~影の女王と五人の歌姫~ 標的はアイドル(その十四)
この物語はフィクションです。
この物語は、法律・法令に反する行為を容認・推奨するものではありません。
ようこそ、東京の影の中へ。
ここは、光が滅び、影が支配する世界。
摩天楼が立ち並ぶ、華やかな都市の顔の裏側には、深い闇が広がっている。
欲望、裏切り、暴力、そして死。
この街では、毎夜、人知れず罪が生まれ、そして消えていく。
あなたは、そんな影の世界に生きる、一人の女に出会う。
彼女の名は、エミリア・シュナイダー。
金髪碧眼の美しい姿とは裏腹に、冷酷なまでの戦闘能力を持つ、凄腕の「始末屋」。
幼い頃に戦場で、彼女は愛する家族を、理不尽な暴力によって奪われた。
それは、彼女が決して消すことのできない傷となり、心を閉ざした。
今もなお、彼女は過去の悪夢に苛まれ、孤独な戦いを続けている。
「私は、この世界に必要とされているのだろうか?」
「私は、幸せになる資格があるのだろうか?」
深い孤独と絶望の中、彼女は自問自答を繰り返す。
だが、運命は彼女を見捨てなかった。
心優しい元銀行員の相棒、エミリアの過去を知る刑事、そして、エミリアの過去を知る謎めいた女ライバル。
彼らとの出会いが、エミリアの運命を大きく変えていく。
これは、影の中で生きる女の物語。
血と硝煙の匂いが漂う、危険な世界への誘い。
さあ、ページをめくり、あなたも影の世界へと足を踏み入れてください。
そして、エミリアと共に、非日常の興奮とスリル、そして、彼女の心の再生の物語を体験してください。
あなたは、エミリアに、どんな未来を見せてあげたいですか?
…この物語は、Gemini Advancedの力を借りて、紡がれています。
時に、AIは人間の想像を超える unexpected な展開を…
時に、AIは人間の感情を揺さぶる繊細な表現を…
Gemini Advancedは、新たな物語の世界を創造する、私のパートナーです。
この作品はカクヨムにて先行公開しており、こちら(小説家になろう)では一ヶ月遅れでの公開となります。あらかじめご了承ください。
ただし、どうか忘れないでください。
これは、あくまでフィクションだということを。
This is a work of fiction. Any resemblance to actual events or persons, living or dead, is purely coincidental.
Ceci est une œuvre de fiction. Toute ressemblance avec des événements réels ou des personnes, vivantes ou mortes, serait purement fortuite.
(この作品はフィクションです。実在の出来事や人物、存命・故人との類似はすべて偶然です)
東京に日没が訪れ、アスファルトを照らしていた夕焼けの名残は、摩天楼の無機質な光に取って代わられた。
黒色の覆面車は、コンビニ近くの路肩に、所在なさげに身を寄せている。
車内は、車内特有の人工的な香りと、肉まんの美味しい香りが混ざり合っていた。
助手席の桜井刑事は、湯気を立てる肉まんにかぶりついていた。
ふっくらとした生地から熱い肉汁が溢れ出し、彼女の白い頬をほんのり赤く染めている。
一口食べるごとに、「ふーふー」と熱気を逃がす息遣いが、狭い車内に小さく響いた。
彼女の口元には、肉まんの餡がわずかに付着していた。
運転席の松田刑事は、冷え切ったコンビニ弁当の容器を虚ろな目で見つめていた。
プラスチックの容器に詰められた白米は、車外の光を反射して不味そうに白く光っている。
おかずの唐揚げは冷たく固まり、衣はしんなりとしていた。
彼はため息をつきながら、箸で唐揚げを力なく持ち上げた。
口に運ぶと、冷たい油の味が口の中に広がり、さらに気分が沈んだ。
後部座席には、今日配り切るはずだったチラシの束が詰まった紙袋が、重たげに鎮座していた。
