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姉が就職した 〜目が覚めたら親友の弟だった〜

作者:
掲載日:2024/06/03

 僕の親友はシャーロック・ホームズのようだと、何度か思ったことがある。

 もちろん、現代では完全に違法となったコカインやアヘンなど手を出したことは一度もないし、昨今ではあまり歓迎されなくなった煙草も吸わない。

 まぁシャーロック・ホームズも法の番人と言われていたから、このあたりもそれらしくないことの証左にはならないのだけれど。

 別に警察の捜査に協力しているわけでもないし、探偵をやっているわけでもなかった。

 ならなんだと言われると、シャーロック・ホームズの為人、と言うのだろうか。

 食事にあまり興味がないところとか、異常な記憶力とか、ほとんど寝ないところや、外出を好まず真っ白な日焼けしない肌や、痩せているせいで遠目には身長が高く見えたり、恋愛を必要としなかったり、あまり人付き合いを好む方ではないところとかが。

 ただ挨拶をしただけで、「体調悪いね」と言い当てられたこともある。親でさえ気づきもしなかったのに。

 それが百発百中なものだから、驚きを通り越して何やら薄ら寒かった。このあたり、親友はシャーロック・ホームズだとしても、僕は親友のボズウェルにはなれなかったと残念なところだ。

 ただ、僕たちの友情は一方通行ではなかったと、僕は死ぬまで思っていた。

 とても頭の切れる友人は勉強もできた。塾には通っていなかったし家庭教師もいなかったと言うのに。

 そんな友人が第一志望を、友人の偏差値からしたらかなり下の、僕が死ぬ気で頑張ればギリギリ入れるんじゃないかという地元国立大学にしたから。

 遊んでいても受かるだろう大学を選んだ友人は、自習時間はほとんど付きっきりで僕の面倒をみてくれた。

 自習といっても各自の受験対策用に割り当てられた時間で、みんな赤本やら模試の復習やらに勤しんでおり、質問に答えるために教師が一人ついていた。

 教師が「余裕だな」と友人に嫌味を言ったのに腹が立った僕は、言い返すべく大きく息を吸い込んだが、友人の方が早かった。

「教えるのは良い復習になります」

「その時間を自分に当てればもっと上を目指せるだろうに」

「どのみち他に行く気はないので。たとえ偏差値が後10上がったとしても変わりません」

 友人の偏差値が10も上がったら東大理三に余裕で行けてしまうじゃないか。

 そんなことになったらたとえ浪人したって一緒に通えない。

「友情に篤いな」

「どうも」

「親友のためにもお前は頑張れよ」

 と矛先がこちらに向いたが、僕は黙って頷くしかできなかった。

 だと言うのに、友人の唇が音にはせずに「うるせえよ」と動いたので、僕はひどく驚いた。友人はとても品行方正な優等生だったからだ。



 さて、こんなところで僕の前世については大まかにわかっていただけたと思う。

 就活を勝ち抜いたその先の生活が、短く終わったのは残念だったが、僕は満足していた。

 友人にとってたった一人の友人である自分がいなくなるのは申し訳ないと、最期に考えたのはそんなことだった。

 そこで僕の記憶は一度途切れ、次に気づいた時には、僕は友人の——実弟に、なっていた。

 友人の家族構成はこうだ。

 祖父・祖母・父・母・弟。

 ちなみに弟と友人は年子。

 これはここ数年ずっと流行っている小説の一大ジャンル、転生とは違うと思う。ならなんなのかと言われると実に難しいのだが、この人生はやり直しではない、と思うからだ。

 二人分の記憶を抱えるのはさして容量のない僕の、あるいは友人の弟の脳にはオーバーワークだったようで、何日か熱を出した。

 どうやら弟は体が弱く、割と頻繁に熱を出していたらしい。

 記憶が統合され終わると、僕は熱のせいではなく何度か吐いた。

 それは記憶の醜悪さにだった。

 僕のものではなく、この体の持ち主である、友人の弟の記憶の。



 その記憶によると、僕の友人は——この体の持ち主の姉は、生まれついてのヤングケアラーだった。

 

 物心のついた頃からずっと体の弱い弟のケアを任され、それなりに丈夫になった頃には足を悪くした祖母の代わりに家事を、その後は癌に冒された祖父の看病を、立て続けに交通事故を起こす父の手続きを代行し八つ当たりを一身に受け、母のヒステリーの的になった。

 ずっと看病されていたはずのこの弟は、それに少しも感謝せずに、当然のことと受け止め姉の手助けもせず、面倒ごとの一切を姉に引き受けさせ、自身は遊び呆けていた。

 許せないのは、両親がしていた行いを自分もしていいと思い、家庭の外であった嫌なことを姉への暴言と暴力で発散していたことだ。

 小学校を卒業するまで、姉はなんでも言うことを聞いてくれて、一緒に遊んでくれた。体の大きかった姉は、小柄だった弟を高い高いもおんぶも抱っこもなんでもしてくれて、一緒に風呂に入り、かくれんぼも鬼ごっこもテレビゲームもなんでも一緒にしてくれたのだ。

 ところが中学生になると、姉は全く遊んでくれなくなった。

 それが面白くなかった弟は、あらゆる暴言を吐いた。「そんな性格だから友達ができないんだ」と姉に言い放った。

 ひどく傷ついた顔をして、声も立てず涙を流した友人の顔を、この記憶で見た僕は、こいつを殺したくなった。

 性格のせいじゃない。時間がなかったのだ。一切の家事を任され、足の不自由な祖母の手助けを何くれとなくして、時に熱を出すこの弟のせいで看病もしなければならず、学歴コンプレックスのある母のせいで勉強に手を抜くことは許されない。

 時間もなければ、体力だってなかったろう。

 そして小学校高学年になった頃から、彼女の口数は極端に減っていた。遊んでくれるのは変わらなかったが、それまで面白い笑い話を作っては毎日のように聞かせてくれたのに、それがなくなった。元々風呂嫌いだったが、頭を洗う頻度が二日に一度に減った。

 多分、この頃がうつ病の初期症状だ。

 恐ろしいことに、記憶から推測するに、彼女の睡眠時間は高校時代から、おそらく3時間にも満たなくなっていた。

 ナポレオンだって馬に揺られながら寝ていたはずだし、世界一寝ない日本のビジネスマンだって、通勤電車で補っている。

 だが高校時代自転車通学していた彼女にはそれも見込めない。

 友人は少し目を離すと何故かいつも目を閉じているという謎の癖を持っていたが、あれはおそらく寝ていたのだ。

 声を掛ければ返答はあったし、寝ぼけたそぶりもなかったので、誰も居眠りしていたとは思っていなかったはずだ。

 この記憶の中の弟ですら、パソコンばかり見ているからだと思っていた。



 さて、折り合いなど付けられそうにない酷い記憶にのたうち回る僕を面倒見てくれるこの体の持ち主の姉であり、僕の親友は、今回に限っては面倒など見てくれなかった。

 何故か。


 生まれながらのケアラーであり、弱い人を見捨てられず、自己犠牲を少しも厭わなかった姉は、彼女の味方でいてくれた祖母の介護を自分の手でしたいがために、「小説家になりたいから、アルバイトでもするよ」とあっさり新卒切符を手放した。

