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一条の計画


それは本当に突拍子もないことだった

 

タチが悪いのは、突拍子もない上に通常とはかけ離れた思考で、つまり法に反した行為だった

 今更、やってしまったことに対してあれこれ過去を悔いるのも愚かしいと開き直れるあたり、私も大分イカれた人間なのだと自虐するが、奴も中々稀に見るクレイジーな男であった

 

異常な人間というのは、実は2種類に分別されて、人に好かれる個性としてか、胸糞悪い常識はずれのどちらかなのだが、彼は後者だった

 彼の異端さをここにつらつらと並べては、もはや私は三日三晩寝食を得ることができなくなる危険性があるため、こみ上げてくるものを抑えて筆を置こうそんな過去の話よりも目下、私の悩みの種、それは一本の髪の毛によるものなのだ

 

           X


その日は、本当にすこぶる天気が良かった、当然、人間的な文化的生活を望む私はその過ごしやすい休日の正午過ぎに自慢のテラスで読みかけの大衆小説を片手に舟を漕ぐ算段だった 

 

ところが、ところがだ

 

あの忌々しい成金男の一本の電話で全てが崩れていった

 あの男は常日頃から自分の気分というものをまるで神の啓示の如く尊重して、それを周りに強要してくる節があったが、その日のそれはこれまで一滴一滴と耐えていた水面を溢れさせるには充分だった

 

もしも、動機と言われればやはり一番の引き金はその日の奴の電話だろうが、実際は数年間培われてきた鬱憤の数々だ

 殆どの人間に心当たりがあると思うが、一度この境地に達するともう冷静な判断というのは自力ではたどり着けない

 心というものは脳に存在するという説を唱える者がいるが、私が断然心臓の中央説を支持するのは、ちょうどこの時もその部位から消したくても拭きれない靄のようなものがゆらゆらと立ち昇っていたからだ

 そうして、それはゆっくりとだが着実に勢力を広めて遂には感情という心の分野から抜け出して理性という頭のてっぺんに到達する、もちろん、理性も感情であるという指摘は甘んじよう、だが、そんなことは問題ではないのだ、話が逸れてしまったので本筋に戻そう

 

つまり、その時の私は到底冷静ではなかった

 

ここ数年、私に心理的に悪影響を及ぼす原因を排除するそれこそが私にとって一番重要なことと、それまでの平穏で幸福な暮らしのことをすっかり忘れてしまっていた、その勢いのまま事に及んでしまったのであんなバカなことをしてしまったのだろう

 

長々と連ねてきたが私がしたこととは殺人である

 

しかし、悔いていることというのはそれではなく、冷静さを欠いた頭で起こしたつい出来心のことなのである

 

           X


 山本浩史殺害の容疑で身柄を拘束されたのは被害者の近所の喫茶店で働く20代の女性だった

 逮捕の要となったのは現場に残された一本の髪の毛

 その他に犯人を示す手掛かりは一切なかったが、それだけで充分だった

 犯行予想時刻でのアリバイもなく、更に動機としては、喫茶店での勤務中に性的な心理的ダメージを与える言動、特に金銭的に余裕のない彼女に売春を促すような非道徳的な行いが、周囲から数多く寄せられ、それらが検挙の要因の一つとなった

 

「明美ちゃんが、そんなことをするはずがないんです、絶対に」

 

オーナーの浅岡が怒りを押し殺したような低い声で吐き出した、いつもは穏やかな笑みを浮かべている顔は深い皺が刻まれ、彼女が逮捕されてからずっと耐えていたことが見て取れる

 大森が喫茶店に現れて、浅岡と視線だけの会話をした後、ぼそりとだが、力強い意味を込めて言った

 大森はこの喫茶店の長い常連で更に頻度も週に二回以上は大体通っている、その為、浅岡とは言葉がなくとも何となしに伝わり合うものがある

 淹れてもらったコーヒーを見つめる

 

