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東京影譚 ~エミリア、影を紡ぐ者~  作者: ミルティア


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カレー・ノワール

この物語はフィクションです。

この物語は、法律・法令に反する行為を容認・推奨するものではありません。


ようこそ、東京の影の中へ。

ここは、光が滅び、影が支配する世界。

摩天楼が立ち並ぶ、華やかな都市の顔の裏側には、深い闇が広がっている。

欲望、裏切り、暴力、そして死。

この街では、毎夜、人知れず罪が生まれ、そして消えていく。

あなたは、そんな影の世界に生きる、一人の女に出会う。

彼女の名は、エミリア・シュナイダー。

金髪碧眼の美しい姿とは裏腹に、冷酷なまでの戦闘能力を持つ、凄腕の「始末屋」。

幼い頃に戦場で、彼女は愛する家族を、理不尽な暴力によって奪われた。

それは、彼女が決して消すことのできない傷となり、心を閉ざした。

今もなお、彼女は過去の悪夢に苛まれ、孤独な戦いを続けている。

「私は、この世界に必要とされているのだろうか?」

「私は、幸せになる資格があるのだろうか?」

深い孤独と絶望の中、彼女は自問自答を繰り返す。

だが、運命は彼女を見捨てなかった。

心優しい元銀行員の相棒、エミリアの過去を知る刑事、そして、エミリアの過去を知る謎めいた女ライバル。

彼らとの出会いが、エミリアの運命を大きく変えていく。

これは、影の中で生きる女の物語。

血と硝煙の匂いが漂う、危険な世界への誘い。

さあ、ページをめくり、あなたも影の世界へと足を踏み入れてください。

そして、エミリアと共に、非日常の興奮とスリル、そして、彼女の心の再生の物語を体験してください。

あなたは、エミリアに、どんな未来を見せてあげたいですか?

…この物語は、Gemini Advancedの力を借りて、紡がれています。

時に、AIは人間の想像を超える unexpected な展開を…

時に、AIは人間の感情を揺さぶる繊細な表現を…

Gemini Advancedは、新たな物語の世界を創造する、私のパートナーです。


この作品はカクヨムにて先行公開しており、こちら(小説家になろう)では一ヶ月遅れでの公開となります。あらかじめご了承ください。


ただし、どうか忘れないでください。

これは、あくまでフィクションだということを。

This is a work of fiction. Any resemblance to actual events or persons, living or dead, is purely coincidental.

Ceci est une œuvre de fiction. Toute ressemblance avec des événements réels ou des personnes, vivantes ou mortes, serait purement fortuite.

(この作品はフィクションです。実在の出来事や人物、存命・故人との類似はすべて偶然です)


官舎の建物は、まるで巨大な灰色のコンクリートの塊だった。

築年数は不明だが、その外壁は、長年の風雨に晒され、すすけて、ひび割れ、ところどころ剥がれ落ちている。

まるで、老朽化した巨大な墓標のようだった。

社員寮や官舎というものは、一般の分譲マンションや賃貸マンションとは、根本的に異なる性質を持っている。

そこには、職場のヒエラルキーが、まるで影のように、プライベートな時間にも付きまとう。

仕事の上下関係が、生活空間にまで侵食してくるのだ。


特に、警察の官舎となると、その傾向は顕著だ。

階級と勤続年数が、絶対的な支配力を持つ、この閉鎖的な空間では、公務とプライベートの境界線は曖昧になり、暗黙のヒエラルキーから逃れることはできない。

松田が割り当てられているのは、そんな警察官舎の中でも、男性単身者向けの棟だった。

そこでの私生活は、常に警察官としての立場、つまり階級と年功序列という、厳格なヒエラルキーに支配されていた。

そして、もう一つ、この単身者向け官舎ならではの、独特のヒエラルキーが存在していた。

それは、"恋人の有無"という、極めて私的な、しかし、この閉鎖的な空間においては、絶対的な価値基準だった。

つまり、この古ぼけた官舎に、桜井のような、若く、美しく、そして、明らかに"格上"の女性警察官が訪れ、あろうことか、松田のためにカレーを作るなどという事態が、どれほどの衝撃を、この小さな世界に与えるか…。

