加藤新王
九曲坂のふもとで、修羅と果奔が、剣介と話している頃、果奔の祖父であり、恵母子市の経済界の大立者でもある加藤親王は、自分の所有する駅前のビルの屋上にあるペントハウスのテラスから、目の前の“海”を眺めていた。もちろん、駅前にあるこのビルが、本物の“海”に囲まれているわけもなく、親王が、ビルの屋上に、出入りの造園業者につくらせた、海をイメージした人口池である。そして、その人工池の中央部に、盛土を幾重にも積み上げて造成したのであろう、小島に模した陸があり、一面を砂で覆われた平地にペントハウスを建てている。建物の周囲には、親王の思い出の花である浜木綿が、数えきれないほど植えられており、まるで観光スポットであるアロハビーチがジオラマになったかのような景色だった。この人工池が完成した当初、知人を招いて、お披露目パーティーを開いたが、来客からの評判も上々で、現在では、市の登録有形文化財の小室椿園と並び称されるほど、知名度は高い。加藤家を訪れる者は、皆、この“海”のジオラマを見ることを楽しみにしていた。
「おい、一富士園に電話!!すぐにに来てくれるように伝えてくれ!」
親王は、テラスに続く応接間で新聞に目を通していた妻の茜に叫んだ。茜は、新聞をテーブルに置くと、窓際まで近づき、親王に優しく声を掛けた。
「あら、あなた、社長の津久井さん、先月、お見えになったとき、『来月は、手一杯』っておっしゃってたじゃありませんか。他の造園業者の方じゃ、駄目なのかしら?そんなことより、香坂さんのライブ、きょうの午後からでしょ?そろそろギャラリーの方へ降りたほうがいいんじゃありませんか?」
妻の茜は、まったく関心がないかのような口ぶりで答えた。
(『そんなことより』だと?…自分たちの住居に関わることじゃないか。もののわからん女だな。津久井でなきゃやれない仕事だから、一富士園に頼むんだ。造園は、アートなんだ。造園の技術ももちろんだが、それ以前に、優れた美的センスと設計力がなければやれない。どこでもいいというわけにはいかないんだ)
「いい!!下へ降りて、自分で電話する」
親王は、憮然とした表情で、言い放つと、テラスから応接間へ入り、エレベーターの昇降口へと向かった。