『下着泥棒に気をつけてください』と印刷された、間の抜けた文言が、車内の空気をさらに重くしている。
「松田さん。私たち、一体何をしているのですかね?」
桜井が肉まんを一口飲み込み、もごもごとした口調で言った。
肉まんの美味しい香りが、松田の鼻腔をくすぐる。
「飯を食ってる」
松田はぶっきらぼうに答えた。
冷たい唐揚げを咀嚼する音が、やけに大きく聞こえた。
「そうですけど…」
桜井は不満げに眉をひそめた。
「本庁が大騒ぎなのに、あてにもされないどころか、連絡すらしてくるなと言われるのは、さすがにへこみますよ」
車内に微かに漏れ聞こえる警察無線は、緊迫した空気を伝えていた。
一斉に警視庁管内で行われている強制捜査の状況が、機械的な音声で報告されている。
無線機のスピーカーから漏れるかすかなノイズが、耳に障った。
「松田さんが、ある国の大使館の火災現場付近で騒いでいる時に…」
桜井は当時の状況を思い出し、呆れたように言った。
「もう偉い剣幕で呼び戻されて、とうとう松田さんも刑事部から追放って言われそうになる寸前に、とんでもない情報がどこからか流れてきて…」
彼女は肉まんを一口かじり、言葉を続けた。
「『今は松田にかまっている暇はない!桜井、松田が次馬鹿なことをした時は、お前が松田を逮捕してしまえ!!』って、私に命令して、飛んで行っちゃいましたからね」
桜井は目を丸くし、当時の状況を再現するように大袈裟に身振り手振りで話した。
肉まんを持った手が、宙を舞う。
「まったく、刑事が刑事を逮捕してどうするんだ」
松田は冷たい白米を口に押し込み、苦虫を噛み潰したような顔をした。
米粒が喉に引っかかり、咳き込みそうになるのを堪えた。
「松田さん。私、警察学校では射撃の腕が一番でしたから、逃げたりしないでくださいね」
桜井は冗談めかして言ったが、その目はどこか真剣だった。
肉まんを包んでいた紙袋をくしゃくしゃと丸める音が、静かな車内に響いた。
「桜井、おまえ、そりゃどういう意味だ」
松田は眉をひそめ、桜井を睨みつけた。
彼女の言葉の真意を測りかねていた。
「どうって…」
桜井は肉まんの残りを一口で食べ終え、満足そうに息をついた。
「逃亡犯の足止めに銃を使いたくはないですからね。できるだけ痛くないところを撃ちますけど、二階級特進とかになったら哀しいですから」
彼女はにやりと笑った。
口元についた肉まんの餡を、指で拭う。
「桜井。冗談にしては笑えないぞ」
松田は冷たい唐揚げを咀嚼しながら、重い口を開いた。
油っぽさが舌に残る。
「だって松田さん。『あとくされないように、松田は撃ってもいいぞ』ってこっそりと言われましたから、あ、これは撃たなきゃダメなのかな?と思っていたのですけど…」
桜井は真剣な表情で言った。
その真剣さが、逆に松田を不安にさせた。
肉まんの美味しい香りが、車内に充満している。
「桜井。それも冗談だから真に受けるな」
松田はため息をついた。
冷たいお茶を一口飲むと、胃の底が冷えた。
「そうなのですか!?」
桜井は目を丸くした。
「松田さんが始末屋みたいな人と協力関係にあるので、口封じするのが普通だと思っていましたよ」
彼女は首を傾げ、本当に不思議そうに言った。
美味しそうに、もう一つ肉まんを食べ始めた桜井を見て、松田はただ冷たいコンビニ弁当を黙々と食べながら、微かに聞こえる警察無線に耳を傾けるしかなかった。
外はすっかり暗くなり、コンビニの明かりが、彼らをぼんやりと照らしていた。
東京の夜は、ビルの隙間から漏れる光のサインの明かりで、不気味なほど明るかった。
深夜になる前に、と決めていたチラシ配りも、この状況ではどうなるかわからない。
覆面車のエンジンをかけようとしたその時、コンコン、と運転席の窓ガラスを叩く音が、静まり返った夜の駐車場に響いた。
松田が顔を上げると、そこにいたのはクロガネだった。
いつもの威圧感はなりを潜め、まるで逃げるように身を縮こませている。