それは、松田の想像を遥かに超えるものだった。


 正午を少し過ぎた頃、官舎の廊下には、何とも言えない、気だるい空気が漂っていた。

非番の警察官たちが、それぞれの部屋から、レトルト食品やコンビニ弁当の匂いを漂わせながら、廊下に出てくる。

彼らは、スウェットやジャージ姿で、無精髭を生やし、まるで冬眠前の熊のように、ぼんやりとした目つきをしている。


そんな、けだるい日常の風景を、突如、切り裂くような、桜井の甲高い声が響き渡った。


「ちょ、ちょっと、松田さん! 抵抗しないでください! …本当に、カレーを作るだけだって言ってるじゃないですか! そんなに嫌がらなくたっていいでしょう!?」


桜井は、松田の腕を掴み、強引に引っ張っている。

まるで、駄々をこねる子供を、無理やり連れて行く母親のようだった。


「い、いや、だから、そういう問題じゃなくて…!」


松田は、必死に抵抗する。

しかし、桜井の力は、見た目以上に強く、まるで鋼鉄の鎖のように、彼の腕に食い込んでいた。


二人の騒ぎは、瞬く間に、官舎中に知れ渡った。

部屋のドアが次々と開き、非番の警察官たちが、眠たそうな目をこすりながら、顔を出す。

彼らの視線は、まるで珍獣を見るように、松田と桜井に注がれていた。


「な、なんだ…? 何事だ…?」

「おい、見ろよ、あれ…、桜井さんじゃないか…?」

「…マジかよ…? よりによって、なんで松田と一緒に…?」

「…まさか、あの二人…」


彼らの囁き声は、まるで波紋のように、静かな廊下に広がっていく。

その声には、驚きと、好奇心と、そして、ほんの少しの嫉妬と羨望が混じり合っていた。


「もう! そんなに嫌がらないでくださいよ! そんなに私の作ったカレーが食べたくないんですか!?」


桜井は、さらに声を張り上げた。

その声は、まるでオペラ歌手のように、高く、そしてよく響いた。

彼女の言葉は、松田の抵抗を、完全に打ち砕いた。


(…こいつ、わざと大声で…!)


松田は、桜井の意図に気づき、愕然とした。

彼女は、明らかに、周囲の注目を集めるために、わざと大騒ぎしているのだ。

松田は、観念したように、力を抜いた。

そして、まるで処刑台に引きずられていく囚人のように、桜井に引きずられながら、自分の部屋へと向かった。

官舎の廊下は、まるで迷路のように入り組んでいる。

古びた壁には、ところどころにシミや汚れが付着し、薄暗い廊下を照らす人工の光が、その古さを際立たせていた。

二人の足音だけが、静かな廊下に響き渡る。

それは、まるでこれから始まる、嵐の前の静けさのようだった。

松田は、これから起こるであろう、騒動を予感し、深くため息をついた。


「どうぞ」


松田は、重々しく玄関のドアを開けた。

まるで、秘密の聖域への入り口を開くかのように。

桜井は、期待と不安が入り混じったような表情で、その先に広がる光景を覗き込んだ。

しかし、彼女の目に飛び込んできたのは、予想とは全く異なるものだった。

そこは、ゴミの山でも、脱ぎ散らかされた服の海でもなく、意外なほどに整理整頓された空間だった。

年季の入った、簡素な机と、椅子。

壁際には、小さな本棚と、これまた小さな冷蔵庫。

そして、奥には、きちんと畳まれた布団が一組。

まるで、修道院の僧坊のように、必要最低限のものしか置かれていない、殺風景な部屋だった。


「…てっきり、ゴミの山か、万年床が敷きっぱなしの、汚部屋を想像していましたけど…。松田さん、意外と几帳面なんですね。…もしかして、普段はあまり官舎を利用されていないんですか?」


