41 侯爵夫人とクリスティアン
五月二十五日
ヒューズ家の『春の女神』の絵が話題となり、クリスティアンには次々と仕事が舞い込んでいる。その中でも一番大きな仕事は画商のチャールズ・コナハンが持ってきた侯爵家夫人の肖像画の仕事だ。
チャールズは実に素早くクリスティアンと契約をした。彼が挨拶時の手土産がわりに持ってきたのが侯爵夫人の肖像画の話だった。
「ダンフォード侯爵家?ほんとに?」
「これを」
チャールズが差し出した封筒にはダンフォード家の家紋が押されている。中を読むと夫人の肖像画を依頼すると書いてある。
「すごいな。夢のようだ……」
以前は絵を描いても誰にも見向きもされず、もちろん買ってもらえることなどほとんどなく、路銀が尽きて行き倒れたのが嘘のようだ。
絵姿の仕事は午前中に片付けることにして、昼からは毎日侯爵家で夫人の肖像画を描くことになった。
平民の身分を偽っていた頃であれば顔を見ることもなかった侯爵様の屋敷に出入りできるようになった。これは養子縁組をしてくれたアンバーと契約を取り付けてくれたチャールズのおかげとクリスティアンは感謝した。
『画家として名を上げてアンバーの隣に立てる存在になりたい』
それがクリスティアンの胸の奥で炎となって燃えていた。
六月九日
「え?椅子に座るのではなくて?」
「はい。まずは今日一日のお姿を見せていただきたいのです。夫人はどうぞいつもと同じようにお過ごしください」
侯爵夫人ドロレス・ダンフォードは困惑した。
肖像画を描いてもらうならば一番上等なドレスを着て椅子に座っているものではないだろうか。だがこのどこかの国の王子様のような美丈夫な画家は「普段の暮らしぶりを見学したい」という。夫が気に入っている画商が連れてきた画家だから嫌とも言えず、ドロレス夫人は仕方なく了承した。
絵のモデルになることを想定して空けておいた時間に刺繍をし、十歳の娘にも刺繍を教え、庭の花を見に出て、気に入ったアナベルを切ってもらって嬉しそうに部屋に戻ってきたりしている。それを離れた場所でクリスティアンと侯爵家の侍女が見ている。
やがてお茶の時間になり「どうぞあなたも」と言われたが、クリスティアンは「仕事中ですので」と断って壁際に立って夫人の様子を見ているだけだった。同席していたイーディスという娘がねだってやっと席についたが、今度はイーディスと屈託なく楽しげに会話をし始めた。
(悪い人ではなさそうだけど、変わった人ね)
ドロレスはそう思った。そのドロレスは翌日にクリスティアンが持ってきた何枚ものラフスケッチを見て彼への評価をがらりと変えることになった。
六月十日
「これは……ひと晩で描いたってことかしら?」
「はい。つい夢中になってしまって」
「これは、私、よね?」
「はい」
ドロレスの前に並べられたラフスケッチの一枚は、花束を抱いて満足そうに微笑む姿。
他にも娘に刺繍を教える母親の表情が一枚。その伸ばされた腕や指先の柔らかな曲線。
もう一枚は背筋を伸ばした美しい姿勢でお茶の香りにうっとりとする着座の姿。
最後の一枚は風に煽られて帽子を押さえながら無邪気に笑う表情。
「私、他の人にはこんなふうに見えているのね。鏡に映して見ている自分とは随分違うわ。あなたは見ているだけだったのに、どうしてこんなに細かく再現できるのかしら」
「子供の頃に気がついたのですが、私は目で見た景色を細部まで覚えていられるのです。ですのでこれらの絵は私の目や心の濾過を経て描かれたものですが、ほぼ実際のお姿の通りに描けたと思います」
「素晴らしい才能だわ。まさに天賦の才というものなのでしょうね。あら?これはイーディスね。ああ、あの子の一番いい笑顔がここに。アンカーソン卿、ご迷惑でなければイーディスの絵もお願いしたいのだけれど」
「ええ、承ります。イーディス様の笑顔は天使のようでした。なので時間が経ちすぎて記憶が薄れる前にと描いたのです」
十歳だというイーディスの絵は、少女の世界からわずかに娘の世界へと足を踏み入れた、変身を遂げつつある時期特有のアンバランスな美しさが描かれていた。
母親のドロレスに向かって何かを語りかけている頬はまだふっくらしているが、伸びやかに成長している腕や首のラインには女性としての魅力が芽生え始めている。
「素晴らしいわ。着飾って椅子に座っている絵よりもずっとずっと心に訴えるものを感じます」
「ありがとうございます」
「アンカーソン卿さえ良ければ、先にイーディスの絵を描いていただきたいわ。あの子の初めてのお茶会のときに皆さんに見ていただきたいもの」
「かしこまりました」
クリスティアンは充実した疲れと抱えきれないほどの満足感を胸に侯爵家を後にした。
今夜はどうしてもオルブライト家でやりたいことがあった。まず花屋に向かい、大きなバラの花束を買うと、王都で最近評判の焼き菓子も買った。
「アンバーの好きな花はバラで良かったのかな?」
まるで作り物のように整った顔のクリスティアンが内心の喜びを滲ませながら買い物をしていると、応対に出た菓子店の女性従業員たちは皆頬を染めてオロオロした。
品物の受け渡しでわずかに指先が触れてしまった娘などは、クリスティアンが店を出てドアが閉まった瞬間にへたへたと座り込んでしまう有様である。
「あんなに美しい男性を見たの、初めて」
放心状態のその娘を見た同僚は
「あそこまで美しいと近寄りがたいわ。自分のお粗末な顔が悲しくなるもの」
と達観した言葉をつぶやいた。
それを聞いた売り場の娘たち全員が「たしかに」と同意したのをご機嫌なクリスティアンは何も知らない。