普段なら高そうなスーツに身を包み、高級腕時計を煌めかせているはずなのに、今日は見る影もない。
ヨレヨレのチノパンに、くたびれたポロシャツ。
まるで終電を逃したサラリーマンのようだ。
その変わりように、松田は思わず眉をひそめた。
窓を開けると、クロガネは小声で、しかし切羽詰まった様子で言った。
「今夜だけ、俺を匿ってくれないか?」
アルコールと微かに汗の混じった、男特有の匂いが鼻をついた。
松田は訝しげにクロガネを見下ろした。
一体何があったのか。
普段あれほど尊大な男が、一体何を言い出すのか。
訝しみながらも、後部座席に乗るように促した。
クロガネは周囲を何度も気にしながら、まるで隠れるように後部座席に滑り込んだ。
革張りのシートが微かに軋む音がした。
松田は改めてクロガネの服装に目をやった。
いつも身につけている、ギラギラと光る腕時計や、仕立ての良いスーツはどこへやら。
代わりに、安物の腕時計と色褪せたポロシャツが、彼の憔悴を際立たせていた。
「クロガネ。いつも身につけてる腕時計や服はどうしたんだ?」
松田が尋ねると、クロガネは吐き捨てるように言った。
「あんな目立つ格好、今夜はできない」
「なぜできない?」
松田がさらに問い詰めようとした時、助手席から桜井の声が飛んできた。
「松田さん。後ろの人、どなたですか?」
肉まんの美味しい香りが、まだ車内に残っている。
「桜井、会ったことなかったか?東京の裏社会では、ちょっとした有名人だ。名前はクロガネ」
松田が説明すると、クロガネは不機嫌そうに口を挟んだ。
「何がちょっとした有名人だ。俺の名前も、松田さんのなかではちょっとした有名人かよ。まー、それより、松田さん、また相棒が変わったのか?」
後部座席でふんぞり返り、後頭部に手を回しながら、ニヤニヤと笑っている。
車内の空気が、一気に重苦しくなった。
革のシートが擦れる音が、耳につく。
松田はクロガネの態度に眉をひそめながら、淡々と答えた。
「エミリアがからかうから長続きしないだけだ。俺が相棒をいじめてるから長続きしないとかじゃないぞ!」
クロガネは鼻で笑った。
「松田さん、あのエミリアをただ働きさせているから、そういう目に遭うんだよ。さっさとエミリアなんか捕まえちまえよ」
クロガネの言葉に、桜井が力強く同意した。
「そうですよ。クロガネさんの言うように、エミリアをさっさと捕まえましょう!」
彼女の言葉には、強い正義感と、エミリアへの敵意が滲み出ていた。
松田は大きくため息をついた。
冷たい弁当の残りを片付けながら、うんざりした口調で言った。
「それができりゃ話は楽なんだけどな…」
プラスチック容器が擦れる音が、静かな車内に響いた。
「なんだ?エミリアって、なんか捕まえるとヤバイことになるのか?」
クロガネが身を乗り出して尋ねた。
シートが軋む音がした。
彼の鋭い視線が、松田を射抜く。
松田は一瞬言葉に詰まった。
どう説明したものか。
言葉を選びながら、ゆっくりと口を開いた。
「俺だって本当のところはわからん。だが、エミリアの件は、下手に突っ込むと厄介なことになりそうな匂いがプンプンしているんだ」
クロガネは松田の説明を聞き、しばらく黙り込んだ後、静かに言った。
「わかった。松田さんがそう言うなら、俺もこれ以上何も言わねえよ。こういう話の感覚は、松田さんの嗅覚ほど信用できるものはないからな」
彼の声は、先程までの軽薄さとは打って変わり、落ち着いていた。
車内は再び静かになった。エンジンの熱が冷め、車内はひんやりとしてきた。
遠くでサイレンの音が聞こえる。
三者三様の思惑を抱えながら、彼らは沈黙の中で夜の帳を見つめていた。
車内は重苦しい静寂に包まれ、三者三様の緊張感が張り詰めていた。
運転席の松田は、埃っぽいインパネに目を落とし、安物の腕時計を何度も確認していた。
チープな金属ベルトが擦れる微かな音だけが、静寂をかき乱す。
バックミラーに映る後部座席のクロガネは、ふんぞり返っているというより、むしろ深い闇に沈んでいるようだった。
