09.おしまい
翌日。目を覚ますと、昼だった。研究所は薄暗いため、時間感覚が無くなる。携帯には大量の着信があったが、かけ直さなかった。
「いたたた…」
身体中にある牙で刺された痕が痛々しい。足腰も鉛のように重い。ジョンが抱く側だったのは、律を相田律と別人と認識しているという、彼なりの誠意なのかもしれない。横を見ると、目を閉じた人形ようなジョンがいた。
「棺じゃなくても寝れるんだ…」
律はジョンの黒髪を梳かしてみる。
「この子にとって短い人生なんだから、もっと一緒にいてあげたいな…生き血を啜られるなら、ジョンさんだけがいいな。」
「おはよ。」
何の前触れも無く、ジョンの目が開く。
「あ…おはよう。」
ジョンは起き上がって伸びをした。病院で会ったときの凛々しさなどまるで無くなった。
「明日、論文の発表会なんだよね。」
「え?」
「成り代わった人の名義で相田律の研究を続けてたの。明日の発表が最後になるけど。」
ジョンはベッドに腰掛け、律の髪を撫でる。
「もう、研究する理由が無くなったから。最後。病院の理事長も辞めるよ。律のお世話しないといけないし。」
「お世話される方では…?」
「は?どういう意味?オレが上なんだから、律はお世話される方なの!」
ジョンが律の頬を両手で挟む。こんな倫理観が希薄で発想が子供の吸血鬼に人間の医療が支配されていると思うと、切なくなる。
「あ、そうだ。律、気付いてないと思うけど、耳。」
律は自身の左耳を触る。
「痛っ!うわ、なんか、腫れてる…」
「そっちじゃなくて、こっち。」
ジョンは律の右耳を食むる。
「あ、右耳にしたんですね。」
「ほら、オレは左耳に着けたよ。お揃いだね!」
ジョンは立ち上がり、床に落ちている服を着る。
「ピアスの左右の意味って知ってる?」
「え?知りませんよ。」
「ふふふ。教えてあげなーい。」
「人に聞いておいて何ですか!」
「まあ、律はオレのものってこと!」
「はい?」
ジョンは振り向いて、無邪気に笑う。律もベッドから、降りる。立ち上がると、足腰に違和感を感じ、座り込む。
「律、どうしたの?」
ジョンは不思議そうに覗き込む。
「いや、腰が…」
「トシってやつ?」
「まだ30歳です!」
律がジョンに勢い良く反論すると、ジョンは悪戯っぽく笑う。
「結構盛り上がっちゃったからかな?」
「わかってるなら、手を貸してくださいよ。」
ジョンは律を持ち上げて、ベッドに下ろすと、服を着させた。
「やっぱり、オレが律のお世話してるじゃん。」
「あー、そうですね。」
律は溜め息混じりに返事をする。
「そういえば、オレの名前なんだっけ?明日までに書かないと…」
「相生ジョンでどうですか?」
「そんな名前だったっけ?理事長として書いてるんだけど。ああ、これだ。」
ジョンが病院のパンフレットを見つけて、パソコンに打ち込む。
「いや、ジョンさん本人の名前の話ですよ。ジョンドゥはどうかと思いますよ。」
「名前なんて呼ばれたこと無いけどなぁ…いいよ、それで。」
パソコンを閉じたジョンは、律の横に座る。
「眠たい。律、寝室まで連れてって。」
「自分で歩け!」
律は痛む身体に鞭を打ちながら、ジョンを寝室まで運んだ。
時は流れ、7月。律は勤めていた会社とは違う会社の面接会場に行く所だった。
「今日は面接なんでしょ?いってらっしゃい。」
「この歳で面接するとは思いませんでしたけどね。」
「ちゃんと帰ってきてね。…お腹空くし。」
ジョンが目を逸らしながら、小声で呟く。
「はいはい。ジョンさんのご飯までには帰ってきますよ。そのままどっか行ったりしませんから。」
ジョンの黒髪を撫でると、左耳のピアスがキラリと光を返す。律は優しく笑うと、洋館の扉を開けた。
「ジョンさん、行ってきます!」
「行ってらっしゃい!律!」
互いに手を振り合って、律は右耳のピアスに光を受けながら、新しい道を歩みだした。