オールドサマー
卓抜した才能をもつ果奔ではあったが、自分自身は、周囲が騒ぐほど、音楽に、執着心もなければ、こだわりもないようだ。そもそもが、先天的に備わった才能だから、そのことに感謝するとか、誇るとか、特別な感情などはないのだろう。われわれが、日常暮らしていて、空気があること、水があることに、感謝する気持ちが薄いのと同じである。だから、祖父から課せられているピアノのレッスンやボイストレーニングも、学校の課外授業くらいにしか考えていない。学校で勉強するのは義務、レッスンも義務なのだ。
(アッシュと遊びに行かせてもらえることへのお礼と考えよう)
それは、果奔の祖父である加藤親王も、お見通しである。レッスンを受ける様子に、どこか上の空であると感じるときがある。修羅とスケートボードをしに出掛ける日などは、とくに顕著だ。
この日も、果奔がなかなか姿を現さないので、レッスンを忘れているのではないかと案じて電話を掛けて来たようだ。
「どこにいるのか知らないが、取り敢えず、すぐにギャラリーへ来なさい。百合亜先生と、マリア先生がお待ちかねだよ」
果奔は、予定を忘れてしまっていた申し訳無さと、これから自分が言おうとしていることが、きっと祖父の逆鱗に触れるであろうことを予想して、気持ちが沈んだ。
「…うん…じっちゃん、すぐに帰らなきゃいけないことはわかるんだけど、アッシュが…いや、修羅が、怪我をしてしまって、このままひとりにするわけにはいかないんだ」
親王は、一瞬、言葉を失った。少し間をおいて、果奔には、電話越しに、親王が、呼吸を整える音が聞こえたような気がした。
「修羅くんといっしょなのか?で、怪我は酷いのかな?おまえはどうなんだ?まさか、指を怪我してないだろうね?」
「見た目は、擦り傷程度だけど、もしかしたら、右肩の骨が折れてるかもしれない。僕は大丈夫だよ」
「状況は、わかった。では、果奔、おまえたちが、歩けるようなら、ふもとまで下りて、タクシーを呼んで、そのまま二人で病院へ行きなさい。そこから最寄りの病院といえば、西部病院だろう。病院へは、わたしから連絡しておく。タクシーは、神奈湖交通に来てもらえ。所長に、話しておくから。そして、治療が終わったら、またタクシーに乗って、修羅くんを、彼の自宅へ送ってから、わたしの家に来なさい。もちろん、料金の心配はいらない…自転車?…わたしの会社のトラックを出すから、大丈夫だよ。修羅くんのは、彼の自宅に届けるように指示しておくから」
そばで、様子を窺っていた修羅が、果奔に声を掛けた。
「果奔、おまえは、すぐに、おじいちゃんのところへ行け。約束は守らないとな。でないと、いっしょにスケボー出来なくなるかもしれないじゃん」
果奔は、心配そうに、声を震わせた。
「僕は、アッシュを放っておいて、このまま帰るなんて出来ないよ。だって、アッシュ、右肩の骨、折れてるかもしれないじゃん。自転車だって、乗れないかもしれないだろう?それに、いま、じっちゃんに、アッシュを病院に連れて行きなさいと言われたし…」
修羅は、果奔のほうに、右手を差し出し、笑顔で言った。
「肩の骨は大丈夫だ。ただの打ち身さ。本人が言うのだから、間違いない。なんなら、俺と腕相撲やってみるかい?仮に、肩の骨が折れてたって、おまえなんかには負けないぞ。それに、病院に行くにしても、ひとりでへっちゃらさ。小学生じゃあるまいし。あまり、俺を子ども扱いしていると、いっしょに遊んでやらないぞ!」
果奔は、元気に振る舞う修羅を見て、少し安心したのか、微笑みながら答えた。
「アッシュ、ずるいよ。僕が、左利きなのは知ってるだろう?それから、僕達、12歳だから、まだ、子どもだろ?…わかったよ。アッシュに絶交されるのは、嫌だから、アッシュの言う通り、僕はじっちゃんの家へ行く。だから、アッシュもすぐに病院へ行くんだよ」
「えへへ。ああ、わかってる。じゃ、取り敢えず、自転車を置いてある場所まで下りるとするか」
二人は、崖を這い上がり、道路に沿って歩き出した。ちょうどそこへ、白いハイエースが、下って来て二人の横に止まった。助手席から、若い女性が降りてきて、二人に、道を尋ねた。
「きみたち、ちょっと、ごめんなさい。恵母子ビーチに行きたいんだけど、この道でいいのかしら?」
お下げ髪にした若い女性で、黒色に近い濃いグレーのスウェットシャツを来ていた。赤い糸のステッチが特徴的で、胸に、洒落たデザインの英文字で、ブランド名が刺繍されている。
果奔が、たどたどしい発音で読み上げた。
「オー、ル、ド、サマー…オールドサマー! 学校で習った単語だ!!」