その顔は陰影に覆われ、表情を読み取ることは難しい。ただ、時折、奥歯をギリギリと噛み締める音が、彼の内に渦巻く怒りを物語っていた。
助手席の桜井は、硬い表情で正面を見据えていた。
コンビニの明るい光が、彼女のショートヘアを照らし、キリッとした眉と整った鼻筋を際立たせる。
彼女の呼吸は浅く、かすかな吐息が車内に漂う。
膝の上で固く握られた拳は、彼女の緊張を雄弁に物語っていた。
松田は、重苦しい静寂を破るように、低い声でクロガネに問いかけた。
「で、クロガネ。一体何があったんだ?あんななりで、しかも俺に匿ってくれとは…。らしくないな。お前が俺に保護して欲しい件は、エミリアが関係しているのか?」
クロガネは、重い溜息をつき、軋む革張りのシートに深く身体を預けた。
車内に、かすかな革の擦れる音が響く。
彼は自身のヨレヨレのチノパンのポケットから、場違いなほど最新式の高級スマートフォンを取り出すと、後部座席から運転席と助手席の間へと突き出した。
スマートフォンの画面には、あるSNSに投稿された動画が映し出されていた。
画面の中では、派手な金髪にピアス、アクセサリーを身に着けた、ホスト時代の面影を色濃く残す男が、必死の形相で車道を這いつくばっていた。
アスファルトに擦れる服の音、掠れた息遣い、そして焦燥の色が濃い表情。
何かを探しているのか、地面を這うように移動する彼の周りを、無数の車のタイヤが容赦なく通り過ぎていく。
けたたましいクラクションの音、運転手たちの怒号や罵声が、容赦なく男に降り注ぐ。
その悲惨な光景は、周囲の嘲笑を誘い、SNSで拡散されているようだった。
「うぁ…、これは酷い…」
桜井は、画面を直視できずに顔をしかめ、同情するように呟いた。
その声は、かすかに震えていた。
松田は、眉をひそめながらクロガネに尋ねた。
「ワイルドキャットは何を必死に探しているんだ?」
クロガネは、低い声で、怒りを押し殺すように言った。
声はかすれ、喉の奥で唸るようだった。
「手榴弾の安全ピンだよ。ワイルドキャットの奴、口に突っ込まれたものが手榴弾だと思い込まされて、こんな無様な姿で必死に探すように騙されたんだ」
松田は、クロガネの言葉に一瞬息を呑んだ。
車内に、微かな静電気が走ったような気がした。
彼は冷静さを保ちながら、疑問を口にした。
「いくらホスト上がりの、武器に詳しくないワイルドキャットでも、缶コーヒーの缶と手榴弾の違いは分からなかったのか?」
クロガネは、前のめりになり、松田に顔を近づけた。
その鋭い眼光は、暗い車内でもギラギラと光っていた。
かすかな香水の香りが車内に漂う。
「ワイルドキャットを弄んだ女が普通の女なら、ワイルドキャットだって騙されなかっただろう。だが、ワイルドキャットを弄んだのは、普通の女じゃない」
クロガネの言葉に、松田は暗澹たる思いを感じた。
また、東京に厄介な人間がやってきたのかと。
彼は、感情を押し殺し、静かに尋ねた。
「誰が来たんだ?」
クロガネは、ニヤリと笑い、松田の顔をじっと見つめた。
その表情は、獲物を前にした肉食獣のようだった。
薄暗い車内、コンビニの明かりがちらつき、クロガネの顔の片側を赤く染め、もう片側を深い影の中に沈めている。
そのコントラストが、彼の不気味さを際立たせていた。
「あんたも知っているだろう。ヴァネッサだよ。エミリアの相棒の佐藤が運転していた車の助手席に座っていたヴァネッサが、ワイルドキャットの口に缶コーヒーの缶を突っ込んで、俺たちに『ご挨拶』したのさ」
松田は、クロガネの話に思わず利き手で口元を覆った。
乾いた手のひらが、無精ひげに擦れるザラザラとした音が、小さく響いた。
彼は、桜井にもクロガネにも悟られないように、深い溜息を飲み込んだ。
喉の奥で重く淀んだ空気が、肺を満たす。
車内に、再び重苦しい静寂が訪れた。
遠くで聞こえるコンビニの喧騒、ビニール袋のカサカサという音、若者たちの騒ぎ声が、この閉鎖された空間との隔絶を際立たせていた。
松田は、クロガネの言葉が頭の中で反芻していた。