 当時それを聞かされた僕は、それを少しも信じなかった。親友は多方面に才能があったけれど、本人はどちらかといえば理系の頭の持ち主だった。文系・理系どちらも満遍なくこなせるとはいえ、高校は理系だったし、担任にも理工学部あたりを薦められたと聞いた。

 それに何より、恋愛に全く興味のない友人が、日本で小説家になるのは難しいのではないかと思っていたし、僕が考えることなんか頭の良い友人はもちろん気づいているはずだった。

 ただ、あまり深く踏み込まなかった、というか踏み込ませてもらえなかったが、何某か事情があることは鈍い僕にだって察せられた。

 もしも本当に心からそれを夢見ていたと言うのなら、多少は瞳を輝かせているはずなのに、そう言った時の友人の瞳にあるのは諦めと諦念くらいで、あれだったらよっぽど僕の話を聞いている時の方が楽しそうだった。

 何だったら僕の当時の恋人の怒りを買ってしまい、二人揃って全力で走って逃げていつしか笑い出した時の方が、まだマシな目をしてた。


 だと言うのに、友人の家族は。

 母はそれを鵜呑みにした。高校時代の彼女は作文コンクールでいくつか賞を受賞していたし、難しいことではないように思えたのだろう。

 父親は出来の良すぎる娘に対して、進路がそんなものであることに、下世話な言い方をすれば胸の空く思いだったから何も言わなかった。狭量な屑としか言いようのないこの男は、時代錯誤も甚だしい男尊女卑を今も後生大事に信奉し、自分よりも学歴のある娘を目の敵にしていた。

 この体の持ち主に関しては、語りたくもない。


 そんなこの家庭の搾取子であった僕のかけがえのない親友は、僕という友人を失った事で、ぷつりと何かが切れてしまったようだった。

 いつもの八つ当たりの酷い物言いに対して、「わかった。それなら就職するよ。フルタイムの正社員でね」

 僕が死んでから数年、新卒切符はとうになくなり、既卒とも言い難い年齢になっていた彼女を、家族は嘲笑った。できるはずもないと踏んだのだろう。

 その記憶を覗き見た僕は、バカだなこいつらと思った。

 この県内にいる限り、僕らの出身大学はトップブランドだ。しかも彼女はシャーロック・ホームズのように、やろうと思えばいくらでも理想的な好人物を演じられる。

 書類選考にしたって、彼女の顔色の悪さ、不健康さをなんとか隠す術なんて、このAI全盛期にはなんの問題もないし、彼女の文才は群を抜く。

 果たして彼女は——この家庭の面倒ごと全てを一切合切引き受けていた長女は、週五日、毎日9時間以上、家を空けることになった。

 ここまで聞けば、その惨状が目に浮かぶようだろう。

 今まで、ろくに働いてないんだから当然だと、言っていた家事を、介護を、誰がする?

 家族は当然のように、姉がすると思っていた。

 ところが姉は、誰が起きるよりも早く出社してしまった。祖母用の介護食しか用意されていない台所を見て、両親は喧嘩を始めた。

 驚いたことに、父親はお茶すら一人では淹れられなかったのだ。電気ポットの使い方も、電子レンジの使い方も知らない。

 一人ではカップラーメンすら作れない。

 そして悲劇はそこでは終わらなかった。姉の帰宅は夜10時を回っていた。当然用意されているべき夕食も、やはり祖母の分しかなかったのである。

 僕が吐いたものと祖母の排泄物とで、家の中はひどい臭いだった。

 姉への愛情を丸ごと含めた二人分、弟に愛情を注いできたはずの両親は、その僕の吐いたものの後始末すらせず、言い合いをまた始めた。

 帰宅した姉は家の惨状に目もくれず祖母の元へ行き、排泄物の始末をし、誰も使えなかった電子レンジでホットタオルを作ると祖母の身体中を拭き清め、手早く服を着替えさせると祖母に温めた介護食を与え始めた。

 ほろほろと涙をこぼしながら、「ごめんね、お腹すいたよね。明日はちゃんとヘルパーさんが来るから。ごめんね」と、優しい声で。

 自分で吐瀉物の後始末をして、姉へ声をかけようとして祖母の部屋へ行った僕は、ともすればまだ台所で言い合いをしている両親の声にかき消されそうな、親友の、声を。

 少しは期待していたのだろう、その悲しい、声を、聞いて。

 あぁ、僕は君の親友ではなかったんだと知った。

 彼女が、こんなに苦しい生活を、ずっとずっと、長い間していたことを、知りもしなかった。

 


 祖母の世話を終えた彼女は、自分の部屋へ向かった。彼女はまだ着替えすらしていなかったから、当然だった。感情の抜け落ちた表情で、僕を見ても視線すら動かさなかった彼女の部屋へ、両親が向かうのを見て僕は後を追った。

 ノックもせずに父親はドアを開けた。着替え中だった彼女の、肌着しか着ていない上半身が見えたのに、父親は意に介さず部屋に入り、彼女の腕を掴んだ。

 僕は顔色を変えた。

「お前は何をやってるんだ」

 と罵った父親を、鏡に向かって言えと言いたくなるのを堪え、姉から引き剥がして部屋から連れて出て、後ろ手にドアを閉めた。

 戸惑う両親の、というよりも母の顔、怒りのおさまらない父の顔。

 こいつらは、本当に人間なのだろうか。

 今、何をやったかわかっているのだろうか。

 僕はこの体の持ち主の記憶を探り、彼女の部屋には鍵がないことを知って、真っ青になった。これは日常的に繰り返されている。

 この母親は、自分の娘が、着替え中に、父親に乱暴されそうになったことを、目の前で見ていたのに、止めようともしなかった。

 当然のように見ていて、止めた僕に対して戸惑いを見せている。

 この家の中で、彼女の救いは祖父母だった。

 祖父はもういない。祖母もあの状態だ。

 

 彼女が恋愛に全く興味を示さなかったのは、これが原因だろうと僕は気づいた。

 あの記憶の中の、僕が吐いた原因の中でも一際酷かったあれは、夢ではなく現実だったのだと知った。

 男嫌いの原因も、厭世的な原因も、全てこの家族のせいだ。


 

