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39 対価を求めなかった人

 四月十日


 今日はアンバーの本屋をクリスティアンに披露する予定である。二人は大通りで馬車を降りて店に向かって歩いていた。すると突然陽気な声がかけられた。



「クリスティアン!生きていたのね!あなた、どこかで行き倒れてるんじゃないのかとずっと心配してたのよ」


 元気の塊のような女性が近寄ってきた。


「ええと、お顔は覚えているのですが、たくさんの方に助けられていたもので。失礼ですがどなたでしたか」


「……相変わらずなのね、その他人に全く興味を持たないとこ。私よ、マチルダ。何年も前に熱を出してたあんたのこと面倒見てあげたじゃない?酒場の二階で」


「ああ、あの時の!お久しぶりですね。相変わらずお元気そうで何よりです」


 マチルダは背の高いクリスティアンの顔をそっくり返るようにしてジーッと見上げた。


「相変わらず綺麗な顔なのね。それにずいぶん立派になってる」


 そこまでしゃべってからやっとマチルダはクリスティアンから少し離れた場所に立っている背の高い黒髪の女性に気がついた。


「やだ、ごめんよ。だいじな人と一緒だったのね。邪魔したわね」

「ああ、彼女は僕の婚約者なんだよ」


 マチルダは今度こそ本当に驚いた。

 黒く艶やかな髪、陶器のような白い透明感のある肌。身体にピタリとフィットしたドレス。間違いなく裕福な貴族の令嬢である。婚約者って今言ったかしら?と自分の耳を疑う。


「クリスティアンがお世話になった方ですのね。私からもお礼を言わせてください。彼を助けてくださってありがとうございました」


 黒髪の女性は優雅に微笑みながら頭を下げた。


「い、いえっ!とんでもございません。ほんの何日間か看病しただけですので。ではこれで失礼いたします」




 そそくさとその場を離れたマチルダは頭を振った。


「やれやれ。ボロ布みたいな服を着て痩せこけていたあの若者が貴族のご令嬢と婚約?すごいね。昇り詰めたわね」






 マチルダがクリスティアンに出会ったのは、彼がまだ二十歳くらいの頃だった。彼は雨の日の夜、もう店を閉めた肉屋のひさしの下で雨宿りをしていた。見るとボロボロの布切れみたいな服はすでにずぶ濡れだった。


「ちょっとあんた、風邪ひくからこっちに来なさい」


 面倒見の良いマチルダは当時二十五歳。酒場で働いていた。最後の客を見送って店に入ろうとして若者に気づいたのだ。


 こちらをぼんやり見た若者の顔は驚くほど美しかった。

 動こうとしない若者に近寄って手を引こうとして、その手がとても熱いことに気がついた。


「あんた、すごい熱だよ。さあ、こっちに来なさい」


 無理やり手を引けばユラリと動いて大人しく付いてくる。二階の控室に案内して長椅子に座らせたが、そこで力尽きたらしくて若者はグズリ、と長椅子の上で横たわった。


 若者は痩せてるとは言え大柄だったので、濡れた服を脱がせて乾いた服を着せるだけで大仕事だったのを覚えている。


 若者はそこから二日ほど高熱にうなされていたが、やがて峠を越して熱が下がった。名前をクリスティアンだといい、出されたものを黙って食べた。酒場の主人はマチルダに「死なないように面倒を見てやれ」と若者の滞在を許可してくれた。今、マチルダはその店主の妻である。


 クリスティアンは生気の無い無表情な若者だったが、ようやく体調が良くなって体力も回復したかと安心したある日、突然姿を消した。


『ありがとう。ご馳走様。助かりました』


 そんな短すぎる手紙と一緒に絵が六枚置いてあった。絵は店の帳簿用の未使用の紙に描いてあった。礼のつもりらしい絵は素人の作ではないなと思わせる出来で、マチルダと主人が働いている場面を三枚ずつ描いてあった。


 店主はその絵をとても気に入り、額に入れて店に飾った。マチルダは自分の部屋に飾った。


 ある時、初めての客が店に来た時、店主が描かれている絵を見てびっくりするような値段をつけて手に入れたがったが、店主は「気に入ってるから」と絵を売らなかった。


 画商は「その青年がまた来たら必ず私に連絡をして欲しい」と念を押して連絡先を置いていったが、クリスティアンは二度と店に来ることはなかった。



 クリスティアンは十日ほどの滞在中に一度も笑わなかったけど、今日はまるで別人のように柔らかく微笑んで婚約者と寄り添っていた。


「あの子を微笑ませてくれる人が現れたってことね。あっ、画商のことを教えるべきだったかしら。でもあれからずいぶん経ってるし、あの子は幸せそうだったし。まあいいか」



 マチルダに連絡先を教えた画商はその世界では有名な人物だったが、マチルダはそんなことは知らなかったのだ。







「クリスティアン、よかったの?あの人とゆっくりおしゃべりしなくて。私なら馬車で待ってるわよ?」


「今度彼女が働いているお店にお礼に行くよ。やっと僕にもお礼をできるだけの仕事が入るようになったからね」


 ようやく胸を張って挨拶に行けるようになった、と改めて感謝の念が湧くクリスティアンである。


「アンバー、僕、間違っていたことがあったよ。対価を求めない人もいた。彼女は僕に対価を求めない人だったよ」


「そう。いい人との出会いもあったのね。一度私をあの人のお店に連れて行ってくれる?あ、そろそろお店が見えるはずよ。その角を右ね」


 クリスティアンは(アンバーをあの庶民の店に連れて行ったらあまりに浮くだろう)と返事に困りながら角を曲がると間口の狭い店が見えた。


「ああ……いい店だね。本屋をやるにはぴったりじゃない?」

「でしょう?さ、入って。あなたが描いた絵も一時的に飾ってあるの。コニーやエレンには評判がいいのよ」


 店内に入ったクリスティアンはニコニコと店を見回していたが、自分のではない絵に気づいてツカツカと歩み寄った。


「ねえアンバー、この絵は誰の?」

「それは、セオドア・ギビンズさんの絵よ」

「あの男の?アンバー、君は彼といつの間に親しくなったの?」

「親しく?いえ、親しくはしてないわよ。たまたまギビンズさんがこの店の前を通りかかったらしいのよ。それで自分の絵も置かせてほしいって頼まれたの」


 うっすらと不機嫌を漂わせるクリスティアンの腕に手をかけて、アンバーが微笑んだ。


「もし、やきもちを焼かれているのなら光栄だけど」


 するとクリスティアンがくるりとアンバーを腕の中に閉じ込めて彼女の黒髪に頬を寄せた。


「君はまだ知らないんだね。僕は君のことならいつだって嫉妬と独占欲ではち切れそうだよ」



 

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