桜井は、驚きと、ほんの少しの失望を込めた声で言った。

その声は、まるで静かな湖面に落ちた小石のように、部屋の静寂を破った。


「…そりゃ、どういう意味だよ」


松田は、苦笑いを浮かべながら、部屋の電気をつけた。

照明の白い光が、部屋全体を照らし出す。

まるで、隠されていた真実が、白日の下に晒されるかのように。


「確かに、刑事という仕事柄、家に帰らないことも多いけどな…」


松田は、そう言いながら、来客用のスリッパを取り出し、桜井に差し出した。

その手つきは、まるで宝物を扱うように、丁寧で、そしてどこかぎこちなかった。


「…松田さん、もしかして、恋人とか、奥様がいらっしゃったんですか?」


桜井は、松田からスリッパを受け取りながら、遠慮がちに尋ねた。

その声は、まるで小鳥のさえずりのように、小さく、そして震えていた。

彼女は、丁寧に靴を脱ぎ、揃えると、差し出されたスリッパに足を通した。


「…この部屋に女性を上げたのは、桜井が初めてだよ」


松田は、そう言って、窓際に歩み寄った。

そして、鍵を外し、重い窓をゆっくりと開け放った。

秋の冷たい風が、部屋の中に流れ込み、埃っぽい空気を一掃する。

まるで、淀んだ水が、新しい水と入れ替わるかのように。


松田は、窓の外に顔を突き出し、慎重に周囲を見回した。

上、下、左、右…。まるで、スナイパーがターゲットを探すように、鋭い視線を走らせる。

すると、彼の視線に気づいたのだろう。

官舎の、いくつかの窓から、覗き見をしていた男たちの顔が、慌てて引っ込んだ。

その様子は、まるで巣穴に逃げ帰る小動物のようだった。


(…ったく、こいつら…)


松田は、心の中で悪態をついた。

彼らの好奇心と、そして、その奥底に潜む嫉妬心は、手に取るように分かった。


(そんなに、俺が羨ましいか…? そんなことをしている暇があるなら、少しは自分を磨いたらどうなんだ…)


松田は、そう叫びたい衝動を、ぐっと抑え込んだ。

しかし、その代わりに、深い、深いため息が、彼の口から漏れた。


「松田さん? 窓の外に、何かいるのですか?」


桜井は、不思議そうに尋ねた。

彼女は、松田の肩越しに、窓の外を覗き込んでいる。

その無防備な姿は、まるで警戒心の欠片もない子猫のようだった。


その時、上の階から、ドスン!という、何かが床を強く踏みつけるような音が響いてきた。

まるで、巨大な獣が、地団駄を踏んでいるかのようだった。


「…チッ、松田の野郎…!」


嫉妬心丸出しの声が、天井から降ってくる。

それは、まるで、地の底から響く怨嗟の声のようだった。


「…松田さん、この官舎…、ポルターガイストでも出るんですか?」


桜井は、冗談めかして言った。

しかし、その声は、少し震えていた。

彼女は、幽霊の存在など信じていない。

しかし、この古ぼけた官舎の雰囲気と、先ほどの音、そして、松田のただならぬ様子に、一抹の不安を感じていた。


「…ああ、そうだな。今日から、この部屋には、ポルターガイストが住み着くんだよ…」


松田は、自嘲気味に笑った。

その笑顔は、まるで疲れ果てた道化師のようだった。


(…モテない男たちの、怨念が生み出した、ポルターガイストがな…)


松田は、これから始まるであろう、騒動を予感し、深く、深いため息をついた。

そのため息は、まるで秋の風のように、冷たく、そして虚しかった。


松田がふと我に返ると、桜井はすでに台所を我が物顔で占拠し、何やら探し物を始めていた。

その姿は、まるで家宅捜索で証拠品を探す刑事そのもの。

鋭い眼差しは、獲物を狙う鷹のようだった。


「松田さん、お鍋とか、まな板とか、包丁とか…。調理器具はどこにしまってあるんですか?」


桜井の声は、まるで母親が子供に尋ねるように、優しく、そしてどこか有無を言わせぬ響きを持っていた。


松田は、深い、深いため息をついた。

それは、まるで人生の重荷を全て背負い込んだかのような、重苦しい音だった。

そして、部屋の隅に積まれたままの、引っ越しに使った段ボール箱を指差した。


「…人事異動で、この官舎に引っ越してきた時のまま、そこにある…、はずだ」


その声は、まるで敗北を認めた将軍のように、力なく、そしてどこか諦めを含んでいた。

段ボール箱は、埃をかぶり、その表面には、油性ペンで乱雑に「食器」「調理器具」と書かれている。


「…もしかして、普段から自炊は全くせず、外食かお弁当で済ませているんですか? …それじゃあ、バランスの良い食事なんて、夢のまた夢じゃないですか」


桜井は、段ボール箱を漁りながら、呆れたように言った。

その声は、まるで教師が生徒を叱るように、厳しく、そしてどこか呆れを含んでいた。

彼女は、中から新品同様の鍋、まな板、包丁を取り出し、まるで宝物のように丁寧に並べていく。


「…松田さん、先にお風呂に入ってきてください」


桜井は、唐突に、そして有無を言わさぬ口調で命じた。

その声は、まるで女王が下僕に命じるように、絶対的な響きを持っていた。


「な、なんだと!? さ、桜井…、お前、何を言い出すんだ!?」


松田は、桜井の言葉に、度肝を抜かれた。

その声は、まるで悲鳴のように、部屋中に響き渡った。


「松田さん、昨夜から徹夜明けで、お風呂にも入らず、着替えもしていないんですよね? …正直、ちょっと臭います。…だから、この前も、合コンのセッティングで、所轄の交通課の子たちに、『刑事部以外の方でお願いします』なんて言われちゃうんですよ」