彼女はやっていない

 

事実だ、何故なら私が山本を殺したからだ

 こんなことになってしまったのも私の馬鹿な行いのせいだ

 というのも、私は読書を唯一の趣味としており、特に好き嫌いなく雑食にあらゆるジャンルの作品を読んできたが、どうしても内心白けてしまうのは推理小説にある机上の空論とでも言うべき謎解きの数々だ

 そこでは、探偵があらゆる証拠を突きつけて最終的に犯人はお縄か不幸な結末が大体を占めているが、どうしても私の歪んだ性格か、彼らの名推理にケチをつけてしまうのだ

 もちろん、それこそがノンフィクションであり、想像の産物で現実とは違うから娯楽になるのだと理解しているし、指摘されるから人には言わないが、とにかく常日頃からそんなことを思っていた


 以前、一度だけそのことをぽろっと熱心な推理小説愛好家に溢してしまった時はそれはもう大変だった

 彼女の熱弁で私はいつも、2、3杯しか飲まない珈琲を少なくとも7杯は胃に流し込んだからだ、大人しそうな物腰からは到底想像できなかった彼女の力強くそれでいて熱意のある演説は、私しか客のいない喫茶店で私と穏やかに微笑む浅倉に大いに振る舞われた

 

そう、その女性が飯倉明美。


この喫茶店に雇われていた唯一の従業員で私の起こした事件の容疑者だ

 

そして、私の馬鹿げた考えの被害者である

 

私の馬鹿げた考えというのは、先ほど言ってた推理小説の不安定な証拠についてなのだが、昨今、警察の捜査というのは科学的に進歩しているらしく、小説の中でもそう言った場面が大いにある

 たとえば、部屋の中に被害者のものとは違う爪の破片や血痕髪の毛などがあってそれが犯人に繋がる鍵と言ったようなものだ

 

だが、私は思うのだ

 

血痕はまだしも髪の毛ならば偶然に全く関係ない他人のものが落ちていることも充分に考えられるのではないか

 

たとえば、今部屋にいるのなら自分の周りを見回して欲しい病的な潔癖性でなければ、女性で有れば長い髪の毛や男性でも陰毛などがそう探さなくても目に入る筈だ、外出先では分かりづらいかもしれないが、それでも同じように視界に入らなくても存在はしているはずだ

 

たとえば、想像して欲しい

 これから人を殺しに行くぞと勇んで飛び出した男が目的地に着くまでの間に偶々誰のものとはわからない髪の毛やらをその黒づくめの服のどこかに貼りつけて犯行現場でアグレッシブに運動した事によってひらひらと儚く現場の床に着地してしまうなんてこともあるのではないか

 いや、いつも考えてる推理小説の穴というのはもう少し捻った考えをしたもので、これは、ちょっとした思いつきみたいなものなのだが、残念ながら、天気の良い休日にさあ行くぞと意気込んだ男の頭に浮かんだのは巧妙なトリックではなく、ちょっとした遊び心だった

 

私はまず、古本屋や図書館などから得た本の中から、時たまにある髪の毛を慎重にビニールのチャック式の袋に詰めていった、ちょうど刑事ドラマのような具合にだ

 私は、本に挟まっている他人の毛に嫌悪感を抱く人種ではないが、だからといって何か触るのはやはり薄気味悪い感じがしており、そういったものを見かけた時、知らぬふりをしてそのままにする傾向がある

 そうして、集まったかれこれ十数本の髪の毛と共に念入りに自分の支度を整えていった

 この2、3時間の間に髪の毛の入ったビニール袋をゴミ箱に投げ捨てて私は何をやっているんだと嘲笑できればよかったのだが、何故だか私は悪戯をする子供のような気分でいつになく乗り気に作業を済ませてしまった、これによって他の人間に罪を着せようとか、自分の保身を図ろうとかそういった考えは一切なかった、どうせ無関係の人々な訳だ、濡れ衣を着せることもできやしないだろう、