「ヴァネッサ…、エミリアの相棒…、『ご挨拶』…」
ワイルドキャットの無様な姿が目に浮かぶ。
屈辱と恐怖が混ざり合った、歪んだ表情。
そして、それを引き起こしたヴァネッサという女。
彼女の行動は、単なる示威行為を超え、明確な敵意を示している。
これは、東京の裏社会に新たな嵐が吹き荒れる前兆なのか。
松田の胸に、重いものが沈殿していくのを感じた。
冷たい弁当の残りを押し込む気力も失せ、力なく容器の蓋を閉じた。
プラスチック同士が重なり合う、乾いた音が、やけに耳についた。
夜風が窓ガラスをかすかに震わせた。
秋の乾いた空気が、微かに車内に流れ込んでくる。
コンビニの淡いの光が、彼らの顔をぼんやりと照らし出す。
桜井は、クロガネから目を逸らし、固く拳を握りしめている。
その表情は、怒りとも、恐怖ともつかない、複雑な感情を物語っていた。
クロガネは、後部座席で小さく身じろぎ、視線を落としている。
その顔は、先程までの挑発的な態度とは異なり、深い陰影に覆われ、静まり返っていた。
松田は、重い溜息をついた。
このままここにいても仕方がない。
クロガネの件をどうするか、考えなければならない。
彼は、腕時計に目をやった。
時刻は午後八時を少し回ったところだ。近くの警察署に頼んで、当直の者にクロガネを預けるのが最善だろう。
そう判断した松田は、小さく咳払いをして、桜井に声をかけた。
「桜井、近くの警察署に向かうぞ」
桜井は、小さく頷き、前を向いた。
エンジンのキーを回す音が、静かな駐車場に響いた。
排気ガスの匂いが、微かに車内に流れ込む。
ヘッドライトが点灯し、コンビニの明るい光を切り裂くように、白い光が前方を照らし出した。
秋の夜風が吹き抜け、街路樹の葉がカサカサと乾いた音を立てる午後八時過ぎ。
松田は、路駐していたコンビニから程近い、薄暗い警察署の通用口へと重い足取りで向かった。
人工の青白い光が、彼の無精ひげとくたびれたスーツを一層際立たせる。
古びたコンクリートの壁はひんやりと冷たく、湿った空気はわずかにカビ臭かった。
当直の警官は、眠そうに目を擦りながらも、松田の顔を見るなり警戒の色を滲ませた。
弛んだ制服のボタンが、かすかに擦れる。
「松田さん、また何か厄介事ですか?」
松田は苦笑いを浮かべ、事情を説明した。
クロガネを一晩、大義名分としては、酒が抜けるまで留置所に預かって保護してほしい、と。
警官は明らかに嫌そうな顔をし、分厚いファイルの綴じ紐を弄びながら、面倒くさそうに目を落とした。
事務的な口調で、人員不足だの、手続きが面倒だのと、もっともらしい理由を並べ立てる。
インクの匂いが鼻をつく。
「今度、桜井が合コンするようだから、その合コンに君を誘えないか聞いておくよ」
松田が耳元で囁くと、警官の表情は一変した。
それまでの不機嫌そうな顔はどこへやら、目を輝かせ、俄然やる気を見せ始めた。
よれたネクタイを慌てて締め直す仕草が、滑稽だった。
恋人どころか、女性とまともに話したことすらないらしいその警官は、松田の言葉を二つ返事で了承し、重い留置所の扉を開ける音を立て、クロガネの収監を率先して実行に移した。
松田は、内心でほくそ笑みながら、桜井が待つ覆面車へと戻った。
冷たい金属のドアノブを握り、車内を覗くと、桜井が運転席に座っていた。
エンジンの微かな振動と、エアコンから吹き出す微風が、車内に静かに満ちている。
「お待たせ」
松田が助手席に座ると、桜井は無言で黒い覆面車を駐車場から車道へと滑り出させた。
夜の帳が下りた街を、ヘッドライトの黄色い光が白く照らし出す。
アスファルトの匂い、排気ガスの匂いが鼻をつく。
桜井は、普段プライベートで乗っているスポーツカーの癖で、発進時に少しばかりアクセルを踏み込みすぎた。
セダン特有の重たい加速に、僅かに車体が揺れる。
信号で停止する際も、やや早めにブレーキを踏む癖が出てしまったため、停止時に車体が軽く前後に揺れた。
軽い減速で、松田の身体が僅かに前のめりになる。