桜井は、ぶつぶつと文句を言いながら、手際よく調理器具をシンクに並べていく。

その言葉は、まるで機関銃のように、次々と松田の心に突き刺さった。

松田は、天井を見上げ、小さく、しかし、はっきりと聞こえる声で、呟いた。

その口元は、まるで歌舞伎役者のように、大きく動いている。


「…お前らのことだぞ…」


それは、この官舎に巣食う、"ポルターガイスト"たちへの、精一杯の警告だった。

しかし、その声は、虚しく部屋に響くだけで、誰の耳にも届かない。

桜井は、調理器具を台所に用意し終えると、満足そうに頷き、松田に告げた。


「いいですか? 私はこれから、食材を買いに行ってきます。その間に、お風呂に入って、さっぱりしてきてくださいね!」


その声は、まるで母親が子供に言い聞かせるように、優しく、そしてどこか有無を言わせぬ響きを持っていた。


「私が買い物に行っている間に、もし逃げたりしたら…、どうなるか、わかってますよね…?」


桜井は、にっこりと微笑んだ。

その笑顔は、まるで天使のように美しかった。

しかし、その瞳の奥には、どこか冷たい光が宿っているようにも見えた。

松田は、桜井の言葉に、返す言葉が見つからなかった。


「…わかっているって、何をだよ…?」


精一杯の虚勢を張って聞き返したが、声が震えているのを自分でも止められなかった。


「松田さんが…」


桜井が何かを言いかけた、その時だった。


ドスン!


またしても、天井から、何かが床を強く踏みつけるような音が響いてきた。

それは、まるで巨大な獣が、怒りに任せて地団駄を踏んでいるかのようだった。


「…松田さん、この官舎、本当に大丈夫なんですか…?」


桜井は、不安そうに尋ねた。

その声は、まるで迷子の子供のように、小さく、そして震えていた。


松田は、苦笑いを浮かべながら、心の中で答えた。


(…ああ、大丈夫だよ、桜井。…ただ、この官舎は、今日から…。いや、もしかしたら、永遠に…"モテない男たちの怨念"が渦巻く、魔窟になっちまっただけさ…)


その言葉は、もちろん、桜井の耳には届かない。

古ぼけた官舎の廊下には、非番の男たちの、レトルト食品やコンビニ弁当の匂いが、混ざり合い、何とも言えない、侘しい空気を醸し出していた。


 官舎の駐車場に、まるで猛獣の咆哮のような、真っ赤なスポーツカーのエンジン音が響き渡り、そして、すぐに遠くへと消えていった。


(…食材を買いに行った、か)


松田は、一人残された部屋で、静かに呟いた。

その声は、まるで独り言のように、小さく、そして頼りなかった。


松田は、重い腰を上げ、着替えを探し始めた。

桜井の言葉が、まるで呪文のように、彼の頭の中で繰り返される。


「…お風呂に入って、さっぱりしてきてくださいね!」


あの有無を言わせぬ口調を思い出すと、逆らう気力も湧いてこない。


(…ったく、頑固で融通が利かない奴だ…)


松田は、心の中で悪態をつきながら、クローゼットを開けた。

そこには、几帳面に畳まれたシャツやズボンが、まるで軍隊の兵士のように、整然と並んでいる。

普段は、着古したスーツや、くたびれたシャツばかり着ている松田だが、意外にも、私服はきちんと整理整頓されていた。


(…風呂、か…)


松田は、ため息をつきながら、バスタオルと着替えを手に取った。

その時、上着のポケットの中で、何かが震えていることに気づいた。

取り出してみると、それは、警視庁から支給された、公務用のスマートフォンだった。

普段は、緊急の連絡以外はほとんど鳴らない、無機質な黒い塊。


(…こんな時に、誰だ…?)


松田は、嫌な予感を覚えながら、スマートフォンの画面を見た。

そこに表示されていたのは、見慣れた番号。

警視庁内、自分のデスクに設置されている、固定電話の番号だった。


(…一体、何があったんだ…?)


松田は、恐る恐る、通話ボタンをタップした。

すると、耳に飛び込んできたのは、無機質な、機械的に変換された音声だった。


「…裏切り者」


たった一言。

それだけだった。

電話は、すぐに切れた。

まるで、悪夢の断片のような、短い、そして、不気味なメッセージ。


松田は、しばらくの間、呆然と立ち尽くしていた。

まるで、石像のように、身動き一つできない。


(…一体、誰が…。何のために…?)


