幕間2『隠す者たちの話』
真っ黒な影の中に、ソレがいた。
泣いているみたいな雰囲気を纏っていた。
「どうしたの」
「……う、ぅ……ぐすっ……」
「どうして、泣いているの」
「……あ? ……おまえ……」
目を真っ赤に腫らした少年がいた。
その少年は、自分以外の誰にも見えない存在だった。
◇◆
それは、ふたりで決めたことだった。
精霊の存在を認知できることは話さないでおこう、と。
「俺はきぬさやちゃんの帰る場所でありたいんだ」
零雨がどこかさびしげに話した。
ひとの形ではないと家をぐずぐずに溶かしてしまうから、その時紅壽は白衣姿の男だった。
縁側でふたり横に並び、中央の茶の入った湯飲みを置いて、その話をした。
ほんとうにはじめの、生まれ変わってすぐくらいのこと。紅壽ですらもはやいつのことだったか、明確には覚えていなかった。
突然零雨から誘いを受けた紅壽は『赤猫郵便局』を訪れた。
そのとき、猫たちは配達で留守にしていたから、聞いていたのは長老だけだ。長老も口が軽いほうではないし、思慮深い猫であるから吹聴する恐れもない。だから、特段警戒もせず零雨は話した。
「帰る場所……」
紅壽が意味ありげに復唱をすると、「ああ」と零雨は遠い目をしたまま言った。
「俺は別に。どこで生きても構わないけれどね……きぬさやちゃんは違う」
あの子は、みんなに愛されているから。
如何な場面に立ち会っても、彼の強さは変わらない。透き通るような純真はなにものにも汚されなかった。たとえ零雨が内側を荒々しく暴いても、彼はずっときれいなままだった。
「あの子は俺の傍にいることを望んでくれる……きっと俺がいるところを居場所にしてくれるだろう。……でも、それはだめなんだ」
「……なぜ」
半ばわかっている問いの答えを、敢えて紅壽は訊く。
「俺はね、紅壽。――あの子が幸せであるのなら俺なんかいなくたっていいと、思っているんだよ」
薄氷色の目には、ただ哀しみをたたえていた。紅壽はなにも言わなかった。
「俺が……俺なんかが、あの子をほんとうに幸せにできるのだろうか、って毎日考えているんだ。笑えるだろ? 存外、俺は臆病な男でね」
零雨が自嘲するのを、紅壽は表情を変えないまま聞いていた。
「だから、ここに残ってあの子の帰りを待つ。ただいまって声をかけて戻ってくるあの子をおかえりって抱き締めるたびに愛されていると感じている」
「……零雨」
「情けない話だよね、まったく」
零雨は乾いた笑いを浮かべながら湯飲みを啜った。
紅壽も同じく湯飲みに口をつけた。
すこしだけ、ぬるくなっていた。
◇◆
「……俺もおおむね同意見だった。俺も君の帰る場所になりたかった。だから、穂鬼のことを言わなくてもいいと思った」
一緒に行かないのであれば、同じような力があることをわざわざ話す理由がない。話せば連れて行け、と言っているようなものだろう。それが、紅壽の考えだった。
綺光は黙って聞いていた。紅壽は隠し事がバレたから、終始バツが悪そうだった。でも綺光はそのなかに確かな深い愛情を感じていた。
暫くの間、静かな時間が流れた。それから、
「……ありがとう」
綺光の口から、感謝の言葉が滑り落ちた。
紅壽は「え」という顔をして驚いていた。
「うまく……言葉にできないのですけれど……すごく、うれしくて……。そんな風に思っていてくださっていて……なんだか……その……」
溢れ出す想いたちが、綺光の胸をいっぱいにした。言葉を費やすのも野暮なように思えて、綺光はあちこちに視線を彷徨わせた。さながら遠足前の子どものように、そわそわと体を動かす。
帰る場所があるというのは、このうえない喜びである。事実、帰りたい場所が存在するから綺光も絹夜も<異世界>から戻ってきている。強い想いが彼女たちの帰路のひとつともいえるだろう。