 体調がマシになった僕は、翌朝いつになく早く起きて、台所で親友を待った。

「おはよう」

 彼女はひどく体を震わせたのち、すっと表情を消した。

「……今日は僕がおばあちゃんをみるよ」

 表情が動いた。

 とはいえ、ひどく気味の悪いものを見る目だった。

「今日は休む。まだ有給残ってるから。おばあちゃんの夕飯の、温め方を教えてくれる?」

「ばあちゃんに何かしたら許さない。絶対に」

 こんな顔ができるんだ、と驚いた。と同時に、情けないことに一歩後ずさってしまった。平和な家庭に生まれ育って、穏やかな普通の学校生活をしてきた僕にとって、この体の持つ記憶と昨日この目で見聞きしたものは相当ショックだったけれど、漫画風に言うなら、きっとこれが殺気というものだろう。厨二病を拗らせたことはないが、それなりの黒歴史はある。全然底が浅かった。

 彼女は本当に優等生だったけれど、この家庭はまさに修羅場と同じだったのだろう。

 普段の穏やかで優しい彼女からは想像もつかなかった。

 あの時の、声に出さず「うるせぇよ」と呟いた彼女は、まるで本気ではなかったということもわかった。



 ヘルパーは男だった。多分、このひどい家庭に、問題だらけの家族に、女性を招き入れることは避けたかったのだろう。彼女はいつも、女性には優しかった。

 ひどく荒れ果てた家に、壮年のヘルパーは何も言わなかった。

 気まずくなって僕の方から「散らかっててすみません」と声をかけると、優しい表情を浮かべて、「今まで一人で介護してらしたんでしょう。家事に手が回らないのは当然ですよ」と頷いてくれた。

 僕はしまった、と思った。これはきっと、彼女に、彼女が聞くべき言葉だった。


 彼女は、本当にただばあちゃんの面倒が見たいというなら、ヘルパーが変なことしないか見張ってろと、それだけ言った。

 本質的に男を信用していないのだろう。介護ベッドの柵と同色で、パッと見わかりづらく細工されているが、カメラがあるのに気づいて肝を冷やした。

 多分、スマホに映像を飛ばすタイプだ。仕事中の休み時間にでも見ているのだろう。

 もしくは、何かあった際に証拠として提出するつもりだ。


 

 出前を頼んで、帰ってきた両親に振る舞った。

「お前は姉と違って気が利くな」

「本当に良い子ね」

 初めて本気で人を殴りたいと思った。

 どういう神経をしているのだろうか。

 

 10時過ぎに帰宅した彼女は、冷蔵庫を見るなり、少し気落ちした顔をした。

「どうしたの?」

「……いや、明日食べるからいい」

「え?」

「……ちゃんと見張っててくれてありがとう」

 僕の記憶の中ではなく、この体の持ち主の記憶の中で見た顔だ。

 ずっとずっと昔の。彼女が楽しみにしていた天体望遠鏡。地動説を知らなかったホームズに似てるのになんだか逆説的で面白い。

 祖父からのプレゼントを、組み立ててあげた。でも部品を無くしてしまって、永久に未完成になった。

 それでも習い事から帰ってきた姉は、今みたいに、困ったような顔をして複雑な、それでも笑顔を浮かべてお礼をくれたのだ。

 ……本当に優しい。僕だったら絶対に恨むのにね。

 あんな両親の元にどうしてこんな優しい人が生まれるのだろう。

 彼女が去った後で、冷蔵庫を開けてみると、そこには大きめの丸皿に盛られた、この体の持ち主の好物料理があった。

 彼女が大好きな祖母の面倒を見ると言ったことへのお礼だったのだろうか。

 

「……そんな、だから、こいつらつけあがったんだよ……」

 僕はぐちゃぐちゃな顔で笑った。

 気づけば鼻の奥がつんとして、涙が止められなかった。

 いつの間に作ったんだよ、本当に。こんな最低な弟のために。

 彼女は天使か何かなのだろうか。


 ドアをノックすると、返事があった。でもドアを開けずにもたれて声をかける。

「ねぇ、あれ明日食べても良い?」

 返事はなかった。肯定なのだろうか。諦めて背を向けようとした頃。

「食べるなら朝にしろ。傷むから」

 とだけ、返事があった。

「ありがと、お姉ちゃん」

 急にドアが開いたので、僕は顔をぶつけそうになった。

「うわ、っ」

 親友の訝しそうな顔がそこにはあった。

「まだ体調悪いのか?」

「ううん。もう全然」

「……なら、なんだその喋り方は」

「喋り方?」

「なんのキャラクターの真似だ?」

 キャラクター。アニメ? この歳で?

 と思ったが、確かに記憶を辿ると、この体の持ち主は姉のことを呼び捨てだったことに気づいた。それから姉の好きなキャラクターの口真似ばかりしていたことを思い出す。

 ついでに、その記憶から彼女はそれを非常に嫌がっていたことを推察できた。

「……だめ?」

「ああ」

「……ちなみに、理由を聞いても?」

 彼女は露骨に顔を顰めると、「口調を改めると約束するなら」と言った。

 どうせこいつら守らないのに、本当に甘いなと思いながら苦笑して頷くと、彼女は苦虫を噛み潰したような顔のまま答えた。

「その口調は私の死んだ親友のものだ」

 どきりとした。

 彼女は本当に、シャーロック・ホームズのようだった。



「お姉ちゃん、おいしか……美味かった、ありがと。……ありがとう」

 この体の持ち主の口調というのは、ひどくタチの悪い人間そのもので、僕とは馴染まなかった。と同時に、彼女が品行方正な優等生なのに、時折驚くほど口が悪いことの理由を知れた。

 とはいえ、嫌がる彼女の手前、なんとか口調を変えるべく奮闘している。

 彼女は聞くに耐えないという顔のまま、ただ黙って頷いた。

「今日は早番だから、早く帰って様子を見てたけど……様子を見てやった?」

 疑問系になってしまった。

 彼女は吹き出さず、ただ顔を顰めただけだった。

「けど、大丈夫そうだったよ。大丈夫だった。後何か、手伝えることがあれば」

「仕事は」

「明日は普通に入ってる」

「なら良い。教えるのが手間だ」

「……そっか。じゃない。そうか」

 彼女はまた顔を顰めて、それから洗濯機の使い方はわかるか、と聞いてきた。多分できるんじゃないかな、と思って頷くと、「洗濯表示の見方はわかるか」と聞いてきた。

「洗濯表示?」

 彼女は諦めだろうため息をついた。

「コインランドリーの使い方はわかるか」

「うん」

「ばあちゃんの服で、乾燥までして問題のないものだけ選り分ける。それをコインランドリーへ持って行って機械にぶち込んでこい。たたむのは私がやるから、とにかく数を数えて、忘れ物がないかだけ執拗なくらい確認してから持ち帰ってこい」