脳裏には、無数の疑問符が浮かび上がる。

しかし、その答えは、どこにも見当たらない。

松田は、自分のデスクから電話をかけてきそうな人物を、脳内でリストアップしてみた。

しかし、該当者は多すぎて、絞り込むことなど不可能だった。


松田は、重いため息をつき、スマートフォンの電源を切った。

そして、それを上着のポケットに、乱雑に突っ込んだ。

まるで、見てはいけないものを見てしまったかのように。


「…あいつら、一体、何がしたいんだ…」


松田は、誰に言うでもなく、呟いた。

その声は、まるで風に吹き消されそうな、か細い灯火のようだった。


 秋の日はつるべ落とし。

窓の外は、茜色から紫紺へと、空の色が刻一刻と移り変わっていく。

風呂に入った松田は、警視庁の官舎、その一室で、まるで修行僧のように、座布団の上に正座していた。

彼の目の前には、むき出しのこたつ。

それが、今夜に限っては、晩餐のテーブルとして、彼の前に鎮座している。


(…よりによって、こたつかよ…)


松田は、心の中でため息をついた。

この古ぼけた官舎は、予算不足でリフォームも建て替えも、はるか昔から先送りされたまま。

壁は薄く、隣の部屋の生活音は筒抜け。

もちろん、エレベーターなどという文明の利器は存在しない。


そんな官舎の一室、本来ならば男の汗と埃の匂いだけが漂うはずの空間に、今は、甘く、食欲をそそる、カレーの香りが満ち満ちていた。

その香りは、まるで禁断の果実のように、松田の食欲を、そして、彼の理性を、激しく揺さぶる。


台所では、桜井が慣れた手つきで調理を進めている。

彼女は、いつの間にか、退庁する時に着ていた服から、清楚な白いブラウスと、淡いブルーのフレアスカートに着替えていた。

そして、その可憐な姿に、まるで少女漫画から飛び出してきたような、カラフルな花柄のエプロンをまとっている。

その姿は、まるで新婚の妻のようだった。


新品の鍋の中で、ルーが溶け、野菜が煮込まれていく音が、静かな部屋に響く。

換気扇は、古いためか、時折、ガタガタと異音を発し、まるで嫉妬に狂った獣の唸り声のようだった。


「松田さん、カレーの辛さは、中辛でよろしかったですか? それとも、もっと辛い方が、お好みだったりします?」


桜井は、まるで小悪魔のように、松田に問いかけた。

その声は、甘く、そしてどこか挑発的だった。

彼女の言葉は、まるで禁断の果実のように、松田の心を惑わせる。


その声は、この古びた官舎中に響き渡ったに違いない。

壁の薄さは、この建物に住む全員が知るところだ。

松田は、そう思うと、全身から冷や汗が噴き出すのを感じた。


(…また、わざと大声で…!)


松田は、思わず周囲を見回した。

壁の向こう、天井の裏、そして、おそらくは廊下の隅…。

そこには、息を殺し、耳をそばだてている、大勢の同僚たちの気配があった。

彼らは、皆、非番で、部屋でゴロゴロしているか、あるいは、レトルト食品やコンビニ弁当を、一人寂しく食べているはずだ。

そんな彼らにとって、この状況は、まさに地獄の責め苦。


「…きょ、今日は…、ストレスが多かったから…、甘口がいいかな…」


松田は、できるだけ小さな声で答えた。

その声は、まるで懺悔する罪人のように、小さく、そして震えていた。


「あら、甘口がお好みだったんですか? 意外ですねぇ。…でしたら、今度からは、香辛料を使わない、胃腸に優しい料理を作って差し上げますね!」


桜井は、そう言って、無邪気に微笑んだ。

しかし、その声は、まるで悪魔の囁きのように、大きく、そして官舎中に響き渡った。

彼女は、明らかに、周囲の反応を楽しんでいる。

松田は、思わず、こたつの上で身を乗り出し、叫んだ。


「こ、今度って…、今度ってなんだ!?」


その声は、まるで悲鳴のように、部屋中に響き渡った。

桜井は、そんな松田の様子を、まるで面白がるように、ちらりと見た。

その瞳には、悪戯っぽい光が宿っている。


「何をそんなに慌ててるんですか、松田さん。…別に、おかしなことは言ってませんよ? 自分一人分のご飯を作るなら、二人分作ったって、手間はそんなに変わらないじゃないですか」