もし彼らと一緒に役目を果たしに行っていたのなら、戻れなくても構わない――なんて乱暴なことを考えていたかもしれない。
待っていてくれるひとがいるから、帰ってくる。
そんな当たり前を、作ってくれているひとがいるという事実が、綺光にはうれしかった。
あたたかい気持ちが流れ込んできて綺光は思わず眼前の紅壽に飛びつく。ぐらりと、すこしだけ揺れはしたけれど、紅壽はきちんと受け止めた。
「……ありがとう、すごくうれしい……っ!」
紅壽は綺光の頭を撫でながら穂鬼を見た。
「……穂鬼」
「……なんだよ」
「……お前の番だぞ」
なにがだろう、と綺光もまた顔を上げて穂鬼に視線を遣った。視線の先にいた彼はなにかを我慢するみたいな表情で固まっていた。綺光は穂鬼のことをほとんど知らないから、表情の意図が汲み取れない。助けを求めて紅壽を見ると、彼はちょっと意地悪な笑みを向けていた。
「あんなに恋い焦がれていたんだろ?」
「え?」
「ばっ、おま……!!」
穂鬼が慌てた様子で紅壽に詰め寄るので、綺光はなんとなく合点がいってしまう。
もしかして、と綺光はちらりとカグヤを盗み見た。カグヤはおろおろと困った顔をしていて、特に気づく様子がない。心情を推し量るほど関わりがないのだろう、穂鬼の反応と紅壽の発言だけで結論を導くのは至難の業である。
綺光はすこしだけほくほくした気持ちで「春ですねえ」と口のなかだけで呟いて紅壽の胸に顔を押し当てた。
「……姫綺?」
「……しばらくこうしていても、いいですか?」
「……」
紅壽は答える代わりに、抱き締める力を強めた。
穂鬼は腰に手を当てて不満げに頬を膨らませ、カグヤは愛おしそうにふたりを見て、そしてイドは――
『はぁ……誰もが私を忘れて穏やかな時を過ごしている……放置……あぁ……いい……!!』
身を震わせて喜んでいた。
◇◆
絹夜が帰ったとき、『赤猫郵便局』に零雨の姿はいなかった。代わりにいたのは長老で、彼は『坊主なら紫陽花のところにいるよ』と言った。行かないほうがいいかと思ったけれど、せっかくの機会だしと絹夜は零雨の背中を探した。長老の言ったとおり、彼は一か所だけ狂い咲いた紫陽花のところにいた。しゃがみこんで、なにかと会話をしていた。
絹夜が視認するより先にコハクが、「チャクだナ」と言った。
「零雨」
「……!! き、絹夜……!!」
声をかけると今まで見たこともないくらい、零雨が驚いた。驚いた彼の手のひらからぱらぱらと金平糖がこぼれた。シグレはぱっと紫陽花の中に隠れてしまった。
「お、お前……どうしたの? こんなところに」
「……長老が。……ここに、……いる。と」
「……ああ、そう。……そうか、あいつめ……」
零雨はくしゃりと額に手を遣って、ひとつ深く息を吐きだした後、観念したように「シグレ、おいで」と呼んだ。
花束のような紫陽花が小刻みに震え、小さく真っ黒な顔が現れる。ふたつの目は蛍火のようだった。身に纏う大仰な装備は動くたび、がしゃがしゃと音を立て不安定に揺れていた。雨の精霊チャクである。コハクの眷属だ。
シグレはコハクを前にして緊張しているのか、絹夜たちを前にしてすぐ案内した零雨の羽織に隠れてしまった。
「大丈夫だよ、シグレ。怖いことはないから」
『アィ……』
シグレはちょっとだけ顔を出した。人見知りをする子どものような仕草に、絹夜の口角も自然に上がる。
「……はじめ、まして」
『アィ。ボク チャ クシグ レ アル ジサマ ナマ エ クレ タ』
『そうカ、名を与えてやったんだナ』
コハクが興味深そうにシグレに近づいた。シグレが『ピェ』と言ってちいさく飛び上がる。
『オマエ、そうカ。……外れモノカ』
『アィ。アメフ ラセ ル、ウマク ナイ』
『チャクはそのあたり厳しいと聞くからナ』
