不協和音
祖父である加藤親王は、人差し指で、ピアノの鍵盤のひとつを叩いた。押し下げられた鍵は、ハンマーの動きを促し、ピアノの“神経”ともいうべきピアノ線を叩き、震わせた。その振動は、響板に伝えられ増幅し、ピアノが身震いするかのごとく音を発する。
沈鬱な響きが、部屋の中に広がった。親王は、笑顔を向けて、果奔に尋ねた。
「…さあ、果奔、いま聴いた音が、どの音かわかったら、そのキーボードの鍵盤を叩いて、教えておくれ」
果奔は、すーっと右手の人差し指を差し出し、赤いキーボードの鍵盤のひとつを軽く押した。重い低音が響いた。
果奔は、親王の愛猫であるヴォルフガングの頭を撫でながら、幼い丸い瞳で、親王の目を見据えている。親王には、あどけないその瞳の底に、自分の選んだ音に対する自信が見て取れた。
(お祖父ちゃん、正解でしょ?)
親王は、驚きを隠せなかった。
「すごいなぁ。そのキーボードの32鍵の鍵盤で言うと、左端、一番低い“ファ”の音だよ。果奔、正解だ…」
果奔の横に座っている母親に尋ねた。
「佳子さん、果奔に、ピアノを習わせいていたかな?」
「…いえ、とくには」
「うむ。そうだよね」
親王は、頷きながら、果奔の顔を見た。
(わずか7歳の子ども、しかも、音楽にかかわる訓練など、一切受けていないというのに、正確に音程を聴き取れるとは驚きだな…しかし、まぁ、まぐれということもあるし…)
「…では、この音は、わかるかな?今度のは、ちょっと難しいかもしれないよ」
親王は、そう言うと、再び、ひとつの鍵盤を叩いた。先程の音より、少し軽い音、重しが取れて、少し楽になったというイメージを想起させる中高音だ。
果奔は、躊躇なく、キーボードの中心に近い“ラ”の鍵を押し下げた。
「ほぉ~、また正解だ。果奔、では、今度は、ちょっと、後ろを向いてくれないか」
親王は、果奔が、鍵盤を押し下げる位置を見て、視覚的に、押し下げるべき鍵を決めているかもしれないと思った。
「いいかい?今度は、この音だ…」
先程までの音とは違い、張り詰めた金属線が、弾かれたような細く高い音だ。
果奔は、正面を向くと、赤いキーボードの鍵盤の中から、右端から2番目の“シ”をたたいた。弾けるような高音が、室内に響いた。
親王は、小さく拍手しながら、果奔に近づき、小さな肩を抱きながら言った。
「素晴らしい。おまえは、どうやら、ご先祖さまから、素敵な“財産”を引き継いだようだ。わしの母親は、ずいぶんピアノが上手だったからな…これは、加藤家にとって、たいへん喜ばしいことだ。うん、めでたい!!」
親王が独り言ちる様を見て、親王の息子の嫁である佳子は、なんだか誇らしい気持ちになった。
肝心の果奔は、祖父に肩を抱かれて、きょとんとしていた。
(お祖父ちゃん、なんで、こんなに喜んでんだろう)
親王は、果奔の肩を離し、満面の笑みをたたえて言った。
「充分だ。おまえの類まれな音感を、これ以上試す必要もなかろう。さぁ、約束のマロングラッセを買いに行くとするかな…」
親王が、果奔の手を取り、立ち上がらせようとしたとき、隣室で、なにかを床に落としたような大きな音がした。恐らく、祖母の茜が、食器を床に落としたのであろう。耳障りな破壊音が、親王たちのいる部屋にまで響いた。
すると、果奔の足元で、おとなしく伏していたヴォルフガングが、物音に驚いたのか、弾かれたように、グランドピアノの鍵盤に跳び乗った。いくつもの鍵が同時にたたかれ、複雑な不協和音が鳴り響いた。
果奔は、親王の手をゆっくりと振りほどき、キーボードの4つの鍵を押し下げて言った。
「お祖父ちゃん、後2つ、音が足らない。指が届かないよ」