桜井は、そう言って、再びカレーのルーを溶かし始めた。

その手つきは、まるで熟練の主婦のようだった。

松田は、言葉を失い、こたつの上で、まるで石のように固まってしまった。


その時、天井から、ズドン!という、地響きのような音が響いてきた。

まるで、巨大な怪物が、怒りに任せて、床を踏み鳴らしているかのようだった。


「…松田さん、この官舎…、本当に、大丈夫なのですか…?」


桜井は、さすがに不安になったのか、手を止め、天井を見上げながら、呟いた。

その声は、まるで迷子の子供のように、小さく、そして震えていた。

松田は、苦笑いを浮かべながら、心の中で答えた。


(…ああ、大丈夫だよ、桜井。…ただ、この官舎は、古くて、ボロくて、狭くて…。そして、何よりも…、嫉妬に狂った男たちの怨念が、渦巻いているだけさ…)


その言葉は、もちろん、桜井の耳には届かない。

松田は、ただ、この悪夢のような状況が、一刻も早く終わることを、祈るしかなかった。


 桜井の手によって、まるで魔法のように生み出されたカレーは、中辛ながらも奥深いコクがあり、疲弊した松田の心と体に染み渡るような、優しい味わいだった。

サラダも、新鮮な野菜のシャキシャキとした食感と、自家製ドレッシングの爽やかな酸味が、カレーとの相性抜群だ。


二人は、古びたこたつの上に並べられた料理を、並んで座り、黙々と食べ進める。

まるで、長年連れ添った夫婦のように、自然な空気感が、二人を包み込んでいた。


「松田さん、どうですか? 私の作ったカレーとサラダ、お口に合いますか?」


桜井は、自信ありげに、しかし、どこか期待を込めたような、上目遣いで松田に尋ねた。

その瞳は、まるで子犬のようにキラキラと輝いている。


「ああ、美味いよ。…それにしても、桜井、何でいきなりカレーを作るとか言い出したんだ?」


松田は、カレーを一口食べるごとに、じんわりと広がる温かさに、心がほぐれていくのを感じながら、ふと、今朝からの出来事を思い出し、素朴な疑問を口にした。

その声は、まるで父親が娘に尋ねるように、優しく、そしてどこかぎこちなかった。


桜井は、一瞬、言葉に詰まった。

まるで、秘密を打ち明けるべきか、迷っているかのように。

そして、意を決したように、ゆっくりと口を開いた。


「…松田さんが、点数稼ぎにもならないような捜査とか、誰もやりたがらない事件とか、いつも積極的に引き受けて…。それで、疲れ切っているのは、誰が見たって明らかでした。…それなのに、霧島さんからの電話の対応までして…。挙句の果てに、あんな廊下の隅で寝てしまって…。なのに、誰も心配するどころか、声をかける人すらいないなんて…」


桜井の声は、まるで遠い国の出来事を語るように、淡々としていた。

しかし、その奥には、深い悲しみと、そして、ほんの少しの怒りが込められているように、松田には感じられた。


「…だから、同情したんです。…少しでも、松田さんに元気を出してもらいたくて…」


松田は、桜井の言葉に、胸が締め付けられるような思いだった。

そして、今朝、自販機コーナーで寝てしまったこと、桜井が強引に自分をここまで連れてきたこと…。

全てが、彼女なりの優しさだったのだと、ようやく理解した。


「…そうか…」


松田は、何と答えて良いか分からず、サラダを口に運びながら、押し黙った。

レタスのシャキシャキとした食感と、ドレッシングの酸味が、やけに口の中に広がった。


「…それに、その…、松田さんの私生活にも、少しだけ…、興味がありましたから」


桜井は、カレーライスを口に運びながら、まるで独り言のように、小さく呟いた。

その声は、まるで風に吹き消されそうな、か細い灯火のようだった。


「…こんなくたびれた、中年独身警察官の私生活なんて、桜井が興味を持っても、面白くも何ともないだろう?」


松田は、自嘲気味に笑った。

その笑顔は、まるで疲れ果てた道化師のようだった。


「それに、桜井は、若いんだし、私生活だって忙しいだろう? あまり、俺みたいなのに構ってると…」


松田は、恋人がいるのではないかと、遠回しに尋ねようとした。

しかし、セクハラだと思われたくなくて、言葉を濁した。

その言葉は、まるで迷子の子供のように、宙に浮いたまま、どこにも行き場がない。


「松田さん…、警察官一家の娘が、そんな簡単に恋人なんて、作れるわけないじゃないですか。…みんな、警察官ってだけで、すぐに距離を置くんです。…ましてや、家族全員が警察官だなんて知ったら、もう…」