コハクは偉ぶる様子もなく、まるで愛でるみたいにシグレのことを前脚でちょいちょいと触っていた。そのたび、チャクは大きな装備をがちゃがちゃ言わせながら委縮していた。
「外れモノ?」と聞いたのは零雨だった。声を辿る視線はすこしだけずれていたが、確かにコハクを感じているようだった。
『そうダ。チカラを正しく使えない奴は仲間内からひどく差別されル。チャクはワガハイの眷属だ、ワガハイの顔を立てるためにも出来損ないは弾くんダ』
「……」
絹夜が責めるような目を向けると、コハクは『ワガハイの意見ではナイ』と冷静に返した。
『〝隣人〟たちの間ではそれは当然の行い、通例ダ。世界には変えられない――変えることが容易ではない法則がある。元素に近しいワガハイたちはよりそれらに縛られやすいんダ。だから、ワガハイ個人がどう思っていようが、総意が変わらなければ外れモノは出続けるだロウ。大抵チカラを失って消えていくが、紫陽花がこいつを守ってくれたんだナ』
紫陽花は雨の要素を持つカラ。
コハクは説明しつつ、終始シグレを前脚やら尻尾やらでからかっていた。悪意から来るものではないのは目に見てわかった。だから零雨も絹夜もなにも言わず放っていた。
『アル ジサマ コンペ トウクレ タ。 アマ クテ ヤサシ イアジ ダタ』
『やさしさがそのままオマエにチカラをやったんダロ。感謝しろヨ、滅多にあることじゃナイ』
『ウン』
『ふうん』とコハクがシグレを見遣る。
シグレは視線の意図を捉えかねているようで、頭を傾げていた。
『――聡明なコじゃないカ。雨の調節なら、ワガハイが教えてやろうカ』
『エッ』
『ワガハイの好いているヤツが好いているヤツの、〝隣人〟だからナ』
『ア アワワ ワワ』
がちゃがちゃがちゃ!
さっきよりもずっと大きく装飾が鳴った。シグレはびっくり仰天していて、その場を右往左往したのち、後ろにひっくり返った。零雨が慌ててその小さな体を起こした。シグレは目を回している。
「……これは?」
『ワガハイの好意にとんでもなく驚いたようだナ』
「……君、わざとじゃないだろうね」
『そんなことするわけないダロ』
零雨にはコハクの顔は見えないから、言い方で気づくしかない。零雨が伺うように絹夜を見ると、彼は肩をすくめて「……気持ちは。……本気、だ」と言った。
物言いこそ冗談めいていたけれど、その内側にある心は本物であると。
零雨は腕の中で昏倒しているシグレを見て「……よかったね」と声をかけた。
◇◆
チャクを家に連れて帰り、零雨と絹夜は向かい合った。コハクは絹夜の隣に体を丸めて寝ているが、その姿は零雨には見えない。
「……零雨」
「……隠していたのは……申し訳なく、思うよ」
取り立てて責める気持ちはなかったのだけれど、どうやらそう感じたようだ。どことなく零雨は気まずそうだった。どうすれば伝わるだろうか、と絹夜は焦る。
もとより口下手だ。感情を表に出すのは、不得手である。猫だから尻尾が代わりに己の抱く感情を表立って伝えてくれるが、今は尻尾に頼るのは違う気がした。
絹夜はごくり、と唾を飲み込み、意を決して「……責めて、ない」と言った。
「……絹夜」
「……実は……ずっと。……気づいて、いた。……でも、隠している、から。……言うのも、……違う、気が。……して」
「……そう。……お前はやさしいね」
「……」
わからない。
これがやさしさゆえの気遣いなのか。あるいは――
「……き、……嫌われ、……たく、……ない」
「え?」
「……あなたに……嫌われ、……るのが。……いや、だ……」
「……きぬさやちゃん……」
臆病だった。
隠していることを問い詰めて、零雨に嫌な思いをさせたらどうしよう。
零雨はいつでもやさしかった。絹夜はずっとそのやさしさに甘えてきた。彼は自分が嫌だと言えば、きちんと理解してやめてくれるし、甘えたいと言えば甘えさせてくれた。
