3 行き倒れた旅人
六月八日
夫が出ていって二ヶ月。離婚は成立していた。
アンバーの結婚は彼女の父が強く願ったものであり、お相手の家よりオルブライト家がかなり格下だったから、父が生きている間はこちらから離婚を申し立てることはあり得なかった。
父が亡くなってからも、アンバーにはそれなりに夫に情があったことと、精神的に追い詰められ過ぎていて離婚を考える余裕もなかったのが正直なところだ。文字通り寝る間も惜しんで刺繍や商売に精を出していたのだから。
(なのに彼は侍女と駆け落ちですものね)
十一年も同じ家で暮らしていたのに、自分は年の離れた夫のことを全然わかっていなかったのだ。
離婚の手続きが完了した知らせの紙を眺めながら苦く笑い、その紙を机の引き出しに放り込んだ。
アンバーのドレスの店『フラワーズ』は六年間で五店舗に増えている。店ごとに店長と縫い子も雇い、接客の仕方を教育してどの店でも同じように貴族にも失礼にならない接客をさせた。フラワーズは王都でも知られる存在になってきている。
カウンターだけの小さなバーは同じスタイルで四店舗に増えて「美味い酒と洒落た肴を出す店」としてゆとりのある平民と気取らない貴族に人気が高い。
アンバーが始めた「豊作で買い叩かれる作物を通常より少しだけ安い値段で買い付けて他の領地や他国に通常の値段で売る」やり方は天候に収入を左右される農民たちに喜ばれた。輸送に耐える作物に限られていたが、それでも市場に出して捨て値で買われるよりはましだったのだ。
アンバーの取引先の農家は各領地の境界を越えて広がりつつある。
「でも耕作を手抜きをしてると見なしたら次からは契約しないわよ」
「もちろんです奥様。手抜きなんてしませんとも!」
各地の農民との信頼関係も築き上げられつつある。
そんな順風満帆なある日。
オルブライト家に一人の旅人が訪れた。正確に言うと担ぎ込まれた。
六月十日
「奥様、奥様!行き倒れでございます!」
「マーサ、私のことは名前で呼ぶように言ってあるでしょう。私はもう奥様じゃないわ。行き倒れなら食べ物と寝床を与えてやって。病気ならお医者様を呼んでいいわ。お医者様には診察記録を書いてもらって。あとで読むから」
「かしこまりました」
アンバーは領地の端で見つかったという珍しい薬草の鉢植えを観察していたところだったので、時折り担ぎ込まれる行き倒れは使用人に任せることにした。珍しい薬草は、血を吐く胃の腑の病に効く星花草である。
夏の初めに白い花を咲かせる薬草で、すり潰すと大変に癖のある匂いがする。効果は生の絞り汁が一番、乾燥させたものを煎じて飲むのが二番と子供の頃に祖母に習った。使用人たちに尋ねたが誰も星花草の効能のことを知らなかった。
「お祖母様だけの知識なのかしらね」
その日はそのまま星花草の鉢に水を与えて各所から上がってくる収支報告書のチェックに取り組んだ。
翌日、星花草は白く可憐な花を見せていた。
「お前は野の花だから狭苦しいのは嫌でしょう?」
そう話しかけて庭の半日陰に植え替えてやった。
「さ、これで窮屈な植木鉢から解放よ。どんどん増えなさい。子孫を増やしてくれたらまた違う場所にお前の子孫の居場所を作ってあげるわ」
「いつもそうやって話しかけてるんですか?」
「ひゃっ!」
誰もいないと思って油断していた。
「どなた?」
「驚かせてしまいましたね。昨日は助けてくれてありがとうございます」
男の歳は二十七、八だろうか。
長身痩躯。長い手足にサイズの合わないズボンとシャツ、ベストを着ていた。この家の使用人の服だろう。
長い金髪をひとつに紐で結んで垂らしている。目はアンバーと同じすみれ色だった。
(ずいぶん美しい顔だこと)と言うのが第一印象だった。
「あなたは、もしかして昨日担ぎ込まれた行き倒れの?」
「ええ。何日も食べずに歩いていたら意識を失ってしまって」
「そう。身体が回復するまで我が家で休むといいわ」
そう言ってまた花に目をやろうとすると、男は美しい顔を哀しげに曇らせる。
「名前も聞いてくれないのですね。使用人の皆さんは優しかったのに」
「ああ、ごめんなさいね。それでお名前は?」
「僕の名前はクリスティアン」
アンバーは片方の眉をキュッと上げて「姓は?」と促したがクリスティアンはアンバーが植えたばかりの星花草を覗きこんでいた。
「やあ、懐かしい。星花草だ」
「知っているの?」
「胃が痛くてたまらない時に絞り汁を飲まされたものです。とんでもなく苦くて青臭くて最悪の味だったけど、効果は抜群でした」
祖母以外にも効果を知っている人がいたのか、とアンバーは嬉しくなった。
「お茶でもいかが?桃をコンポートにしたのがあるわ」
「いいですね。ぜひご一緒させてください」
アンバーが歩き出すと、クリスティアンもおとなしくその後をついて歩いた。
(この男の口調と態度は貴族そのもの。なのに行き倒れ?)
(おおよその貴族は頭に入れてあるけど、この年齢と外見なら自分が知らないわけはない。ならば外国の貴族 ?でも発音はこの国の生まれ育ちの発音よね)
心の中であれこれ詮索するが、途中で面倒くさくなって放り出した。
(誰だっていいわ。行き倒れを世話しても誰にも気を使わなくて済むんだし。今の暮らしのありがたみを再確認できただけで十分)
熱いお茶を飲み、冷たい桃のコンポートを食べる。フォークでザクリと切ってシロップをまとった桃を口に入れる。生の桃にはない滑らかな舌触りと甘さ。
「んー。美味しい」
思わず目を閉じて桃を堪能していると、向かいの席でクリスティアンが面白そうに自分を見ている。
「幸せそうですね」
「幸せなのよ」
「街であなたの旦那さんが出て行ったと噂を聞いたけれど」
「出て行ったわ。若い侍女とね」
(ふつう初対面の、それも衣食住を世話になってる相手にそれを聞くかしらね。デリカシーが足りないんじゃないかしら。まあ、聞かれても気にしないけど)
「あ、今、僕のこと、無神経だと思いましたか?」
「ええ、思ったわ」
「でも怒らないんですね」
「無神経だなと思うのと腹を立てるのは別の話よ」
「ふうん」
クリスティアンは美しい所作で桃を食べている。合間にお茶を飲む仕草も上品だ。
「僕がどんな人間か、気にはならないのですか」
「ならないわね。とんでもなく厄介な夫が出て行って、今は自由を満喫してるところだから。男性には全く興味が湧かないわ」
飲み終わったお茶のカップを無音でソーサーに戻して、クリスティアンは桃の最後のひと切れを細く長い指で摘んだ。そして行儀悪く上を向いて口に放り込んだ。シロップがテーブルと彼のシャツの胸元にポタポタと落ちた。
わざと下品に振る舞ったのだろうけれど、クリスティアンがするとそんな仕草も美しかった。
「もう少しこの館にいてもいいでしょうか」
「今、私はとても寛大な心持ちなの。だからあなたが飽きるまで居ていいわ」
「助かります。では、ごちそうさま」
そう言って美しい男は部屋から出て行った。
「目の保養にはなるわね」
後ろに控えていたマーサにそう言うと
「はい。噂にはなるでしょうけど、言わせておけばよろしいのでは?」
と、侍女頭はさばけた返事をした。