桜井は、そう言って、苦笑いを浮かべた。

その笑顔は、まるで諦めを悟った聖女のようだった。


「…合コンに誘われたって、『両親に睨まれたくないから』って、他の男の人たちは、私を避けるんです。…だから、もう、警察官以外、恋愛対象にはならないのに…」


桜井は、まるで堰を切ったように、言葉を続けた。

その声は、まるで悲鳴のように、部屋中に響き渡った。

彼女は、スプーンを握りしめ、カレーライスを、まるで敵を倒すかのように、勢いよく口に流し込んでいく。


「…それなら、桜井のご両親は…。お見合いとか、そういう話は…?」


松田は、純粋な疑問を口にした。


「父も母も、自分たちは『運命の出会い』だったからって、私にも、自分で運命の人を見つけろって言うんです。…でも、それならそれで、もっと自由にさせてくれればいいのに、変に門限は厳しいし、SNSの使い方にまで口出ししてくるし…! …こんなんじゃ、運命の人なんて、見つかるわけないじゃないですか!」


桜井は、まるで爆発したかのように、一気にまくし立てた。

その声は、まるで怒れる女神のようだった。

松田は、ただただ、桜井の言葉に耳を傾けていた。

彼は、彼女の境遇を、初めて深く理解した。

そして、彼女が、自分と同じように、孤独を抱えていることを知った。


その時、またも天井から、ズドン!という、地響きのような音が響いてきた。

まるで、巨大な怪物が、嫉妬に狂って、床を踏み鳴らしているかのようだった。


「…松田さん、この官舎…。本当に、本当に、大丈夫なんですか…?」


桜井は、さすがに恐怖を覚えたのか、スプーンを持つ手を止め、不安そうに天井を見上げた。

その声は、まるで迷子の子供のように、小さく、そして震えていた。

松田は、何も言えなかった。

ただ、早くこの場から立ち去りたい、この嫉妬の渦巻く魔窟から逃げ出したい、そう願うばかりだった。

しかし、同時に、彼は、この古ぼけた官舎が、自分にとって、かけがえのない場所であることも、知っていた。


「では、松田さん。ちゃんと、お布団で寝てくださいね」


秋の夜長、月は雲間に隠れ、官舎の廊下には、頼りない照明の光が、ぼんやりと影を落としている。

桜井は、綺麗に片付けられた台所を見渡し、満足げに頷いた。

そして、見送りに玄関まで出てきた松田に、まるで母親が幼い息子に言い聞かせるように、優しく、しかし、有無を言わせぬ口調で告げた。


「カレーの残りの材料で作った肉じゃが、ちゃんと保存容器に入れて冷蔵庫にしまっておきましたから。明日の朝、温めて食べてくださいね。…あ、ご飯は自分で炊いてください。今日買ってきたお米、ちゃんと、あそこの米びつに入れておきましたから」


桜井は、そう言って、スリッパをきちんと揃えて脱ぎ、踵を返して、靴を履いた。

そして、顎で、台所の隅を指し示す。

そこには、まるでこの場に不釣り合いなほど可愛らしい、ピンク色の花柄の米びつが、控えめに、しかし、確かな存在感を放って、置かれていた。


「…それじゃあ、明後日は遅刻しないでくださいね」


桜井は、玄関のドアを開けながら、最後に念を押すように言った。

その声は、まるで釘を刺すように、鋭く、そしてどこか冷たかった。


「…いくら明日が休みだからって、羽目を外しすぎるのも良くないですよ」


松田は、苦笑いを浮かべながら、答えた。


「…はぁ、まさか。刑事ともあろうものが、裏社会の連中に弱みを握られるような、馬鹿な真似はしないさ」


その言葉は、まるで自分に言い聞かせるようだった。


「松田さんも、羽目を外すことなんて、あるんですか?」


桜井が意外そうな顔で尋ねた。


「…例えばの話だよ、たとえば」


松田はしどろもどろに答える。

その様子を見て桜井はにこやかに微笑むと


「それでは、また明後日」


と言って、玄関のドアを閉めた。


桜井の足音が、遠ざかっていく。

まるで、嵐が去った後のような、静けさが訪れた。

…しかし、それは、決して穏やかな静けさではなかった。


松田は、その静寂を破るように、素早く玄関の鍵を閉めた。

そして、まるで要塞を築くかのように、ありったけの家具を玄関ドアの前に積み上げ、バリケードを築いた。

その手つきは、まるで熟練の兵士のように、迅速で、そして無駄がなかった。


(…ったく、何なんだ、あいつら…)