「コインランドリーってどこにあるの?」

「……職場の近くでも家の近くでも好きな所へ持っていけ」

 どこにあるっけ。記憶の中を辿ろうとすると、彼女はスマホを使えと言ってきた。

 ああそっか、そうだった。便利なものが浸透した世の中。

「明日の朝、より分たものをあそこへ置いておく」

 彼女の指し示す先を確認し頷く。それからまた、彼女の指先を見て爪が欠けているのに気づいた。

 彼女の摂食中枢は相変わらずひどくポンコツなようだ。

「ご飯食べた?」

 彼女は棒でも飲み込んだかのような顔をし、返事もせずに部屋に引き上げてしまった。



 この体の持ち主の仕事は単純な肉体労働だった。だから統合された記憶さえあれば、割合問題なくこなすことはできた。それなりの人付き合いもこなせたし、友人らしき人間との会話もさして問題なかった。

 土日の仕事休みを遊びに誘われたが、全て断った。何も相手は顔を顰めた。飲み代が浮くはずだったのにね? と僕は意地の悪い顔になった。

 友達もいない、なんてどの口が言ったものか。お前の友人なんてただの金目当てばかりじゃないか。

 いい歳して家に居座り続けているから金は余っている。

 それで遊び呆けて、いい身分だよ、全く。

 彼女は女性にとっての必需品である化粧品さえ、基本的なものをワンセットしか持っていないのに。


 休日の両親の朝は遅く、やっと起き出したかと思えば、朝食が用意されていないことをまた怒り出した。

 今の世の中、手間をかけずに食べられるものなど山のようにあるのに、何故それを買ってこないのだろうか?

 彼女は朝早くから、溜まった洗濯物と掃除に勤しんでいた。顔の異常な青白さから、多分化粧をしていない。どう見ても貧血の人の顔色だった。

 昨日までの顔色が白いとはいえまだマシだったのは、あれは化粧のおかげだったらしい。とすると、彼女は化粧をどちらかといえばビューティアップではなく死化粧の意味合いでしていたのだろう。

「シリアルでも良いでしょ。美味しいよこれ」

 コインランドリーが終わるのを待っている間に、買い物に行って買ってきたものを両親の分、皿に盛ってミルクを注ぐ。

 スプーンをセットして出してやれば、両親はまた娘に対してひどい怨嗟の声を上げた。

 彼女はいつも、土曜の朝はホットケーキを作ってくれた。

 焼き立てのホットケーキにバターがたっぷり、溶けて染み込んで、メープルシロップをたっぷりかけた。パッケージと遜色のない見た目で、味も最高の。

 そのホットケーキは今日、祖母のために1枚焼かれて、小さく小さく切り分けられ、祖母の口に運ばれた。

 それからもう1枚だけ、僕のために。

 お菓子作りが得意だった記憶は僕の記憶にもあるから驚かなかったけれど、本当に美味しかった。

 洗濯のお礼らしい。

 2枚目が欲しかったけど、欲を言ってはいけない。今までこいつらがしてきた仕打ちを考えれば、1枚もらえただけでも温情がすぎる。


「お姉ちゃん、その顔色は流石の僕でもわかるよ。体調悪いよね。買い物はやめて」

 彼女はまた、顔を顰めた。

「お前らの分はともかく、ばあちゃんの食事は必要だ」

 ごもっとも。

 だけどね、その顔色はどうかと思う。

「録音するから買うもの言って。買ってくる」

「良い。家にいるより買い物行った方が休まる」

 これまたごもっともだった。今も両親は寛ぎながら姉への暴言を吐いている。

「いっそのこと、ビジホにでも泊まって休んだほうがいいよ。今日ってヘルパーさん来ないの?」

「……頼んではある」

 その間は、体調が悪いことを見越してたね? 相当限界だったんだね?

 当たり前だ。彼女がいくら優秀でも、慣れない仕事に人間関係、それにプラスして家庭環境がこれだもの。

 彼女が他人を家に入れたことを、両親はひどく憤慨している。今もまた怒鳴り声を上げた。

 僕は思わず舌打ちした。穏やかな家庭で育った僕にとって、こいつらは家族の用をなしていない。

 大きめに息を吸い込んだ時、彼女は「わかった」と言った。

「……本当に?」

「あぁ。買う物は後でメールする。デイユースできるところで飯も食べてくるから、お前は余計なことは言わずにあいつらに合わせておけ」

「あれに合わせろって、僕に人間やめろって言ってる?」

 彼女は笑った。久しぶりに見た。

「……頼めるなら、祖母のことを頼む」

「任せて。あ、ホテルまでは? 送るよ」

「いい。運転くらいできる。気遣いはありがたいが、一人にしてくれ」

「……わかった。気をつけてね」

「お前もな、玲央。その正義感と優しさはお前の長所だが、ここにいる間は仕舞っておいた方が良い」

「僕は別に君ほど優しくないよ」

 彼女は下を向いた。照れた時の癖だ。

「……あとのことは追々話そう。今度時間を作る。悪いが、今はお前の言うとおり限界のようだ」

「気をつけて」

 こくりと頷いた彼女が玄関を出るのを見守ってから、やがて庭先で車の音がして、家の裏手の道路を無事走り抜けたのを確認した。


 さて、彼女にはああ言ったが、僕の親友をここまで手ひどく扱ったこいつらをどうしてくれようか。

 彼女が成人してしまったことが悔やまれる。

 児童虐待を日常的に行なっていた唾棄すべき人間たち。老人に対する虐待は、彼女が身を挺して庇い、防いでいた。

 

 ヘルパーを迎えた両親は、驚くほど善人ぶっていた。

 彼女が、両親を少しも告発しなかった理由を知って、僕はまた怒りが湧いた。

 ヘルパーを気遣うセリフの100分の一も娘にかけたことないくせに。

「私たちがやるから良いって言ったのに、娘ったらもう」

 なんて言って苦笑してみせる。

 一度も世話をしたことがないくせに、何をやるって?

