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UMINARI

(「それ」とは、いったい何なんだろう?)


 千場光一郎は、加藤親王の残した言葉を思い返していた。


(少子高齢化の原因となっている諸問題を解決するための具体策において、経済的支援を超える良策があるのだろうか?)


 しかし、解答を得るには、あまりにもヒントは少なかった。光一郎が、あれこれ思案している中、気づくと、ひとりの女性がピアノの前に立っていた。真っ直ぐに伸びた髪は、ライトを反射して濡れているかのように見える。


 そして、客席にゆっくりと一礼すると、ピアノの前の椅子に座り、ゆっくりと両手を挙げた。そして、一呼吸置いたあと、鍵盤の上に、指を降ろした。それはまるで、なにかの儀式のようであった。細く靭やかな指が白い鍵盤に触れたとき、ポーンという膨らみのある音が会場に響いた。ざわめいていた聴衆は、その音を、コンサート開始の合図と解釈したのか、いっせいに静まり、咳き一つもせず、彼女の挙動に注目した。


 彼女の黒いマニュキュアを塗った白くて細い指は、まるでピアノの鍵盤を連想させる。とするならば、黒いステージ衣装を纏った彼女は、さながらグランドピアノそのもののようだ。彼女の奏でた、たった一つの音が、会場に響き、そして、聴衆の心にしみていく。


 彼女は、聴衆の心を掴んだと感じたのか、無言のまま、曲を弾き始めた。先程の“儀式”とは、打って変わり、素早い運指である。その動きが奏でるメロディーは、数多くの軍馬の蹄が大地を蹴り、会場を走り回っているかのように響く。左手の指が、忙しげに鍵盤の上を走る。


 速い。しかも精緻。いったいその運指の精度はどれほど正確なのだろう。機械工学の世界で、精密な状態を数値化するときに、乗数を使う。誤差0.001とか10のマイナス3乗などと表現する。いま彼女の指は、作曲者が意図した理想とするメロディーを体現するために、人間業とは思えないスピードと正確さで、鍵盤の上を、振動するかのごとく上下する。まるで、コンマ何秒の世界で踊るダンスだ。正確無比。


 聴衆は、息をするのを忘れたかのように、彼女の演奏に聴き入っている。ただ、初めて彼女のコンサートに参加した者の数人は、不思議そうな顔をして、顔を見合わせたり、何かを探るような表情で、ステージを見つめている。


 彼女は、2分余りの曲を弾き終え、初めて、声を発した。


「革命のエチュード。ショパンの練習曲でした」


 愛らしい声である。恐らく、30代であろうと思われるが、容姿には似つかわしくない声質だ。


「ようこそ。香坂百合亜(こうさかゆりあ)です。本日は、“百合亜のトイボックス”へご来場いただきありがとうございました」


 “百合亜のトイボックス”は、ジャズシンガーである百合亜が、伝統的なモダンジャズのコンサートの選曲に、一石を投じたプログラムである。ジャンルを問わない、そのコンサートの内容を形容する言葉がない、曲目の組み合わせである。敢えて言うならば、“トイボックス(おもちゃ箱)”であろう。雑多に、そのときの気分で、百合亜が即興で選ぶのだ。だから、客は、当日、どんな曲が演奏されるのかを、まったく知らずに来場する。それを承知できる者のみが、チケットを購入できるという、実験的に開催されているコンサートだった。


「いきなりクラッシックからスタートして、驚いていらっしゃる方もいることでしょう。クラッシック音楽が、苦手とおっしゃる方も中にはいらっしゃるかもしれませんね…」


 そう言うと、その白い指は、楽譜を捲った。


 「次の曲は、カタルシスを感じさせるせつない愛の歌です」 


 白い指が、ゆっくりと鍵盤の上で踊る。ワルツを踊る男女のように、両手が優雅に舞う。哀愁を帯びた前奏が終わり、切々と、語り掛けるようなバラード調のAメロに、彼女は声を乗せた。聴衆が、ざわめく。


 光一郎は、ステージに注目した。


 太く擦り切れたような嗄れ声。男性的なその歌声は、会話での声とのギャップに、驚かない者はない。お世辞にも美声とは言えない。むしろ、聴く者によっては、真逆の印象すら受けるであろう。遠慮のない者は、彼女の声を、こう評した。


「ブラックホールが声を発するとすれば、きっと、こんな感じかもしれんな」


 3分45秒。聴衆が、驚いている間に、楽曲を歌い終えた彼女は、愛らしい声で、曲名を紹介した。


「UMINARI。恐らくみなさまはよくご存じだと思います。地元恵母市が生んだ不世出のスーパースター醍醐剣介さんの作詞作曲ですね」

挿絵(By みてみん)

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