シートベルトが僅かに張った。
「松田さん。クロガネさんが話していたヴァネッサって、どんな人なのですか?」
桜井は、前方の信号を見据えながら、落ち着いた声で尋ねた。
彼女の横顔は、街灯のオレンジ色の光を受けて、どこか緊張しているように見えた。
硬質な表情、引き結ばれた唇。
松田は、運転の荒さに内心苦笑しながら、桜井の質問に答えることにした。
「俺が知っていることは、ヴァネッサって女性は、ここ数年で名前が知られだした裏社会での有名人だよ」
言葉を選びながら、記憶を辿る松田。
松田は、過去の事件ファイルや情報屋からの情報で得たヴァネッサの情報を頭の中で整理していた。
彼女は数年でいくつもの大きな組織を乗っ取り、その手腕は世界中の裏社会で知られるようになっていた。
数ヶ月前には、統治体制が崩壊し無政府状態だった小国に介入し、実質的に支配下に置いたという噂もある。
その影響力は、国家レベルにまで及んでいると言っても過言ではない。
車窓の外を、光のサインや車のテールランプが流れ過ぎていく。
遠くの工事現場から、重機の鈍い音が聞こえる。
「関西とかで有名だった女性なのですか?東京に来てクロガネさんの手下に『挨拶』したのなら?」
桜井は、国内のスケールでヴァネッサを捉えようとしている。
「ヴァネッサは、国内の裏社会で有名になったのではなくて、世界の裏社会で有名になった女性だよ」
松田は、桜井の認識を訂正した。
「わずか数年でいくつもの大きな組織を乗っ取って、数ヶ月前には小さくて貧しい主権国家を乗っ取ったと囁かれている」
桜井は、ハンドルを握る手に力を込めた。
タイヤがアスファルトを捉える微かなロードノイズが、車内に響く。
「松田さん。いくら私が刑事になったばかりと言っても、松田さんの話が嘘だってわかりますよ。主権国家なんて乗っ取れるわけないじゃないですか」
桜井は、運転に集中しながらも、やや語気を強めて言った。
「もともとヴァネッサが乗っ取ったと囁かれている小さくて貧しい主権国家は、統治体制が崩壊してて無政府状態だったんだよ」
松田は、窓の外の夜景に目をやりながら、静かに続けた。
高層ビルの窓から漏れる光が、星のように瞬いている。
「でも、資源も何もない国で、地政学的にも何の価値もない国だから、どの国も行動しなかったんだよ。関わっても何一つメリットがないから」
松田の声は、どこか諦めを含んでいた。
「そんな…」
桜井は、あまりにも冷酷な国際情勢の話に言葉を失った。
ブレーキランプが赤く光り、赤信号で停車する。
エンジンのアイドリング音が、静かな車内に響く。
排気ガスの匂いが、エアコンを通して微かに流れ込んできた。
「ヴァネッサは、詳しい手口は不明だが、無政府状態の混乱に乗じて市民を搾取していた複数の組織を壊滅させたそうだ。そして、比較的穏健な組織を選び、暫定的な政府として機能させ、傀儡の指導者を立てたらしい。現在は、その組織と複数のNGOが連携し、国家再建に取り組んでいるということだ。そのおかげで、以前よりは治安も落ち着いてきたらしい。NGOの支援で、食料や医療物資も行き届くようになったそうだ。ただ、根本的な問題はまだ山積みのようで…」
信号が青に変わり、桜井は再びアクセルを踏み込んだ。
松田の体がシートに押し付けられる。
「松田さん。松田さんの話が本当なら、ヴァネッサって女性は、まるで誰もしようとしなかった、小さくて貧しい主権国家の市民を搾取から救った英雄みたいに聞こえるじゃないですか」
桜井は、複雑な表情で言った。
眉をひそめ、何かを考えているようだ。
松田は、遠い目をして、呟いた。
「桜井。英雄みたいに聞こえる…。もしかして、本当に英雄なのかもね」
彼は、裏社会に流れるヴァネッサの人物像を思い出し、深く重い溜息をついた。
その息は、車内の空気をわずかに震わせた。
エンジンの微かな振動が、シートを通して体に伝わってくる。
エアコンの送風口からは、乾いた風が吐き出され、車内の空気をわずかに冷やした。