 彼女が祖母を着替えさせる、丁寧なのに効率の良い早技を見れば、どれだけ手慣れていたか知れた。あの速さはその繰り返した回数だ。本職のヘルパーより早い。



 ヘルパーがいた時間を除き、一日中文句を言っていた両親が寝静まってから、彼女に「もうみんな寝たよ」とメールを出した。

 ちなみに姉宛のメールの履歴がどれもこれもモラハラ男の典型のようで、殺意を新たにしたのは言うまでもない。

 程なく帰宅した彼女の顔色は、相変わらず白かったけれど朝見た時より随分マシに見えた。

 朝は血色がなさすぎて、顔中の太い血管が青く透けて見えて大変スプラッタな感じになっていた。

 大学時代に幾度か見て「グロッキーになってるよ」と声をかけたことはあったが、歳のせいか更に酷かった。

「ねぇ、まだだいぶ白いけど、それメイクじゃないよね」

「休みの日は化粧しない。百均メイクは肌荒れするんでね。高いから休日は使わない」

「……日焼け止めが白い系?」

「さぁ? ……買い物はありがたかったが、冷凍食品は冷凍庫に入れてくれるとより助かる」

「え、ごめん! 冷凍食品てどれ?」

「……この中で言うと、これとこれだ。大体どこかに四角の中に冷凍と書いてある。わからなかったら後ろのこの保存方法とか保管方法とか書いてあるところに書いてある、マイナス何度以下だったら冷凍庫。買うときにひんやりしたら冷凍庫」

「オッケー、わかった。で、さぁってなに?」

「……日焼け止めは単体では買ってない。ファンデーションが日焼け止め効果のあるやつを買った」

「使ってないってことだね?」

「まぁ。ところで玲央、明日の予定は?」

「ノープラン。どうりでしみそばかす増えたわけだ。てことはそれ地色だね? 明日も寝てた方が良いよ」

「先に面倒ごとを済ませたい。時間を取るから今後の話をしよう。両親は明日仕事だ」

「そっか、あの二人シフト制だっけ。……二人のシフト頭に入ってるの?」

「あの二人は自分の予定管理も私に丸投げだ。ちなみにお前はシフト表を渡さないから把握していない」

「……あぁ、なるほど」

 飲みに行きたかったり遊び歩きたかったり、仕事をサボったりで知られたくなかったからあえて知らせていなかった。そう言うやつだこいつは。

「ばあちゃんが昼寝してる時間で良いだろう。話し合いが必要だ」

「だね」

 これからは僕も介護に参加するし、休日の使い方も相談するべきだ。彼女にもっとマシな休みをあげたい。もっと言うならあの両親にはざまぁされていただこう。

 僕は頷くと、早々に顔色の悪い彼女に就寝を勧めた。



 翌日。寝ていた方が良いと言ったのに、早朝に起き出した彼女はせっせと洗濯物の選り分けを始めていた。

 足音か物音で気付いたのか、声をかける前に振り返りもせず視線を動かしもせずに「おはよう」と言われたので、今度は僕が昔のようにどきりとした。

「……おはよう」

「悪いが朝食の用意はしていない」

「うん、良いよ。シリアルまだあるし。お姉ちゃんもシリアルで良い? 顔色酷すぎるから紅茶じゃなくてこっち飲んで」

 昨日買ってきた鉄分が取れる麦芽飲料の袋を取り出して、洗濯置き場に繋がっている出入り口から見えるように振ると、了承の返事。その後、午後2時まで出かけて来いと言われた。

 つまり話し合いは午後2時と言うことだろう。

 僕としては残って手伝いたかったが、あいにく僕は自宅通学・通勤で家事能力ゼロ男だ。これから早急に学ぶ必要があるけれど、とりあえず今は教えるよりも一人の方が効率的だし、彼女は体調が悪い時は一人の方が楽なんだろう。昔も体調不良時は一人になりたがった。猫のようだと思ったものだった。



 さて、話し合いの場についた僕は、なぜか先ほどからずっと親友に名前を連呼されている。

「玲央」

「うん」

「……玲央」

「はい」

「玲央」

「なに?」

「……れ、お」

「聞こえてるってば。なに?」

 流石にちょっと面白くなってきて、笑い出したところ。

 一方の親友は、別に面白がらせようとしているわけじゃないらしく、真面目な顔のままだった。

「どうしたの?」

 深く息を吸うと、深く吐き出した。うん、ため息。

「……やはり君か」

「何が?」

 首を傾げて問いを重ねると、彼女はもう一つ大きなため息をついて、頭をがしがしと掻き毟り、その後椅子の背もたれに一度のけぞるように背中をピッタリつけて、それから反動みたいにテーブルに頬杖をつき、僕から顔を逸らして、下に置いてある、よくわからない丸い樽のようなものに視線を固定した。

 その状態で、もう一回息を吸ったけれど、これはため息じゃない。僕の親友がこういう息の吸い方をした時は、次に来るのは長口舌だ。

「玲央、と言うのは弟の名前ではない」

 ——しまった。

 彼女はその直後、僕の顔にチラリと視線を向けて。

「その名前は私の親友のものだ。そして今の君の反応からすると、どうやら弟が君のモノマネをしているという考えは否定された。私の親友に成り切ろうというタチの悪い考えに乗っ取られているのであれば、今の君が浮かべた表情はおかしい。私が騙されたことにほくそ笑むのがもっとも妥当だ。だが君はついぞそんな表情を浮かべることもなく、当然のように私が呼ぶ名前に反応し続けた。なんら不自然なところはなかった。そして今の君のその表情に関しては、ちょっとした失敗を君がした時の表情に似ている。私の弟だと仮定するとその表情は初めてだ。魂というものがあるかどうかはいまだに結論が出ていないのだろうと思うが、中身が違うと顔つきもまるで違うというのが私の観察による結論になった。ところで、表情筋も筋肉の一種だが、いつもと違う動きをしていることで筋肉痛は出るのか?」

 ちなみにこういう時の彼女はとんでもない早口である。

 もう途中から懐かしさすら感じてしまった。

「……相変わらずだね」

 こんな三日とたたずにバレる転生系の主人公がかつていただろうか。

 もう苦笑するしかない。

「口調だけで?」

「足音も違った」

「へぇ?」

「この家の人間は基本的に姿勢が悪い。歩き方も例に漏れずだ。足音も均等ではなく、どこかしら引きずったような音が混じる」

「他人の足音とか気にしたことないよ」

 聞き分けようと思ったこともない。

「それとノック」

「ノック?」

「私の部屋のドアをノックする人間はいない」

「——本当に腹立つなぁ……」

「君は相変わらず短気だ。そして君のノックの音は忘れない」

「……もしかしたら感動的なのかもしれないけど、言っていい?」

「気持ち悪いと言いたいんだろう。自覚しているから言わなくて結構」

 すました顔で言うものの、少し傷ついているのが見てとれた。

「他には?」

 僕は苦笑して、話を聞いてあげることにした。

「……私の弟は簡単な料理ができる」

「嘘」

「……君の状態が今どうなっているのか知らないが、嘘ではない。体調不良で料理できなかったのかと思いもしたが、シリアルを買ってきて食べるくらいなら、中華鍋を振って盛大に周りに具材を飛び散らせながら炒飯でも作るヤツだ」

 先入観で料理も当然していないと思っていたが、言われて記憶を漁ってみる。

「……あ、本当だ。うわ最悪。片付けしてないじゃんこいつ。かっこいいと思って振ってんのね。ダッサ。ガキか。君の家族だから我慢してるけど、こいつその中華鍋に頭押し付けてやりたい」

