01.はじまり
朝5時。目覚まし時計は容赦なく鳴り響く。
「もう少し寝かしてくれ…」
布団から目に隈を作った男が、手を伸ばし、時計を止める。朝の支度も程々に、アイロンの掛かっていないワイシャツと安物のスーツで部屋を出る。
「おっとっとと。」
部屋の扉の内側に張り付けてある名札には「相生 律」と書かれていた。
会社に着くと、もう既に鍵が空いており、律は最後から二人目だった。
「相生、遅かったな。」
「スミマセン。」
正式な定時より3時間近く早いというのに、上司である課長から注意を受ける。理不尽ではあるが、人手不足の中ではそれも仕方ないと諦めて、形だけの謝罪をする。
「相生、今日って健康診断だよな?」
デスクに座るなり、隣の同僚が声を掛けてくる。
「ああ、そうだよ。12時だっけ。それまでにこれ片付けておくよ。」
「サンキュ。何か食って延期とか無いようにな?マジで。」
事務的な会話を終えると、パソコンに向かって作業する。課長の代わりの謝罪メールと顧客の理不尽な要件のまとめが主な仕事だった。
昼休みに入ると、健康診断のため、近くの病院へ向かう。面倒臭いと思いながらも、法律で決められてるため、渋々従う。
「相生さんですね。こちらにどうぞ。」
身長体重、その他諸々。まだ胃カメラはしなくて良いのが救いである。こんなに健康体であるのに、何を調べる必要があるのか。そう思いつつ、医師との面談に呼ばれる。
「こんにちは。私の事、覚えてますか?」
医師とは思えない少年が椅子に座っていた。
「えっと…去年も担当されてたんですかね…?」
こんな衝撃的な、顔立ちの整った、所謂、美少年という医師に会っていたなら、覚えているはずだ。
「あ、覚えてないなら、いいです。問診入りますね。」
白衣に映える短い黒髪に、宝石の様な深紅の目。見惚れすぎて、問診の内容など右から左である。
「はい。以上です。…個人的にご相談があるのですが、よろしいでしょうか?」
律は頷く。この美少年医師から何の相談を受けるのだろうか。人生初のナンパだったら、どう断ろうか。そんな空想を膨らませていた。
「住み込みで治験のご協力を、お願いしたいんですよ」
「はい?」
「貴方、珍しい血液型でしたよね?それにこんなに健康体。今後の研究の為にご協力お願いできませんかね?…もちろんお手当ては出しますよ。」
「あー…あの、僕、会社が激務なので…時間が無くて…」
「ご協力いただけない、と?」
「はい。申し訳ございません。」
「…そうですか。研究所に住んでいただく形なので、会社に勤めていらっしゃっても、大丈夫ですよ?」
何が大丈夫なのかわからないが、こんな怪しい誘いを受ける訳が無い。
「いや、家に帰りますので結構です!」
「そうですか。残念です。」
赤い瞳が律を惜しそうに見上げる。研究は役に立つかも知れないが、今はそんな余裕は無い。早く会社に戻って仕事をしなくては。
昼食を摂りながら病院から戻り、午後の仕事を始める。凄まじい業務量に圧倒されていると、時計の針は23時を指していた。24時にはビルの警備の関係で社内にいてはいけないので、帰り支度を始める。周りも同じ考えのようで、せかせかと社員が帰り始める。家に着く頃には24時を回っていた。
(もう、いい加減この仕事辞めたい。いつ切り出せばいいんだろう?)
今日も同じ事を考えながら、眠りにつく。
三日後、いつも通り同じ時間に起きて、同じ電車に乗る。会社のあるビルに着くと、規制線が張られていた。
「爆破事故だってさ。」
知ってる同僚が、呟く。
「え…仕事残ってるのに!」
「仕事どころじゃねぇだろ。本社からメール来てるだろ?しばらく休みだ。」
携帯を確認すると、同僚の言っていた通りだった。
「こんな事で長期休暇が貰えるとは思わなかったよ。はぁ、給料大丈夫かな?」
同僚は溜め息を吐きながら、駅へ去っていった。律も自宅アパートへの帰路へついた。
「嘘でしょ?」
今朝、出ていった部屋には管理会社の鍵とシールが貼られていた。
「あら?相生さん、もう退去されたって…」
すれ違う程度の仲の隣人に驚いたように話し掛けられる。いつの間に退去手続きなんてしたのだろうか。里親の元に帰るのも気が引ける。
帰る家も会社も無くなり、公園のベンチに座る。5月といえども、日は短く、辺りは薄暗くなり始めた。
(なんなんだよ、突然。これから何処に行けばいいんだよ!)
焦燥感から、足元の石を蹴る。コツンと音がして、誰かの靴に当たった。
「あ!すみません…」
謝ろうと顔を上げると、昨日の美少年医師がいた。
「住み込みの治験、ご協力いただけますかね?」
白衣に日傘。薄暗い中に輝くような、白い肌に深紅の目。律を嘲笑うかのような口元が脅しのような選択を突き付ける。
「…はい。よろしくお願いします。」
「ご協力感謝します。さて、わたくしの研究所まで向かいましょう。」
陶器のような手が差し伸べられる。律は躊躇ったが、その手を掴むことにした。