62 悲しみの執事
「ううっ…私は無力じゃ。この世は地獄じゃ。このまま、恨みを晴らすことも出来ぬまま、世を彷徨い続けなければならぬとは。ぐくっ」
この身なりの良い、上品な白髪の老紳士は、ムリアズ男爵家に40年以上の間、仕えてきた元執事であり、名前をリグルスという。
彼が悲嘆に暮れている原因は、二年前に起こったある事件が発端である。
その日、リグルスはムリアズ男爵に申し出をし、午後からお休みを頂いた。
もともと、翌日が休日であったので、一日半の休暇を貰ったことになる。
執事という仕事柄、休日が殆どなかった彼にとっては、一日半の休みは嬉しい限りである。
とは言っても、彼は働き者である。
日々、忠勤に励むことが生きがいの彼にとっては、休みなどは、本来嬉しいものではない。
『嬉しい限り』というのには、理由があったのである。
彼には、長年連れ添った妻がいる。
久しく、二人だけの生活が続いていたが、今日、娘夫婦が孫娘を連れて、里帰りで戻ってくるのだ。
ここ数年では、最も幸せな出来事である。愛する家族が揃うのである。
リグルスは家族全員を驚かそうと思い、急遽、お昼から休暇を貰ったのだった。
年甲斐もなく、浮かれていた。
第一声は、何て声を掛けよう。
彼の頭の中では、幸せな妄想が何度なく、繰り返されている。
孫娘のことを考えるだけで、足取りが軽い。
本人は無意識だが、明らかにいつものリグルスとは違う。
リグルスの鼻歌交じりの行動を見て、侍女らもクスクスと笑っている。
屋敷中に、幸せが伝播していた。
普段どおり、業務の一環として、主人である男爵の外出を見送ると、自身も予定通りに帰宅する準備に取り掛かった。
昼時を迎えると、すぐに着替えをすます。そして、ゆっくりと扉を開けた。
普段は屋敷の中で過ごしているリグルスにとっては、目が潰れる程に陽光を眩しく感じていた。彼は帽子を深く被り直すと、足早に屋敷を後にした。
実は、彼は知っていた。
あの愛らしい孫娘が、結婚相手を紹介するためにやって来ることを。
これからは、娘夫婦らが同居をしてくれるという。
長い間、愛する妻と二人だけの生活が続いていたが、これからは賑やかになる。
多分、孫夫婦も近くに住んでくれることだろう。
そう考えると、彼は自然と破顔した。
リグルスは長年歩きなれた道程を一歩一歩と進み続けた。
馴染んだ顔。友人、知人に声を掛けられる。
歩きながら、幸せを振りまいていた。
彼は自分の家の前へと到着した。あっという間であった。
彼の家は、屋敷と表現する程ではないが、小さな家という訳でもなかった。
家の前迄来て、ふと気になった。
我が家から声が、全然聞こえてこないのだ。
自分だけをおいて、皆でどこか食事にでも行ってしまったのかと、一抹の不安を覚えながらドアを開けた。
家の扉を開けると、背筋が凍った。
一瞬、自分の心臓が止まったのかと感じた程である。
長年、家族が住んできた我が家の空気ではない。
明らかに違う。喉が硬直して声が出せないほどだ。
次に彼の目に映ったのは、血の惨劇であった。
床には大量の血が広がり、天井と壁に血が飛び散っていた。
愛する妻と娘夫婦は何れも、腹部を切り裂かれて殺されていたのである。
リグルスは発狂した。
音の無い世界を彷徨うように、声の出ないまま慟哭し続けた。
その中で、彼は唯一、動くものをその目で捉えた。
だが、その瞬間、彼もまた腹部を切り裂かれたのである。
強烈な痛みが全身を駆け、彼は現実に引き戻されたが理解が追いつかない。
言葉も出ないまま、涙だけはとめどなく流れ続けていた。
もう、力が抜け、立つこともままならない。
彼は傷口に手を添えながら、両膝から崩れた。
彼の血も、また大量に広がっていった。
うつ伏せに倒れ込み、意識が薄らいでいく。
絶望に瀕する中で、最後に彼の耳元へ届いたのは、主人であるムリアズ男爵の声であった。
「リグルスの家であったか、運のない男だのう。……主人に殺されるのであれば、本望であろう。くくっ」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
7日後。
リグルスは意識を取り戻す。
「私は……一体」
彼は死んだ。
それは、紛れもない事実である。
リグルスは、日を追うごとにあの日のことを理解していく。
事実を受け入れていったのである。
くどいようだが、彼は死んだ。
彼の肉体は滅んでしまった。つまり、今の彼は霊体のようなものなのである。
なぜ、霊体になったかなど、彼にとってはどうでも良かった。
彼の頭には、復讐の事しかなかったのである。
だが、それも成し遂げることは不可能であることが、直に分かった。
彼は、あらゆる物に触れることが出来ないのである。
自分の手で復讐が出来ないことに、彼は心底、神を呪った。
そして、神に問うた。
「神よ。なぜ、私だけをこのような形で、蘇らせたのか!」
何度も問うも、返事はなかった。
復讐どころか、何も出来ない。
ただ、生きている(?)だけ。何も為すことが出来ず。死ぬ(?)ことも出来ない憂鬱な日々が過ぎていった。
暫くすると、リグルスは、なぜ、男爵が我が一家を襲ったのかを調べることに時間を費やしていた。
男爵を常に見張っていたのである。
一カ月も経つと、ムリアズはリグルス一家の時と同じように殺人を犯した。
見張っていて分かったことは、領外から来た若い男女を拉致して、屋敷の地下に監禁していることであった。その際に邪魔となる者は殺していたのである。
監禁されている若物らは、全員様子が変であった。寝たきりで、意識もないような状態となっていたのだ。何かの実験らしきことをしているようにも見える。
リグルスは観察をしていたが、良くは分からなかった。
そして、その監禁場所で、自分の孫娘を見つけたのである。彼女が生きていたことに彼は歓喜し、そして、再び力が沸いてきた。
だが、リグルスには、以前として見ていることしか出来なかった。
自分の姿は、誰も見ることが出来ない。
自分の声も、誰も聞くことが出来ない。
自分の手は、あらゆる物に触れることが出来ないのだ。
このまま、妻や娘夫婦の復讐も出来ず、孫娘を守る事も出来ない。
そして、領内に来た若者らも救えない。
自分は、何のために存在しているのか。
彼は、悲しみ続けるだけの日々を送っていた。
彼は宙に浮かび、空を眺めていた。
どんよりとした曇り空である。
薄暗い雲が町を覆う。
彼は視線を少し下へと移す。
すると、町全体が見える。
小さな町なので、全体を一望できるのだ。
そんな小さな町に一台の馬車がやって来た。
馬車の往来する時間でもないのにと、彼は注目していた。
馬車が停車した。
その時である。
雲の隙間から陽光が差し込み、中から降りてきた人物を光で包み込んだのである。
光の中にいたのは美しい女性であった。
誰かを気遣っているのか、後ろを振り向き、声を掛けている。
続いて、剣を背負った男、兎人族が付き従って降りてきた。
「……女神様」
光に包まれた美しい女性を見て、リグルスは女神が降臨したように思えた。
一筋の希望の光に接しえたことに、自然と涙が頬をつたっていた。