「……相変わらず君は短気な上に時々猟奇的なことを言うな」

 だって腹立つし。かごいっぱいの洗濯物を取り込んできた姉が、渋面で片付けているのを当たり前のように横目に謝りもせず食べている。しかもその食材も姉が買ってきたもので、なのに自分の分だけという自分勝手さ。

「猟奇的な気分になるような記憶ばっかりだから、なるべく覗かないようにしてる」

「ふむ。覗く、か。実に興味深いね。やはり一人の人間の記憶とは異なり、混ざらないように仕切られている感じなのだろうか」

「ねぇ、気になるのそこ? 他に言う事ないの?」

「他? ……あぁ、そうだな。まずは……恋人にはもう会ってきたのか?」

「あれ、言ってなかったっけ?」

「何を」

「別れた」

「また?」

「また」

「……今度はなんだ。私は最新の君の恋人とは面識がないはずだぞ」

 彼女は冤罪で咎められた人のよう両手をあげて頭を振る。

「うん。就職先で会った人だったからねぇ」

 明るい茶髪のストレートがツヤッツヤで、肌の白い、綺麗に飾られた爪の形の美しい、慎ましやかでおとなしい美人、だと思っていた。

「何回目だったかな、デートした時に、ほら、いつだったかな、君と買い物行った時に冬服買ったでしょ?」

「ピーコートか?」

「うん、それ。着て行ったんだよね。褒めてくれて、友人に選んでもらったんだ、って言ったら、もうダメだった」

「……どうして君は余計なことを言うんだ」

「嬉しくてつい。そしたらさぁ、服をプレゼントするのは脱がせたいからに決まってるでしょ! ってすごい剣幕で」

「プレゼントしてない。選んだだけだ。私にそんな金はない」

「ねぇ? それに僕は」

「待て。君はちゃんと言ったのか? 買ってもらったわけではないと」

「選んでもらったってちゃんと言ったよ」

「……なぜ余計なことは言うのに肝心なことは言わないんだ」

「買ってもらったら選んでもらったって言い方しなくない?」

「……私じゃないんだぞ。君の言語感覚と同じものを求めるんじゃない」

「僕は脱がされるより脱がしたい派だし」

 彼女は額に手を当ててため息を吐いた。

「知ってるよ」

 ちなみになぜ知ってるのかと言えば、親友はそこそこの下ネタには付き合ってくれたからだ。言っておくが親友との間に色めいたものは何もない。勘違いされてそこそこ別れ話の原因になったけど。

「彼女も知ってるはずなんだけどねぇ。前から聞きたかったんだけど、私とそのお友達が川に落ちたらどっちを助ける? って聞かれて」

「また古風な。昔の漫画か?」

 ちょっと呆れた顔をした。

「もちろん君だよって即答したのに」

「当然だな」

「着衣泳得意だもんね」

「なんなら救助できるぞ、君の彼女を」

 着衣泳の実践形式の授業で誰よりも早く泳ぎきったし、なんなら水泳も得意だ。普通の水泳は速さはないが、その分持久力がすごい。

「でもなんか即答したのが余計気に障ったみたいで、この嘘つき! って平手打ちされて、そのままさようなら。メールも返事来なかった。電話も着信拒否」

「……SNS、は当時なかったか」

「あったけどまだやってなかった。クリスマスだよ、ひどくない? お店の人の目が生ぬるいやら突き刺さるやら」

「……可哀想に」

「ありがと」

「しかし、追いかけるべきだったのでは? なんならきちんと肉体関係は一切ない、本当にただの友人だと」

「それ絶対ムダ」

「無駄?」

 僕は苦笑すると、彼女に向かって手を伸ばした。すると彼女は露骨に顔を顰めて椅子を巻き込み後ずさった。

「ほら」

 別に本当に触る気はなかったので、僕も手を引っ込める。

「……ごめん」

 親友だった当時、こんなふうに避けられたことは一度もなかった。

「いいの。あのね、結構脳みそって男女差あるって知ってる?」

「多少は」

「ごめん、愚問だった。でも恋愛絡みだから、一応ね。男って浮気を肉体関係で定義するじゃない。だからまぁ、中には、暴行されたっていう彼女をどうしても許せないっていう最低男もいるんだけど」

「その胸糞悪い話は今必要か?」

「ごめん、でもちょっと必要かも。女性は心の結びつきが重要らしいんだよ。肉体関係なくても、どう思ってるか、心がどのくらい傾いてるかが、浮気の定義らしいんだ。だからほら、昔から仕事と私、どっちが大事なのって言う言葉があるわけ」

 彼女はこくりと頷いた。

「で。君は、どっちかっていうと脳の作りが男に近いよね。だからほら、僕が君の親友だってわかっても、この体が君の大嫌いな弟のものだから、今の僕が少しでも触ろうとすれば避けちゃう」

「……悪い」

「良いよ。正直僕もこの体嫌い。すごく。君が良いって言ってくれたらすぐに切り刻んでミンチにしたいくらい」

 彼女は困ったように笑って、「だから猟奇的過ぎるんだよ君は」と言った。

「だからね、絶対無駄だよ。思いの重さみたいなので浮気を測られても困るよ。種類が違うんだから。でもこの言い分はわかってもらえないんだ。だからこの話はおしまい」

 親友はなんとも言えない表情でしばらく黙っていたが、一つまたため息をつくと、気持ちを切り替えるように顔を上げた。

「だがまぁ、そう言うことであれば、引き裂かれた恋人同士が云々、と言うのはひとまず考えなくて良さそうだな」

「ねぇ、まず考えるのそこ?」

「……」

「違うよね? 人のこと恋愛脳とかバカにしてた君が、それをまず考えたとかないよね?」

「バカにしてたわけでは」

「してたよね? 僕が新しい恋を見つけるたびになんかそんなふうなことばっかり言ってたよね?」

「……バカにしていたわけではないが、少しくらい嫌味を言わせてもらっても良いだろう。君が振られる度に私も何かと巻き添えを食らったんだぞ」

 そうだった。なぜか怒りの矛先が僕ではなく親友へ向くことが時折あって、また彼女は女性には優しいものだから。

「ごめんなさい」

「いや……まぁ、その、なんだ」

「次は男に生まれてね」

「……来世の話か」

「うん。なんかよくわかんないけど、ありそうじゃない? 今の僕みたいにこんな不思議なことがあるわけだから」

「……そうだな。しかし性別を変えたとしても、この問題が解決するとは思えんが」

「あれ、いつの間に腐ったの?」

「……今の発言の何がどうそこまで罵られる原因になったのか聞いて良いだろうか」

「いや腐女子を罵りってそこまで言わなくても僕の方がびっくりだよ」

「……婦女子が罵り?」

 あれ?

