3億円
恵母子市議会議員である大栄勇斗は、地元有力ゼネコンの会長職にもあったが、実は、若い頃、世間の若者にありがちな華やかな世界で活躍したいという夢もあった。舞台俳優と見まごうばかりの容姿に、洗練された身のこなし。大手自動車メーカー日産自動車の特装会社が市内にあることもあり、その影響もあったのだろうか、日産車を愛し、白いフェアレディZを保有していたが、大栄が駆るその姿は、まさに映画俳優としか例えようもないほどに華麗であった。その大栄が、いま、自分のいるここ恵母子市役所に、あの日本を代表するトップシンガーである醍醐剣介が来ていると聞いて、大いに好奇心を刺激された。
(…もしかしたら、わたしだって、彼のように、スポットライトを浴びる世界で、華やかに生きていたかもしれない)
ふとそんな感慨にとらわれた。
(ひとつ、醍醐剣介の顔を拝んでみるかな)
幼稚園児の姿をしているからというわけでもないだろうが、悪戯心が芽生えた。
「近藤さん、ちょっと内線、使わせていただきますね」
近藤は、嫌な予感がしたのか、浮かない表情で電話器を、大栄の方へ差し出した。大栄は、市長室の内線番号をプッシュした。
「あっ、市長、いまから少しお会いできませんか?えっ、ご来客中ですか?…醍醐剣介さんですね?存じています。実は、芸能推進課について、非常に重要なアイデアがありまして…はい?…醍醐さんに、わたしが同席することを、お許しいただくようお願いしてはいただけませんか?」
大栄勇斗が、小さな町の工務店を、市内でも指折りのゼネコンへと押し上げることができたのは、建設業者としての仕事ぶりが世間に認められたおかげだけではない。常人なら、尻込みしたくなるような状況でも、敢えて果敢に挑む強い“心臓”があったからだ。
「おお、それはありがとうございます。わざわざ東京からお見えいただいているのですから、実り多き成果をお持ち帰りいただきたいものです…直ぐに伺います」
人生の扉は、まず叩いてみることだ。中から出て来る者が、歓迎してくれるか、塩を撒くかは、ドアが開かれなければわからない。
「近藤さん、ありがとうございました。ちょっと、市長に、ご挨拶して来ます」
黄色い出で立ちの大きな“幼稚園児”が、エレベーターの方へ歩き始めた。近藤は、呆気にとられて、その後ろ姿を見送るのが精一杯であった。
(…さて、どうしたものかな。同席する許しを得たのはいいが、話しの“ネタ”がない)
大栄は、自主映画で自身が演じるほどの繊細な感情をもつ半面、このように行き当たりばったりで、大胆不敵とも思える面をも持ち合わせている。悪戯っぽい笑みを浮かべてエレベーターに乗り込んだ。中には、先客である都市開発課の職員らしき2人の人物が、話しをしていたが、乗り込んで来た大栄の姿を見て怪訝な表情を見せた。しかし、すぐに市議会議員の大栄であることに気づき、軽く会釈すると、仕事の話しに戻った。
「行山村から芹ヵ谷村にかけて購入した予定公物(市が後日公共施設として使用する土地)、もう10年くらい遊ばせたままだよな?」
「ん?…ああ、9900平方メートルの遊休地のことかい?確か、取得費用が、3億円くらいは掛かってるって話しだな。遊ばせておくくらいなら、俺なら、3億、銀行に預けておくけどな」
冗談を交えながら、談笑していた。聞くとはなしに聞いていた大栄は、ほくそ笑んだ。
(これでいくか)
エレベーターは、やがて5階で停止し、職員たちは降りて行った。大栄が操作盤の“閉”ボタンを押すと、エレベーターは、ゆっくりと市長室のある最上階へと昇り始めた。