 そうして私は天敵山本に渾身の一発を放ち、馬鹿みたいに髪の毛のコレクションをばらまいたあと、すっきりとした心持ちで家のベットで夜を迎えたのだ

 



 あの髪の毛の中には彼女のものがあったのだろう、私はよくこの喫茶店に本を持ち込んで長居をきめこんでいた

 もしかしたら、彼女のあの素晴らしい演説の時に持っていた本に挟まってしまったのかもしれない、いまとなっては、そんな事は問題ではないのだが、人というのは過去の失敗については下らないほど時間を割ける

 どうした理由で彼女が捜査線状に上がったのかは私も詳しくは知らないのだが、しかし、不幸な事に彼女は警察の目に止まってしまった、そして、もちろん自分の無実を知っている彼女は疑惑を晴らす為喜んでDNAの提供をしたのだろう

 思ってもいない現実を突きつけられ、絶望したであろう彼女を想像すると胸が締め付けられる、そして、自分の身勝手で浅はかな行為に何度嫌悪したことか


「明日、明美ちゃんの面会に行こうと思っています」


 浅岡の言葉に後悔の渦の中にいた私は引き上げられた


「彼女は無実です」 


 憔悴した表情の浅岡に罪を告白する心地で告げた

 残念ながら、この時の浅岡には真意は伝わらなかった

「ええ、わかっています

 直ぐに証明されるでしょう」

 


           X


 事件は迷宮入りした

 つまり、ありがたいことに彼女は無罪として釈放されたのだ

 私は彼女が解放されたと聞いた時それはもう踊り出しそうだった、その時ばかりは神に感謝した

 私は実のところ大した事はしていない、私は指示された事を調べ、あらゆる伝手を使って足を棒にして必要な材料を用意した、彼女を救ったのはあのいつも人の良さそうな笑みを浮かべた初老の喫茶店のマスターだった

 彼の名推理にはとにかく舌を巻かれた、全く意味のないように思える事柄から一縷の藁を紡ぎ出し、それを頑丈な荒縄へと進化させ、沈んでいく彼女に救いの手を差し伸べたのだ

 私はもう2度と推理小説を机上の空論等と馬鹿にしない

 

           X


 穏やかな陽気の素晴らしい休日の午後だった

 私は色鮮やかなパンジーが可愛らしく散りばめられた庭を背景に自慢のテラスでつい先日薦められたばかりの小説を読み耽っていた

「どう?面白いでしょう?」

 家の中でお茶の用意をしてくれていた妻が誇らしげに私に声をかける、ちょうど休憩したいところだったので私も本から目を離し彼女に応じる

「うん、まあ中々面白い展開だね、ここから、どう綺麗にまとめるつもりかハラハラするよ」 

 彼女の手から珈琲を受け取り、皮肉めいた口調で言った

 彼女はそれに気分を害することなく隣に腰掛けた

 私の少しばかり人よりも歪んだ扱いづらいところは彼女にはすっかり慣れていて一々そんなことには突っかからない、上手く私を掌で転がしてくれているようでそれは私にとって案外心地の良いものだった

 猫舌な彼女が珈琲を息で冷ましているのを横目に私も頂く

 流石、あの喫茶店で何年も働いていただけある確かな腕前だ浅岡の味とはまた違った風味を感じるが、私はどちらも好きだった

 あの事件の後、無事釈放された彼女は、だがしかし、これまでの生活通りとは行かなかった

 もちろん浅岡は喫茶店を辞めさせるような事はなかったが、人の噂と言うのは本当に醜いものだ、好奇心が善人を殺そうとする

 また、彼女の容疑を深めることになった発言をした者などは彼女にやはりどこか遠慮がちになり、彼女も以前より周りの人間に壁をつくるようになった

 私はそんな彼女に初めは罪悪感から慰め、彼女のこれまでの人生の苦労、身辺の事できる限りのことから私の持てる力を尽くして彼女を保護し、償いをし、そして気づいた時には彼女に心を寄せてしまい、結婚を申し込んでいた

