26 隠れ家の約束
暖炉の火はパチパチと小さな音を立てて燃えている。柔らかな熱が全身を気持ちよく温めて眠くなりそうだ。
クリスティアンが立ち上がって無骨な木のコップにワインを注いで運んできた。それを受け取って飲む。
「ヘンリーは何て?泊まりで出かけると言って怒られなかった?」
「いや。ただ、『お嬢様に風邪を引かせないでください』とだけ」
心配するのはそこか、子供じゃないんだから、と笑いたくなる。ヘンリーにとって自分はいつまでも子供のような存在なんだろう。
「君は愛されてるよね。こんなに主人を大切にする使用人たちって、珍しいよ」
「そう?私は他を知らないから」
「オルブライト家は本当に居心地がいいよ。あんなに居心地がいい家を出て行くなんて、馬鹿な男もいたものだ」
クリスティアンがブランドンのことを口にするのは珍しくて、なんと答えたらいいものかと言葉に詰まる。
「ああ、やめやめ。せっかく君を貸し切ってるのに無粋な話題はやめよう」
「そうね」
もうひと口ワインを飲んでアンバーは一度聞いてみたかったことを尋ねた。
「あなたはどんな子供だったの?」
「僕は……絵が好きな子供だった。絵を描かずにはいられなくて。でも、僕の家では絵を描くことは嫌がられてね。絵の具はおろか紙とペンさえも取り上げられたけど、それでも地面に木の枝で絵を描くくらい描くことが好きだった」
椅子に座っているアンバーの位置からはクリスティアンの顔は見えない。だが声に滲む苦い物は伝わって来る。
「そうだったの。子供は親のもの、親の言いなりになるべき者って、多くの人が思っているものね。親から生まれても子供は子供で別の人間なのだけれど。そんなふうに思う人は少数派だわ。私も自分を親のものだと思ってた」
暖炉の火を見つめながらクリスティアンがうなずいている。
「エレンさんは?」
「彼女は両親を愛しているし、ご両親も彼女を一人の人間として尊重して大切にしているわ」
「そう。そんな親もいるんだね」
「そうね。少ないけれど」
「アンバー。君は今でも再婚なんてお断りと思ってる?」
急に話題の方向が変わり、どう答えたら気まずくならないかを考える。言葉を選び、誠実に答えなければと。
「私、自分の人生を両親や夫に丸投げして、結局は失敗したでしょう?さすがにあんな失敗はもうしたくないけれど、今なら再婚して上手くやっていく自信があるかと聞かれたら、今も全くないの」
「そうか……。アンバー、そろそろ外に出よう。暖かくしてね」
「外?なぜ?」
それには答えずに外套を着てクリスティアンがドアの前に立つ。急いでアンバーも分厚い外套に袖を通した。
キンと冷えた冬の空気は吸い込むと喉や肺がキリッと刺されるようだ。夜だから小鳥の声はしないが、遠くでキツネの甲高く鳴く声がしていた。
「ほら、見てごらん」
クリスティアンが指差す方を見上げると銀色の光がスウッと線になって消える。長く短く次々と銀の線は夜空に登場して消えて行った。
「流星群だ。人が外に出ない冬の真夜中のことだからあまり知られていないけれど、毎年新年の夜に三日間だけ見えるんだよ」
「きれい……」
見ているといくつもの流星が空を駆ける。音のない銀の線が流れて消えていく様子はいくら見ても見飽きない。
二人で無言のまま空を見上げていると、夜空に吸い込まれて空に体が浮き上がっていくかのような錯覚に陥る。
クラッと体がふらつくとクリスティアンがそっと背中に手を当てて支えてくれた。
分厚い外套越しでもクリスティアンの手のひらの温かさが伝わって、安心する。アンバーは自分の隣に立つクリスティアンの外套を指でつかんだ。
「アンバー、僕は君の役に立っている?」
クリスティアンが流星を眺めながらぽつりと声に出した。その声がずいぶん気弱な声のように感じてアンバーは急いで肯定した。
「もちろんよ!あなたがいてくれると……いてくれると……独りじゃないって気がして心強いわ」
「僕はまだあの屋敷にいてもいい?」
「ええ。婚約者なんだもの、あなたの家だと思って暮らして欲しい。あなたが飽きるまでずっといていいのよ」
いや違う。それでは『飽きたら好きに出て行っていいわよ』と言ってるように聞こえてしまうではないか。
「そうか。ありがとう」
訂正しようとしたけど正解が見つからず、アンバーはクリスティアンを見上げたが、彼は流星群を見上げていて表情が読み取れなかった。
「でも、ひとつだけ約束して。黙っていきなりいなくならないで」
「うん。それは約束するよ。さあ、そろそろ中に入ろう。体が冷え切ってしまう」
小さな家の中は暖炉の熱でホカホカに暖かい。クリスティアンは毛布を被って暖炉の前の敷物の上で横になった。アンバーは自分だけベッドを使うのは気が引けて、枕と毛布を運んで暖炉の前で体を丸めた。手を伸ばせば届くところにクリスティアンがいる。
「おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
目を閉じた。すぐそばにクリスティアンがいて眠れないかと思っていたが、仕事の疲れと外出の疲れであっという間に眠ってしまった。
クリスティアンが体を起こしてアンバーの寝顔を覗き込んだ。スースーと寝息を立てるアンバーは少しだけ口を開けていて普段のしっかり者の彼女とは別の人のように幼い寝顔だった。
「おやすみ、僕の女神様」
そう言いながらアンバーの髪をそっと撫でて、クリスティアンも毛布を被って横になった。
暖炉はパチパチと音を立てて燃え続け、二人を穏やかに暖めた。