松田は、心の中で悪態をついた。

彼の脳裏には、先ほどまで、この部屋に満ちていた、甘く、優しいカレーの香りが、まだ残っている。

しかし、その香りは、今や、嫉妬と悪意に満ちた、重苦しい空気に、掻き消されそうになっていた。


松田は、深いため息をつき、裏社会の連中からの襲撃に備えて用意していた、脱出用の縄梯子とリュックサックを取り出した。

リュックの中身を、一つ一つ、丁寧に確認していく。

そして、最後に、彼は、迷うことなく、冷蔵庫から、桜井が作った肉じゃがの入った保存容器と、あのピンク色の花柄の米びつを取り出し、リュックに押し込んだ。


(…誰にも渡すかよ…)


松田は、心の中で呟いた。

その声は、まるで独占欲に燃える獣のようだった。


その時、玄関の呼び鈴が、けたたましく鳴り響いた。

その音は、まるで悪魔の雄叫びのように、静かな部屋に響き渡り、松田の心臓を鷲掴みにした。


「…松田くん、いるんだろう? ずいぶんと、桜井さんと仲が良いみたいじゃないか…?」


ドアの向こうから聞こえてきたのは、ねっとりとした、まるで蛇のような声。

それは、松田が住む、この単身者向け官舎の中でも、最も敵に回したくない男、嫉妬深く、陰険なことで有名な、同僚の声だった。


「…それも、俺たちに見せつけるように、仲良く…。桜井さんの手料理をご馳走になった上に…、明日の朝食まで用意してもらって…、ねぇ?」


その声は、まるで蜜のように甘く、そしてねっとりと絡みついてくるようだった。


「…俺たちにも、桜井さんが作った料理のおすそ分け…、あるんだろうね? ま・つ・だ・く・ん…?」


その言葉は、まるで脅迫状のように、松田の心を深く抉った。


松田は、震える手で、リュックを背負い、縄梯子をしっかりと柱に固定した。

そして、まるで獲物を狙う鷹のように、鋭い視線を、廊下に向けた。

そこには、複数の人影が、蠢いているのが見えた。

彼らは、皆、息を殺し、まるで獲物を狙う獣のように、松田の部屋を窺っていた。


(…くそっ、ここまでやるか…!)


松田は、心の中で悪態をついた。

しかし、同時に、彼は、彼らの気持ちも理解できた。

この古ぼけた官舎は、男たちの、孤独と、嫉妬と、そして、ほんの少しの希望が渦巻く、魔窟なのだ。


松田は、意を決して、玄関とは反対側の窓を、音を立てないように、ゆっくりと開けた。

そして、外の様子を窺った。

幸い、まだ、誰もいない。


(…ここからなら、逃げられる…!)


松田は、心の中で叫んだ。

そして、まるで訓練された兵士のように、素早く縄梯子を窓の外に垂らした。


その時、再び、玄関のドアが、ガチャガチャと、激しく揺さぶられる音が響いた。

それは、まるで悪魔の雄叫びのように、松田の耳を劈いた。


「くそっ! 管理室から予備の鍵を借りてきたのに、玄関にバリケードを築いてやがる!」


怒号が、ドアの向こうから聞こえてくる。

それは、まるで猛獣の咆哮のようだった。


「…この中に、窓から突入できる奴はいないか!? 元人質救出部隊とか、特殊部隊とか…!」


別の男の声が、それに続いた。

その声は、まるで悪魔の囁きのようだった。

松田は、絶望的な気持ちになった。

警察官と言えども、人質救出の訓練を受けたような特殊部隊員と比べれば、自分は素人同然だ。


「任せてください! 俺だってSITですよ! 窓から突入して、松田の奴から、桜井さんの手料理を救出してきます!」


若々しい、自信に満ちた声が、廊下に響き渡った。

その声は、まるで英雄の凱旋のようだった。

すると、廊下中から、おおっ!という、感嘆と賞賛、そして、期待の声が上がった。

それは、まるで古代ローマのコロッセオに響き渡る、観衆の歓声のようだった。

松田は、必死の思いで、縄梯子を伝って、地上へと降りた。

彼の心臓は、まるで壊れた時計のように、激しく、不規則に脈打っていた。


(…なぜ、裏社会の連中からの襲撃に備えていた用意で、モテない同僚たちからの襲撃から逃げなきゃならないんだ…!?)


松田は、闇夜の中を、まるで追われる獣のように、必死に駆けながら、心の中で叫んだ。

その声は、誰にも届くことなく、秋の夜風の中に、虚しく消えていった。

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