「…彼女は贅沢を好まない。身なりも質素だが、その眼光は…、ダイヤモンドよりも鋭い、と言ったところか」
松田は言葉を選びながら、ゆっくりと語り始めた。
「部下への気配りは細やかで、一度懐に入れた者は決して見捨てない。その求心力は、並大抵のものではないらしい。…無論、敵に回すと容赦しない、と聞くがな」
松田はそこで言葉を区切り、窓の外の夜景に目をやった。
高層ビルの窓から漏れる光が、星のように瞬いている。
遠くの光のサインが、夜空を赤や青に染めている。
「…彼女の周辺では、奇妙な噂が絶えない。まるで伝説の英雄譚のように、彼女の功績を語る者がいる一方で、…その裏では、血も涙もない冷酷な行為も厭わない、と囁く者もいる…」
松田の声は、低く、重い。
彼の言葉は、桜井の心に静かに波紋を広げていく。
「…だが、真実は…。俺にもわからない」
松田は再び桜井に向き直った。
彼の表情は、どこか憂いを帯びている。
「ただ…、一つ言えるのは…。彼女は、ただの裏社会の人間ではない、ということだ」
車内には、エンジンの音と、かすかな空調の音だけが残った。
夜の静けさが、彼らを包み込んでいた。
桜井は、松田の言葉を反芻しながら、前方の暗い道を睨みつけていた。
彼女の表情は、先程までの緊張に加え、深い思索の色を帯びていた。
佐藤がエリジウム・コードの応接室に戻ってからは、慌ただしさの中に、どこか温かい空気が流れ始めていた。
応接室の窓には、夕焼けというより、日没を告げる深い藍色のグラデーションが広がっていた。
摩天楼の輪郭が黒く縁取られ、オフィスビルの窓から漏れる光が、都会の夜を彩り始めていた。
応接室の中では、白いコンパクトカーから先に帰還していたエミリアとヴァネッサが、子供のように抱き合って泣いていた。
黒のパンツスーツに身を包み、仕事モードの雰囲気を纏っていたエミリアの肩は、微かに震えていた。
ヴァネッサは黒いワンピースの胸元を握りしめ、嗚咽を漏らしている。
まるで長年会っていなかった姉妹が、些細なことで言い争い、長い期間喧嘩を続けて、ようやく和解し、互いの無事を確かめ合っているかのようだった。
二人の言葉は、佐藤には聞き慣れない響きを持っていたが、テレビで聞いたような不思議な感覚だった。
激しい感情が込められているのは明らかだったが、それは罵り合いではなく、許しと和解の言葉のように聞こえた。
とても第三者が声を掛けられる状況ではなかったので、佐藤はどうしてよいかわからず、応接室のドアの前で立ち尽くしていた。
しばらくして、涙を指で拭いながら、エミリアが佐藤に声をかけてきた。
その瞳は、まだ潤んでいたが、どこか安堵の色を帯びていた。
「ヴァネッサが久しぶりに私が作った料理を食べたいらしいの。作ってもいいかしら?」
佐藤は、エミリアが料理を作れることに驚きながら、反射的に「もちろん」と答えた。
「健ちゃん。私だって煮込み料理くらいは作れるのよ」
エミリアは、少し頬を膨らませて軽く抗議し、佐藤は慌てて謝った。
応接室には、どこか懐かしい、家庭的な温かさを感じる空気が流れ始めた。
エミリアはヴァネッサに自分の私服を着せるため、佐藤は一旦応接室から出るように促された。
ドアが閉まる直前、ヴァネッサがエミリアに向かって何かを囁き、エミリアが優しく微笑むのが見えた。
廊下で待つ間、佐藤は窓から見える夜景を眺めていた。
東京の夜は、無数の光で彩られ、昼間とは全く違う表情を見せていた。
数分後、エミリアとヴァネッサが応接室から出てきた。
ヴァネッサの格好は、エミリアがよく着ているパーカーとズボンという、動きやすいカジュアルな服装に変わっていた。
驚いたことに、ヴァネッサの雰囲気はどこかエミリアに似ていた。
髪型や表情のせいだろうか、二人の間に流れる空気が、以前とは明らかに違っていた。
三人は給湯室に向かった。
給湯室は、人工的な白い光に照らされ、無機質な空間だったが、これから始まる料理の香りで満たされるだろう。