「ごめん、なんか誤解があったみたい。そういえばサブカル疎かったっけ。BLってわかる?」

「出版社の?」

「は?」

「絵本の出版社にそんな名前のがあったはずだが、違うのか」

「マジで。なんで」

「なんでと言われても」

「ボーイズラブ」

「……しょ」

「直訳しないで。なんだっけ。同性愛?」

「わかる。が、私が男に生まれたら、君は女に生まれるのでは?」

「……ああ! そっか」

 そう考えたのか。それなら確かに解決しない。

「んー……僕は女性になりたいとは思わないしなぁ」

「君の女好きは筋金入りだからな。……でもそうだな、君と同性の友人なら、怒りを買うこともないか」

「そうそ……」

 笑いながら頷こうとして、そう言えばあの最後の恋人に、親友が女性だと言うことは言ってなかった気がする。友人としか。でもたくさん話したから、何かで推測されたのか。

「まぁいいや。それで、なんか言うことないの?」

「……君の謎かけは心情的すぎてよくわからない。君が私の弟の体を乗っ取ったのだとしたら、私の興味はそこへ行くが、その話は君に止められた。次にするべきことは、今後の生活をどうするかだ。だからまず、恋人の問題から片付けようと」

「心情的すぎてって自分で言ってるってことはわかってるんじゃないの? 僕が聞きたいのはそこだよ」

「だからまず、恋人の問題を」

「オッケー、わかった。じゃあそうしよう。この体で。僕は新しい恋人を作る。そして結婚する。君が僕に言うことは?」

「おめでとう」

 僕はしばらく待ってみた。けれど言い切ったとばかりの表情で、僕の返事を待っている。

 僕は苦笑した。仕方ないか。

「おめでとうとは言えないよって言わない?」

 彼女はひどく難しい顔になった。

「……なんでそんな、ワトソン博士が結婚する時のシャーロック・ホームズみたいなことを私が言わねばならんのだ」

 僕は吹き出した。

「いやほんと、君ってこの体の持ち主のこと、ちっとも考えないんだなと思って」

 彼女は僕が言いたいことを察してくれたようで、片頬だけ持ち上げたシニカルな笑顔を浮かべた。

「それに対して私が思うことの10割はネガティブだ。そいつの未来などどうでもいい。君の意識がもし消えてそれが意識を取り戻す未来があるのなら、尚更私の目に触れないところにいてくれた方が助かる。君の選んだ女性が不憫だとは思うが、私は自分が可愛い」

「安心した」

「……ひどい、ではなく?」

「ひどくないよ。この体の持ち主は君に対してすごく酷いことばかりしていたし、歴代の僕の恋人たちは君に酷いことをしたんだから」

「……これから君が選ぶ恋人に、私が攻撃される恐れはないと思うが」

「なんで?」

「ただの友人、は信じられなくとも、姉との仲を勘ぐるのは流石に稀だろう」

「嫁姑戦争って知らない? この場合は小姑だけど」

「……また私はハズレくじか」

「僕もまず君を攻撃しない人、と思って選んでるつもりだったんだけど……今度こそちゃんと選ぶよ」

「当てにはしないが期待しておく」

「じゃあ僕も。君にはしても無駄な期待だったみたいだから僕から言うよ」

 親友は少し傷ついた、心外だ、と言った顔をした。

 僕は微笑んで、久しぶりに親友の名前を口に乗せた。

「また会えて嬉しいよ」

 親友は頬を染めて、あぁ、顔色が随分マシになった。なぜだか彼女にはさっぱり肉欲を覚えないのだけれど、それはそれは可愛らしく口元を緩めて視線を下に向けた後。

「……その見た目は気に食わないが、君の魂にまた会えて、その、……私も、……あー……嬉しく思う」

 ひどく小声で聞き取りにくい声で、そう言ってくれた。

 懐かしくてとびきり嬉しい。

 僕の口からは酔っ払いみたいな笑い声が漏れた。



 さて。その後なんやかんやあって、一応の”ざまぁ”は成功を見た。僕からすると手緩いし、彼女からすると思い出したくもないもので、それは僕も同意する。

 だから詳しくは語らない。

 ただ、環境や人間関係のストレスというのは大きいもので、僕の親友から頭脳の明晰さをだいぶ奪っていたことが明らかになったり、親友の大好きな祖母がすっかり元気になったりと、この物語はハッピーエンドと言って良いだろう。

 僕はその後、僕でなくなることもなく、そのまま親友の弟の体に居座って数年が経ち、今日結婚する。

 この体の持ち主である気持ち悪い男は、あろうことか僕の親友である姉に懸想していた。実家住まいが楽なこと、お金を自由に使えることと同じレベルで、姉がいるから良い歳をして結婚もせず実家に居座っていたのだ。

 姉とは似ても似つかないタイプの花嫁を迎えて、もし僕が消えたら、こいつはどう思うだろう。それはそれでとても楽しみ。


「結婚おめでとう」

 今日の親友の顔色は大分良かった。というか、あの生活で痩せすぎていた親友は、ストレスがなくなったせいか少しふっくらしてかなり美人になった。以前は体の凹凸さえほとんどなく、喋り方と相まって彼女の性状同様、中性的な感じだったのに、あぁ、女の子だったんだなぁと、最近は目にする度驚く。

 けれど、今日の衣装はタキシードだ。似合うからまぁ良いけれども。

「ありがとう」

 持ってきてくれた小さな花束はブートニア。

 花嫁用のブーケとお揃いで、昔から大抵のことは入門書と専門書を読めば再現できる器用なこの友人のお手製。

 僕は笑顔を少し曇らせた。

「……日本にベストマンがないとか知らなかった」

 親友は片頬をあげて笑って見せた。

「最近は取り入れることもあるらしい。ただここは田舎だから、あまり変わったことは歓迎されない」

「じゃあどのみち無理か……」

「当たり前だ。女がベストマンとか、花嫁に私を殺させるつもりか?」

 最近親友は、僕が彼女の大嫌いな弟の体であることをあまり意識しなくなってきた。今日のこの言葉とか、完全に僕が僕だった場合に向けられた言葉だ。だから僕も嬉しくなって笑った。

