悪役令嬢は嗤う
「エルザ。もう君とはやっていけない」
そっと伏せた睫毛は瞳に影を落とす。煌びやかな夜会の明かりを背景にバルコニーで憂う姿もいい、なんて思うけれど、どうしたものか。
わたくしの婚約者たる王子様が、汚ならしい猫と戯れているらしい。通っている学園は貴族以外に庶民が混ざっており、それが国を支える官僚になると思えば、まあ、彼らと交流を好意的にとらえられないこともない。だが、その気もなさそうな、ふわふわ愛嬌を振りまいているだけの猫は別だ。
貴族が大多数を占める学園では苦労があるだろうと、交流どころか世話まで焼いているらしい。そのようなことをして何になるのか。利はなく、不利益を被るだけなのに。
お優しい王子様のことだから、今更猫を放り出すことができないのだろう。話し合ってもお気持ちに変化が見られなかったため、わたくしが代わりに手を回した。お友達に声を掛け、猫の排除を試みる。だが、どうにも思うように事が進まない。王子様が、まるで騎士のように猫を守ろうとしているためだ。わたくしたちは猫に身を引くように促しているが、その相手となる肝心の王子様が猫に近づいてしまう。
どのように諭せば、理解してくださるのかしら。
わたくしたちが排除を試みたことで、逆に王子様は猫に拘るようになってしまった。
こまったさんだこと。頬に手を添えて溜息をつく。最近はわたくしの話に耳を傾けてくださらない中、王子様から話を持ち掛けてくださったチャンスを溝に捨てたくはない。
入念に言葉を選んでいると、わたくしと王子様以外に人気がなかったバルコニーに二名やってくる。お取込み中なのだから、さっさと退散してくれないかしら。
だが、その二名は偶然でも空気を読めないでもなく、この場に招かれてやってきたらしい。
「アリー」
「シリル様……」
猫はなんで気安く王子様の名を呼んでいるのかしら。それと王子様も、なぜ愛称で猫の名を呼んでいるの?
猫ことアリスは王子様のご友人を伴い、エスコートされていたその手を離して王子様に寄り添う。王子様は当然のように受け入れて、その身に腕を回した。
なあにそれ。
いくらお優しいといっても、わたくしという婚約者がいてすべきことはある。
それなのに、なぜ二人は熱に孕んだ目で見つめ合っているの。その体を触れ合う親密さは、ただの友人の域ではなくて――――
「ああ、そういうこと」
王子様は、わたくしの王子様でなくなったのね。
わたくしの中の価値観が一気に崩れる。猫は変わらず猫のままで、王子様は己が立場を弁えず欲に翻弄された愚かな男と成り下がる。
優しい性格は民への慈悲の心に必要なものだから、猫へ過剰に世話を焼くのも仕方のないことだと受け入れられた。だが、超えてはならない一線を越えてしまえば、それは優しさとはいえない愚かな何かだ。
「エルザ……?」
愚かなシリルとなった男は、なぜか気安く名を呼んでくる。少し前までなら喜んでいたが、わたくしの王子様でなくなった以上不快にしか思えない。
…………そこの猫とはかなり親密だし、既に肌を重ねたかもしれないわね。
「汚ならしい」
もう同じ空間にもいたくない。
ただ見限ったとはいえ、婚約者を取られた形となる。そのまま去るのは面白くなく、表情を取り繕って頬を吊り上げる。
「わたくしは、お二人の行く末を祝福しますわ」
愚かな男となって、愛嬌しかない猫とはとてもお似合いになっていた。だが、今はよくても男の一応王子である身分が、猫を守るどころか害することになる。国内中の貴族が庶民の猫を許すはずがない。
そんな不幸が待っている行く末をわたくしは祝福する。
これまでと一変した態度に愕然としている二人に溜飲が下がり、その場を去ろうとする。そう急いたのがいけなかったらしい。
「お前、アリーにしてきたことを忘れたとでもいうのか!」
完全に置き物と化していた男の友人が激昂する。嘘でも謝罪をしなかったことが気に障ったらしく、突き飛ばしてくる。その力はわたくしが欄干を乗り越えるほどだった。
ここは二階。打ち所が悪ければ、最悪死が待っている。
死にたくない。
落ち行く身を感じながら、助けを求めて宙に手を伸ばす。
「エルザっ!」
愚かな男でも、いや愚かな男だからこそ厭うわたくしを助けようとする優しさがある。
今にも届きそうなその手を、わたくしは振り払う。拒絶されると思っていなかったという驚愕の表情には、不快だった気持ちが晴れ晴れとした。
手を振り払ってしまうなんてわたくし自身も驚いているが、助けよりもプライドを優先するなんてわたくしらしいと納得もする。
二人にとっての最初の不幸の始まりが、わたくしとなる。自身を犠牲にした盛大な祝福に、話を聞きつけた方々はさぞかし喜んでくれるだろう。婚約者を追い詰め、突き落としたのだと。実際は男の友人が行ったことだが、同じことだと嬉々として追及するはずだ。一応王子という身分も剥奪されることになるかもしれない。
その様を想像して、わたくしは嗤う。
そのおかげで迫りくる衝突の瞬間は怯えるなんてことなく、たいそう待ち遠しかった。