でも、心のどこかで無理をしているのではないか? と疑問が鎌首をもたげた。
「……でも。……嘘、じゃないのは……わかる、から」
零雨のやさしさはほんものだ。それを疑うつもりはない。
すべては自分が臆病なせい。彼を信じようとするのに、どうしてか疑問が生じてしまう。
振り払おうとしても、芽生えて、幾度となく摘み取って。
そんなことを、絹夜は繰り返していた。
どう言葉を紡ごうか、考えて口のなかが、からからに乾く。潤そうともう一度つばを飲み込んだところで、零雨に両手を取られた。革手袋と袖に覆われた手。直に触れてはいないものの、ぬくもりは確かにあった。
「……俺たちはもうすこし、話をしたほうがいいのかもしれないね」
「……零雨」
「ずっと一緒にいるのに。そばにいることが当たり前で、嬉しくて。……思えば、あまり話をしていなかったような気がするよ」
「……ん。……俺が、……」
「ううん。俺も臆病だったから」
お互いさまだね、と零雨は笑って、絹夜を引き寄せた。
あたたかさに包まれる。頭を撫でられると、急激に眠気が襲ってきた。
眠ってはいけないと思うのに、下がってくる瞼に抗えなかった。
「……れ、い……う……」
「俺の可愛い一等星。俺をお前の帰る場所にさせておくれ、願わくは――」
お前のもので、いさせて。
零雨のその言葉は眠りの落ちる絹夜の耳に、やさしく降り注いだ。
さながら紫陽花を潤す雨のように。
◇◆
絹夜を布団に横たえたところで、家に設置していた黒電話が鳴った。
にゃあにゃあと猫たちが絹夜に乗じて集まるのを横目に見つつ、零雨は電話に出る。電話は紅壽からだった。
開口一番、彼は『バレた』とだけ言った。なんのことであるかは、すぐわかった。
「……そう。俺もだよ」
『そうか』
「なんだがね……」
永遠を望んで、ここにいるのに。
永遠が約束されたからこそ、言葉にできない想いがお互いに積もり積もっていた。
体を重ねるだけでは伝わらないこともあるのだと、零雨が自嘲気味に言葉にすると『……そうだな』と紅壽は淡々と返した。感情の機微が見られないから聞くひとによっては素っ気なく聞こえるのかもしれない。でも、これくらいの距離感が零雨には心地よかった。変に感情移入されても困るだけだからだ。
「俺がきぬさやちゃんを嫌うはずなんてないのにね。でも……俺だって彼に嫌われる想像をしなかったことがないわけじゃない。好きであればあるほど、愛おしく思えば思うほど不安というのは募ってしまって……。まったく、仕方がないね」
『……ああ』
「……」
『……俺たちは、執着をもとにここにいる』
「……? ああ」
『終わりが来るとすれば、その執着がなくなるときだ』
「……」
零雨はなんとなく彼の言わんとしていることを察して、口を噤んだ。
『……あると思うか?』
訊ねられて、零雨は思わず笑ってしまった。
返答を待たず、紅壽は続けた。
『……あるわけがないんだ。……そうでなければ、この身を異形に窶したりしない』
「……その通りだね」
『しかし、あくまでそれは俺たち側の話だ。……綺光や絹夜が同じとは限らない』
「……」
『……不安は、そういうところに起因する。……愛想を尽かされたらどうしよう、などと思う。……自分自身を……あまり。好きではないから』
「……俺たちはもっと自分に自信をつけるべきなのかもしれないね」
紅壽の言葉の糸をほどいて、零雨が言うと電話口で彼が笑う気配がした。
『……またひとつ、執着が増えてしまったな』
「本当に終わりが見えないなあ」
零雨はうなじを掻いた。
どんどん存在し続けなければいけない理由が増えていっては、ほんとうに永遠である。
この果てしない旅路が、できうる限り多くの光で満たされているように。
自分の成すべきに、全力を尽くそう。
零雨は絹夜の寝顔を見ながら、静かに誓った。