「そしたら花嫁殺して僕も死ぬ」

「頼むからやめてくれ。親戚中末代までの語り草だ」

 真顔でそんなことを言うから、仰天ニュースとかの出番かも、と彼女は知らないだろう番組が頭に浮かんで、僕は声を立てて笑った。

 親友は呆れた顔で見ていたが、そのうち微笑んで、ブートニアを少し掲げて見せた。

 僕は丸めていた背を正した。

「挙式じゃやってやれないが、タキシードも着てやった。これで我慢してくれ」

 そう言われて、僕の願いを彼女なりに叶えてくれたのだとわかって、嬉しくなった。

 控室ですっかり身なりを整え、手持ち無沙汰で花嫁の支度が終わるのを待っていた僕。

 親友が、ブートニアを胸ポケットにさしてくれる。

「ありがとう」

「あぁ」

「ブーケトス、受け取ってね」

「……自分で作ったブーケを持ち帰れと言う意味か?」

「違う。幸せな結婚を願ってるって意味」

「私は恋愛はしない。できないんだ。知ってるだろう?」

「うん。僕も君はAセクだと思ってた」

「何?」

「アセクシュアル。無性愛者」

「ああ」

「プールとかさ、女の子も男の子も、大体異性の体に視線がいっちゃうのに、君、服着てる時とまるで同じで顔しか見てないんだもん」

「前も言われたな」

「言ったっけ?」

「……私が君の恋人になじられていた時に」

「あー……なんかあれ、最後僕が突き飛ばされて終わったよね」

「普通は異性の体に目が行くと言うのをあれで初めて知った」

「遅いと思う。エロ本の存在意義」

「スイッチのようなものがあると思っていたんだ。欲求を煽るためのものと、授業のプールでは全く違うだろうと。もしくは対象に対する好悪」

「うん、びっくりだよ。無垢すぎて心配。そう、それでお説教始めて」

「君が突き飛ばされた」

「ひどくない? だって子供にはちゃんと注意しないと危ないじゃん」

「君は同い年だと言うことを失念している」

「その辺の感性が同い年だとは思えなかったんだよね、昔から」

「知識ならある」

「知識だけね。きちんと断ってくれてたから良いんだけど、君が呼び出される度にヒヤヒヤしたよ」

「言い過ぎだ。私のはほんの数回、君なんか何十回だぞ」

「僕の話は良いの。この度めでたくゴールインしました」

「ようやく年貢を納めてくれてほっとしている」

「泣けるコメントありがとう。君の話。僕もずっと君は無性愛者で、男嫌いだと思ってた。でももしかしたら君は、余裕がなかっただけなんじゃないかなって、一緒に暮らして思うようになった」

「余裕?」

「心の余裕だよ。マズローの欲求段階」

「五段階の?」

「君は今まで最低階層が満たされてなかったんだ」

「……睡眠か? 君のおかげで実験できたが、私は結局5時間と寝ていられなかったぞ」

「多分それ、長年の習慣だから。もう少し続けてみて。おばあちゃんもう一人でトイレいけるんだし」

「しかし、いつまたああなるかわからん。目を離すわけには」

「交代制にしよう。僕がおばあちゃんをみてるから。よく考えたら君は寝る時多分一人の方がいいはずだよ」

「……」

「多分第二階層も満たされてなかったよね」

「ああ」

「恋愛は第三階層。おばあちゃんと二人暮らし、ヘルパーさんと僕たちも近くにいる。多分第二階層まで埋まるはずだよ。男嫌いなら女性でも良いけど、誰か君を愛してくれる人を見つけて、幸せになってほしい」

 親友は視線を下げて、少し笑った。

 ちょっと照れてる。

「この恋愛脳」

「だって君は世界一幸せになったって良い人間だよ」

「それは違う」

「違わない」

「いいや、それは玲央、君のことだ。私の救いは——あの頃、私の救いは君だけだった。普通の人のように遊びにも行けず、金もない私をずっと友人として扱ってくれた。私の性格は問題だらけだったが」

「そんなことないよ」

「……君は何度か私を気持ち悪いと言ったろう」

「ごめん気にしてると思わなくて」

「……まぁ君は気持ち悪いといっても笑っていたし私との友達付き合いをやめなかった。そのことには非常に感謝している。だから」

 親友は視線を下に向けて、非常に小声でこう言った。

「私の幸せは、君の幸せだ。君が花嫁の隣で幸せそうに笑っているのを見ると、私はとても嬉しい。本当は君の姿のままの君の最高の笑顔を見たかったが、これ以上は望みすぎと言うものだろう。君がずっと、その幸せそうな笑顔を絶やさずいてくれることが、私の何よりの幸せだよ」

 僕はあまりのことに何も言えなかった。

 何も言えなくて、明るい控室の、大きな窓から差し込む日が、彼女をまるで包んでいるように照らし出して、とても綺麗で。

 やがて不審そうな顔をした彼女は、視線をあげて、ぎょっとした顔になって。

「泣くことないだろう!? やめろおい、なんだ、そんなに気持ち悪かったのか?!」

 彼女は胸ポケットのチーフを引っ張り出して僕の顔に当てがった。

「すまない、その、もう言わない。少し大袈裟に言ったんだ。正直に言うとばあちゃんの笑顔も私には必要で、君がいない間はばあちゃんだけが私の生き甲斐だった。別に君に依存してるわけじゃないから泣き止んでくれ。もう出ていくから、わかった、帰る。君の前には二度と現れないと約束する」

「なんでそうなるの」

 やっと出た声は涙に濡れていて不明瞭で、彼女には伝わらなかったようだ。彼女はチーフを落としてしまったが、拾うこともなく脱兎のごとく部屋の出口へ向かった。

「帰ったら許さないよ」

 なんとか振り絞った声は届いたらしい。

「……私にどうしろと言うんだ」

「僕の前から消えたら許さないし、挙式も披露宴も最後までずっと一緒にいてよ。スタッグパーティーは諦めてあげたでしょ」

「……全く君は、英語が苦手なくせに妙に英国文化に詳しい」

「博識なくせに芸能人の顔を一切覚えようとしない君に言われたくない」

「……別に意図しているわけではない。単に覚えられないだけだ」

「絶対必要ないから覚えないだけでしょ。ゴシップも全然知らないし。本当に、シャーロック・ホームズみたい」

 言ってから、あ、と思った。

 彼女はきょとんとした顔になって、それから微笑んだ。微笑んで、僕の方に戻ってきた。その歩き方がいつもと違う。背をまっすぐに正して、少し大股に。似合っていると思っていたタキシードが、すごく馴染んで見える。

「” I feared as much, I really cannot congratulate you. ”」

 微笑んでいるのに、少し悲しそうで寂しそうな表情と声で、僕に聞き取れない言葉を喋った。

「なに? 英語?」

 彼女はそのまま頷いた。

「” I should never marry myself, lest I bias my judgement. “」

 せめてカタカナ英語で喋ってくれないだろうか。こんな早口の流暢な英語とか全く聞き取れない。

 リスニング問題の倍速再生なの? 何倍なの?

 僕の心の声が届いたのか、彼女は少しだけ悪戯っぽく笑って、速度を落としてくれた。

「” For me, there still remains the cocaine-bottle. ”」

「ちょっと今コカインて聞こえたんだけど何!?」

「冗談だよ。この国で一般人が手を出したらその後の人生丸潰れだぞ」

 芸能人ならともかく、という皮肉だろうか。

「ともかく。私からの結婚祝いは以上だ」

「ブートニア、ありがとう」

 不満に思いながらも、胸ポケットを撫でながらそう言えば、彼女は喉の奥で低く笑った。初めて聞く笑い方だった。

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