21 妖精の来訪(1)
十二月二十八日
アンバーは必死だ。
ハンカチの刺繍を今日を入れても四日で終わらせなければならないのに、まだ図案も決まらないのだ。図案集を見ているがこれだと思うものが見つからない。
家紋を刺繍するのが無難だが、クリスティアンは平民出身と言い張るし、付き合いもない養子先のアンカーソン家の家紋を刺繍して渡したところで感動も無いだろう。……悩む。
そんなアンバーの部屋にクリスティアンがやって来た。慌てて図案集を閉じて立ち上がる。
「あら。どうしたの?」
「さっき、つい調子に乗ってあんなこと言ったけど、新年の贈り物は刺繍じゃない物をお願いしようかなって。いや、もし刺繍をもうしてあるならありがたく頂くけど」
(あ、まだ何も刺繍してないこと、バレてる?)
「これから刺繍しようかなと思っていたんだけど。何か他にご要望があるの?」
「ある」
「なあに?」
「新年の休日のどこかで君と丸一日一緒に過ごす権利が欲しいんだけど」
思わず固まって目だけパチパチしてしまう。
「私と?丸一日?」
「うん。アンバーは忙しい人だからなかなか独占できないでしょう?刺繍のハンカチもいいけど、僕はアンバーと一緒に過ごしたい」
しばし無言でクリスティアンの顔を見上げてしまうのは仕方ない。意外すぎて。
「ずっと僕が出ていてゆっくり話をする暇がなかったし」
「……ねえ、それならどうしてこの家からヒューズ家に通わないのか聞いてもいいかしら」
「それは……言いたくない、かな」
(言いたくない?なぜ?)
だが言いたくないなら言いたくなるまで待つか、と思う。
「そう。ええいいわ。では二日の日を丸一日空けておくわね」
「ありがとう!じゃ、おやすみ」
そう言うとクリスティアンは部屋を出て行った。
読めない人だ。
距離は詰めてくるけど自分のことは教えたがらない。
「読めないものは仕方ない。さ、エステ二号店の帳簿でもチェックしようかな」
エステマッサージ店は一号店二号店の両方で売り上げを伸ばしている。採用した技術者はベッキーの指導がいいのか、固定客がついている。
この調子なら三号店もいけそうだ。
(丸一日……あれは、私に気があると?)
「それはない!」
「ひっ!何でございます?」
「あらマーサいたの」
「おりましたよ。ミルクティーをお持ちしたんです。それはないって、なんでしょう?」
「なんでもないわ。ちょっと煩悩と闘ってたのよ」
十二月二十九日
オルブライト家に花の妖精が来た。
もちろん本物の妖精ではない。ヒューズ伯爵家の十六歳の方だ。
妖精は今、アンバーの前でシクシクと泣いている。
「あの。泣いてらしては話ができません。どうなさったのかしら」
そう言っても妖精は泣き止まない。まるでアンバーが泣かせているようで居心地が悪い。
そもそもアンバーは悲しいことがあっても人前で涙を流してどうにかする手法を使ったことがない。だから人の家を訪問しておいて泣いて話ができないという行動が理解できない。
「クリスティアンは我が家の使用人の子供と出かけていて留守なのです。もう一度出直されてはいかがかしら」
「……です」
「はい?」
「伯爵様に会いに来たのです」
「ええ、ですからどんな御用件かと」
「うっ、ヒック、ヒック」
(ああもう、この年末の忙しい時に。各店の帳簿も見なければならないし、使用人たちに渡す新年の贈り物も用意しなければならないのに)
「アンバー様はお忙しいので、お話ができるようになってからもう一度いらしてはいかがでしょうか」
バッサリと正論を言ったのはコニーだ。
このセリフは決してアンバーが言わせたわけではない。心で「助かる!」とは思ったが。
しかしコニーの言葉を聞いて花の妖精はいっそう泣く。この屋敷に来てからかれこれ二十分近く泣いている。そろそろ落ち着いてくれないだろうか。
「私では言い出しにくいことでしたら、どうぞクリスティアンにおっしゃってくださいな。私は彼の仕事のことはわかりませんので」
「あの方を……解放して差し上げてください。お願いします」
「はい?解放ですか?」
「あの方が困窮して倒れた時に伯爵様が助けて差し上げたことは存じております。でも、もうあの方を解放して欲しいのです」
「……わかりました」
「えっ?」
妖精が驚く。なぜ驚くのだ。自分で要求しておいて。
「アンバー様!」
コニーも驚く。
「あなたがそうおっしゃって長いこと泣いてらしたことは彼とあなたのお父様に伝えます。私と彼は婚約しておりますので、彼の意見を聞かなければなりません。婚約は家同士のこと。ですので私たちの婚約解消をご希望でしたら、あなたの言動もあなたのお父様にお伝えしなければなりません。その上であなたのお父様に私たちの意見をお伝えしなくてはなりません」
それだけ言ってアンバーは立ち上がった。
「困ります!クリスティアン様にも父にも言わないでください!わたくしの一存で参ったことですので!」
いや、正式に婚約してる人に向かって解放しろと言った以上、一存です、で済むわけがないでしょうに。
この妖精はおそらく自分より十以上も年上の離婚歴のある女伯爵が乙女の恋を邪魔している、とでも思っているのだろう。しかもクリスティアンにも親にも言うなと言うことは私から自主的に婚約を解消しろ、と。なんだその自分勝手で幼稚な発想は。
だが。
アンバーが理路整然と相手を論破すれば、この妖精が親に自分に都合の良い告げ口をするかもしれない。下手をすると何ヶ月もかけてクリスティアンが描いている絵は途中で打ち切りになるかもしれない。彼は今、世に出る前のだいじな時期だ。そんな事態は避けたい。
「マーサ、今すぐクリスティアンを呼んできて。ヒューズ伯爵令嬢がいらしていて私の手には負えないことだと伝えて。それと、ヒューズ家にも使いを出して事情を説明して来て」
「はい、お嬢様」
「そんなっ!」
「御令嬢は十六歳の成人と聞いています。彼とご両親の前でもう一度同じことを要求してください。大人なのですから堂々と。話はそれからです」
自分が十六歳のとき、親にも夫にも堂々と意見を言えなかったことを思い出す。だからこの妖精にそれを要求するのは少々後ろめたい。
だが夫が出て行った日、自分はもう、言うべき時に言うべきことはちゃんと言うと決めたのだ。