 我ながら何と厚かましいお願いだろうか、しかし私の麗しい女神を涙を流しながらそれを了承し、私達は結ばれたのだ 

 浅岡は幸せそうな私たちを見ていつもの優しげな微笑みを浮かべてうなづいた、もしかしたら、浅岡は全てを知っているのかもしれない、しかしなお、私達の姿を見て真相を胸の内に潜めていてくれるのではないだろうが

 

私は私が彼女の人生から奪ったもの以上に彼女を幸福にするつもりである

 


           X


 その月も金銭的に苦しい生活だった

 雇い主の浅岡は私に対し破格の待遇をしてくれており、私も彼の優しさに応えたいと真面目に働いていた為、浅岡はもっと私の負担を減らそうと申し出てくれていたが、これ以上甘えるわけにもいかなかった、彼だって自分の店を守らなければならない、特に常連客で保っているような昔ながらな喫茶店には、この先の為の蓄えも必要に思えた

 

その日は既に何度目かの呼び出しだった

 

あの心根の醜い男の元に行くと思うと堪え難いものが湧き上がってくるが、仕事と割り切る

 元々、浅岡に出会うまではそういう仕事で飯を食っていたのだ

 今の幸せな生活を守る為なら多少の犠牲も払ってもいい

 ハイヒールに踵を入れながら、ふと1人の男のことを思い出す

 彼は浅岡の店の常連で本を片手に長居する1人だった

 あまり口数は多くはないが、読書家なのだろう、開け出すわけではないが言葉の端々から知性とそして、彼の癖のある考え方が滲み出てて、彼の理性的でありながら、どこか狂気めいているところのギャップが中々私は気に入っていた

 

また、ある日彼が推理小説に大してお得意の自己解析を披露した時、私は私の力の限り彼を改宗させようと半ば強引に話の流れをもぎとったのだが、彼は嫌な顔一つせずに感嘆するようにちゃんと私の話に耳を傾けてくれた

 そうしたところが私にはとても好ましく思い、私はお客の一人としてこの男が好きであった


 だが、時としてこの男は酷く人が変わったようにことがあるそれは酒でも賭博でもない、そう今私が顔を合わせるあの男に関することだ

 とにかくあの男は人を不快にさせることが得意だ、息をするように琴線を撫でそれを何とも思わない、そして、特に私が実は彼のことを気に入っているということを知ると他の人に回していた分の悪意を彼に集め始めた

 彼の疲労とそれによって時折剥がれ落ちる幼稚で邪気に満ちた一面に、罪悪感と不安を抱いていた

 

 だから、その日少し目を離したすきに彼の手によって山本が絶していた時、私はああ、止められなかったと後悔していた、そして、彼が生来の無邪気さで阿呆じみたことをし始めたときは彼を哀れに思い、しかしながら、ふつふつと慈しみが湧いた


 どうやら、私も少し異常らしい

 

とにかく、この頭のネジが外れてしまった男を救えるのは私しか居ないようだ

 私は男がいなくなった後、男のために彼が疑われることのないよう現場の処理をした

 一通り手を尽くし、達成感を感じて私も現場を後にしようとした時、一つのよくない考えが脳裏に浮かんでしまった

 このまま、山本の死が問題なく終結し、男が安寧を取り戻したら、また私たちは只の店員と客の関係に戻ってしまう

 

もちろん、今まではそれでよかった、でもあの男に憶えた感情、そしてその彼のために尽くせた喜びを知ってしまった今となっては、それでは我慢ならなかった

 少しでも、彼の中に私という存在を残したい

 その為にはその後の人生の多くを棒に振ってもいい、母親の関わりの暴力団絡みでこれから、平穏な生活を送れるとも言い切れない

 


利己的な思考で私は髪の毛をぷつんと引き抜いた

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