暢な、しかしどこか威厳のある日本語で告げる。


車は、夜の福岡市内を、滑るように走り出した。

佐藤は、窓の外を流れる、見慣れない、しかし、心のどこかで、微かに懐かしいような気がする街並みを眺めていた。

中洲の華やかなネオン、天神の洗練されたビルの灯り、そして、その合間に見える、古い商店や住宅の、温かい光…。

これから始まる、長い長い(と感じられる)週末に、彼は、再び、重く、しかし、ほんの少しだけ、違う種類の感情が混じった、ため息をつくしかなかった。


車は、中洲の華やかなネオンを横目に、市内でも屈指の格式を誇る、外資系のラグジュアリーホテルへと滑り込んだ。

ベルボーイが恭しくドアを開け、ひんやりとした、しかし乾燥とは無縁の、上品な花の香りが漂うロビーへと足を踏み入れる。

深夜にも関わらず、フロントは完璧な笑顔で二人を迎えた。


「高槻様、お待ちしておりました」


エミリアが予約名を告げると、チェックインは、まるでVIPを迎えるかのように、迅速かつ丁重に進められた。

佐藤は、その間、居心地悪そうに、磨き上げられた大理石の床に映る、旅で少し疲れた自分の姿を、ただ見つめていた。


案内されたのは、高層階の角部屋、広々としたスイートルームだった。

リビングエリアには、座る者を拒むかのように、しかし確実に虜にするであろう、イタリア製の大きなソファセットと、重厚なマホガニーのワークデスク。

壁一面の窓の外には、眼下に広がる博多の街の灯りが、まるで宝石箱をひっくり返したように、息をのむほど美しくきらめいていた。

厚手の絨毯が、二人の足音さえも完全に吸い込み、部屋全体が、外界とは隔絶された、静かで、贅沢な空気に満たされている。

奥には、おそらく天蓋付きであろう、キングサイズのベッドが置かれているであろう、重厚なマホガニーのドアが見えた。


「すごい部屋だね…こんなところに泊まるなんて…」



佐藤は、子供のように、素直な感嘆の声を漏らした。


「ふふ、そうでしょ?」


エミリアは、こともなげに、しかし満足そうに微笑む。


「表向きは、『海外の富裕層や投資ファンド』の代理人なんだから、これくらいの『見栄』は必要経費よ。健ちゃんの『成功者』としてのイメージ作りも兼ねてね」


彼女は、そう言うと、当然のように、自分の小さなキャリーケースを、迷わず奥のベッドルームへと運び込んだ。


リビングエリアに一人(?)残された佐藤は、自分が今夜、寝床とすることになるであろう、あの巨大で、あまりにも柔らかそうなソファを見つめ、途方に暮れた。


(まさか、本当に、このソファで寝るのか…? エミリアと同じ部屋で…?)


彼の顔が、耳まで、じわりと熱くなるのを感じた。

落ち着かない。心臓が、妙に大きな音を立てている。


バスルームから戻ってきたエミリアは、いつの間にか、肌触りの良さそうなシルクのパジャマ(?)のようなものの上に、薄手のガウンを羽織っていた。

彼女は、ミニバーから冷たいミネラルウォーターを取り出し、グラスに注ぎながら、佐藤に告げた。

その声は、夜の静けさによく似合う、穏やかな響きだった。


「明日は、午前九時にロビー集合ね。午前中は、天神周辺で、しっかり『市場調査』しましょう。美味しいランチも探さないとね」


彼女は、そこで悪戯っぽく笑う。


「午後は、健ちゃんの『最終調整』。私が予約した最高の美容室と、とっておきのお店で、健ちゃんを完璧に変身させるわ。いいわね? 遅刻したら、…そうね、今日の駅弁代、倍にして請求するから」

「…わ、わかったよ」佐藤は、なんとか声を絞り出した。

「じゃ、おやすみ、健ちゃん。しっかり休んで、明日に備えるのよ」


エミリアは、軽く手を振ると、まるで自分の部屋に戻るかのように、自然な仕草で、再び奥のベッドルームへと消えていった。

ドアが、静かに、しかし確実に、閉まる。


リビングエリアに、一人取り残された佐藤。窓の外に広がる、手の届かない、きらびやかな夜景。そして、壁一枚隔てた隣の部屋にいるであろう、エミリアの気配。

彼は、ソファに、ゆっくりと、しかし深く、腰を下ろした。

予想通り、体が吸い込まれるように沈む、柔らかすぎるクッション。


長い一日だった。東京での仕事、新幹線での移動、そして、この豪華すぎるホテル…。

彼は、明日のこと、不安と期待が入り混じる同窓会のこと、そして、すぐ隣の部屋で眠る(であろう)エミリアのことを考えた。

興奮と、不安と、そして、どうしようもない戸惑いで、彼の心臓はまだ、少しだけ速く打っていた。

今夜は、しばらく眠れそうにないな、と彼は思った。部屋には、空調の微かな音と、彼の、浅い呼吸の音だけが響いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