27 誇らしい
一月三日
二人で屋敷に戻る馬の上で、アンバーは昨夜見た夢のことを思い出していた。
まだ自分が十代前半の頃の夢だ。
父方の祖父がアンバーに帳簿の付け方、帳簿から読み取れることを教えてくれていた。
「いつか弟が生まれたらお前が教えてやりなさい。お前の父親は忙しいからな」
「弟が生まれたら?」
「そうだ。お前は女だから。お前は筋はいいが女では帳簿がつけられても仕方ない」
それは何度も言われたからよく覚えている。問題はそこじゃない。それを言われてる自分のそばにいた母がどんな顔をしていたか、突然思い出した。
母は微笑みながら泣いてるような変な顔をしていた。そうだ、母は時々そんな顔をしていた。(泣いてるの?笑ってるの?)と聞きたいけど聞いちゃいけない気がしたっけ。
用事があると言うクリスティアンと屋敷の前で別れて、使用人たちの生温かい笑顔に迎えられた。
「残念ながらご期待に添えるようなことは何もないわよ。流れ星を見て暖炉の前でごろ寝しただけだから」
と言うとマーサはしょっぱい物を口に入れたような顔になり、ヘンリーはあからさまにホッとしていた。
「暖炉の前でごろ寝って。ベッドは無かったんですか?」
「あったけど、私だけ使うのも気が引けるじゃない?」
「あら。あらあら。クリスティアン様は紳士でらっしゃるんですねえ」
マーサは感心したような顔だ。
マーサとヘンリーには取り合わず自室に戻り、夢の続きを思い出そうとする。だが、十代前半の時の記憶はおぼろげで、細かいことが思い出せない。そこでヘンリーに聞いてみることにした。
「大旦那様と奥様の関係、でございますか?これといって問題はなく、むしろ……」
ヘンリーが困った顔になるが、黙って先を促した。
「申し上げにくいことですが、奥様は大奥様にしばしば叱責されてらっしゃいましたね」
「何のことで?」
「その場に立ち会ったわけではありませんが、おそらく男児が生まれなかったことだと思います」
「ああ、なるほどね」
『オルブライト家は長年に渡り男児が生まれていて跡継ぎに不自由したことがない。だからお前にも弟がきっと生まれるだろう』と祖父は繰り返し言っていた。それは単なる幸運だったのに、一族は皆オルブライト家に必ず男児が生まれることを自慢にしていた。
しかしアンバーに弟は生まれなかった。
さぞかし母は肩身が狭かったろう。祖母に嫌味も言われたろう。もしかしたら父が跡継ぎ誕生を目的にして外に女の人を作った可能性もある。結局男児は生まれなかったようだが。それと母が私のことを抑圧するようになったのは関係があるのかもしれない。
「お母様にはお母様の苦しみがあったということか……」
自分の寝室に戻り、クリスティアンが贈ってくれた自分の絵を眺める。幸せそうな自分の絵を見ると心がきれいな水で洗われるような気がする。
全ては過ぎ去った。
母が祖父母との間に何かあったとしても、両親の間になにかあったとしても、それを我が子にぶつけていいわけがない。でも、もうみんな神の庭に行ってしまった。
自分は心に巻き付いている鎖を断ち切ろう。難しいことだけど、断ち切るように心がけよう。過去に囚われて生きるには、人生は短いのだから。
夕食の頃に帰宅したクリスティアンがご機嫌だった。
聞けばエレンのところに行っていたという。絵本の件だとわかったけれど、クリスティアンから何も聞かされていないから「そう。どんなご用事だったか聞いてもいいかしら」ととぼけた。
「実は僕とエレンで絵本を作っていたんだ。僕の描いた絵にエレンが文章を書いてくれてね。その絵本の見本が出来上がったんだよ。あとで部屋に持っていってもいい?」
「ええもちろんよ。楽しみにしているわ!」
本当に楽しみだった。
あの素晴らしい絵にエレンがどんな文章をつけてくれたのだろう。クリスティアンがあらすじを説明してエレンが肉付けしたのだろう。ワクワクして待っていたらドアがノックされてクリスティアンがやってきた。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
手渡された絵本の絵は黒い線画で各ページに一箇所だけ色がつけられていた。
絵の好きな少年が初めて絵に塗った空の青い色。剣の訓練で倒れた時に見た庭のタンポポの黄色。立ち去る家を振り返った時の庭のバラの赤。
外の広い世界で少年が描く絵は相変わらず生き生きと動きがあって、文章がついていっそうわかりやすくなっていた。次々現れる猫やカエルや牛、狼はクリスティアンが出会った人たちを思わせた。
孤独と自由の両方を手にした少年が最後に黒髪のお姫様と出会い、寄り添っている部屋にはたくさんの絵が飾られていて、そのページだけたくさんの色が使われていた。
クリスティアン自身を投影しているようなその絵本の中で、少年は繰り返し父親から「絵をやめろ」「この役立たずめ」と罵られていた。絵筆を捨てて剣を取れ、と。
絵本の話なのにアンバーは涙を抑えることができなかった。クリスティアン少年は実際にこう罵られていたのだろうか。だから逃げ出してきたのだろうか。そう思うと胸が痛いほど悲しかった。
悲しかった分、二人が仲良く暮らすお城のページで(ああ、よかった。幸せになれた)と喜べた。
「素晴らしいわ」
「泣くほど?」
クリスティアンは苦笑してアンバーの隣に座り、そっとハンカチで涙を拭いてくれた。
「ええ。泣くほど素晴らしい。私はあなたの、あなたの…婚約者であることが誇らしいわ」
たとえかりそめの関係であっても、彼の婚約者であることが心底誇らしかった。