佐藤がエリジウム・コードの関係者の晩御飯である鶏むね肉と野菜の蒸し料理に取り掛かっている間、エミリアとヴァネッサは給湯室の隅で、小さなテーブルを挟んで向かい合い、何やら楽しそうに料理を作っていた。
佐藤が見る限り、ただ野菜や米に肉を入れて、塩と胡椒で味を整えたおかゆのように見えた。
しかし、エミリアはヴァネッサに何度か味見をさせながら、ああでもないこうでもないと、佐藤にはわからない言葉で話し合っていた。
時折、二人の間から笑い声が漏れ聞こえ、その様子は、まるで姉妹が昔を懐かしみながら料理を作っているようだった。
給湯室には、鶏肉と野菜の蒸される香ばしい香りと、おかゆの優しい香りが混ざり合い、温かい空気が満ちていった。
それは、応接室に漂っていた緊張感を洗い流し、和やかな雰囲気を作り出していた。
エミリアからの提案で、佐藤はエリジウム・コードの関係者たちと共に、普段は静謐な空気に包まれたダンススタジオで夕食を摂ることになった。
照明が落とされた広々とした空間には、簡易のテーブルと椅子が並べられ、さながら小さなパーティー会場の様相を呈していた。
スタジオの壁に備え付けられた大きな鏡は、夕食の賑わいを二重に映し出し、その熱気を増幅させているようだった。
彼女たちは、明日発表されるというガンアクション映画と、親会社からの独立を記念するコンサートの話題で持ちきりだった。
興奮を抑えきれない様子で、互いに身を乗り出し、早口でまくし立てるように話している。
スタジオには、彼女たちの甲高い笑い声と、食器が触れ合う軽やかな音が響き渡っていた。
佐藤は、彼女たちの熱気に圧倒されながらも、コンサートと映画の成功を心から願い、グラスを掲げた。
乾杯の音と共に、スタジオの空気が一層華やいだ。
賑やかな夕食が終わり、佐藤が食器を片付け始めると、スタジオには静けさが戻ってきた。
名残惜しそうに談笑を続ける彼女たちに別れを告げ、佐藤はすっかりエミリアが自分の部屋のように使っている応接室へと戻った。
応接室のドアを開けると、エリジウム・コードの関係者との夕食時とは打って変わって、ある種の異様な熱気が佐藤を迎えた。
窓の外はすっかり夜の帳に包まれ、遠くの街灯がぼんやりと光の点を散らしている。
薄暗い室内では、間接照明がエミリアとヴァネッサの輪郭を曖昧に浮かび上がらせていた。
二人はテーブルを挟んで向かい合っていたが、和やかな雰囲気とは明らかに違っていた。
湯気の立つおかゆのようなものを前にしているのは予想通りだが、エミリアは目を輝かせ、身振り手振りを交えて何かを熱弁している。
かすかな湯気は相変わらず塩気を帯びた香りを運んでくるが、その香りが室内の熱気を中和する力はない。
一方、ヴァネッサはというと、眉を少し吊り上げ、半ば呆れたような表情でエミリアを見つめていた。
その表情は「本当にやるの?」とでも言いたげだが、同時にエミリアの熱意にどこか生暖かく見守っているような、複雑な感情が入り混じっていた。
夕食前に給湯室で仲良くおかゆを作っていた二人の姿を思い出すと、今のこの状況は、さながら子供の突拍子もない計画に付き合わされている大人のようにも見えた。
佐藤は、一体何が始まったのかと内心首を傾げながら、二人に近づいた。
すると、エミリアがパッと顔を上げ、満面の笑みを佐藤に向けた。その笑顔は、明らかに興奮と期待に満ち溢れていた。
「健ちゃん!ちょっと手伝って欲しいことがあるの!」
エミリアの声は、普段よりワントーン高く、弾んでいた。
その声には、隠し事など微塵もなく、ただただ純粋な高揚感が溢れていた。
ヴァネッサは小さくため息をつきながらも、口元には薄い笑みを浮かべている。
佐藤は思った。
この笑顔のエミリアは、何か突拍子もない、けれども彼女にとっては最高に楽しいことを企んでいる時の顔だと。
夕食時の賑やかさとはまた違う、ある種の熱気を帯びた応接室の空気と、エミリアの無邪気な笑顔が、佐藤の好奇心をくすぐっていた。
おかゆの湯気だけが、静かに立ち上り、室内の、ある意味で異様な熱気を静かに見守っているようだった。