15 痴話喧嘩?
前話でなぜかクリスティアンの名前が「レオ」になってました。なぜ唐突にレオと書いたのやら。何度も読み返したはずなのに。誤字報告してくださった方に心から感謝いたします。
夜会の会場でエレンが笑い続けている。
「くっくっくっく。『裸ではない』って。『ではない』ってことは多少の露出はあるわけね」
「エレン、笑いすぎよ」
「だってアンバー。あー苦しい」
夜会の片隅、女二人でのヒソヒソ話は誰にも聞かれないように小声過ぎるほど小声だ。
「どんな絵なのか実物を見てないからすごく不安だわ」
「あなたが行けないなら私が見てきてあげようか?口出しはしないけど」
「口出しはすべきじゃないわよね?」
「当たり前でしょ」
知らない貴族の家に薄着の自分が描かれているのを想像しただけで血液が沸騰しそうだった。いたたまれない。
「でもね、アンバー。芸術家はそんなものよ」
「そうなの?」
「彼らに普通でいろと言うのは狼を檻に入れて狩りをさせなかったり、馬を走らせなかったり、野の鳥を鳥籠に閉じ込めたりするのと同じ。クリスティアンのような芸術家に『薄着の私を描かないでよ』なんて言うのは残酷よ」
「その言葉、肝に銘じておくわ」
「ところで、あなたの婚約者は今夜も人気者ね」
エレンの視線をたどると、クリスティアンは大勢の女性に囲まれて会話をしていた。十代の娘から四十代の夫人まで、皆一様に頬をバラ色に染めて目をキラキラさせている。
「アンバー、彼が平民の出と言うのは嘘だわね。貴族の礼儀を子供の頃から叩き込まれてるはずよ」
「ええ。私もそう思うけど、彼が平民だったと言うならそれを信じてあげたいの」
「あらまあ。そんなに彼に惚れ込んでいるならさっさと再婚すればいいのに」
アンバーはそれには答えなかった。そこに一人の黒髪黒目の若い男性が近づいて来た。
「お話し中失礼します。オルブライト伯爵でいらっしゃいますか?私、画家のセオドア・ギビンズと申します」
「アンバー・オルブライトです。あの、あなたとどこかで?」
「いえ、初めましてです。伯爵様が私の絵をお買い上げくださったと画商から聞きましたので、いつかご挨拶をと思っておりました」
アンバーが最近買った絵は一枚だけだ。
「もしかして山脈と古城の?」
「はい。お買い上げ下さりありがとうございます」
「あの絵はとても気に入っているんです。寝室に飾って毎晩寝る前に眺めておりますわ。作者の名前を覚えてなくて失礼しました」
するとセオドアは陽気な笑みを浮かべながらアンバーの手に口付けた。
「あれは私の自信作です。他にも伯爵様のお気に召す作品があるかも知れませんので、一度私のアトリエにいらっしゃいませんか?」
そこで別の声が加わった。
「いや、結構だ。アンバーには婚約者の僕の絵を飾ってもらう予定だからね」
「クリスティアン……」
セオドアは陽気な笑みを崩さずクリスティアンの方に身体を向けて
「ああ、あなたは画家でしたか。そうとは知らずに大変失礼しました。では伯爵様、気が向いた時にでもお越しください。場所は画商が知っています」
とアンバーにだけ目を向けて去って行った。
アンバーはいつもは温厚なクリスティアンの態度に驚いていた。
「クリスティアン、彼に対して失礼だわ」
「画家の婚約者に絵の売り込みをする方が失礼だよ」
「だって彼はあなたが画家だとは知らなかったのよ」
エレンが早口で
「あの、私はあちらでワインを楽しんでくるわね」
と割り込んだ。
「ごめんなさいエレン」
エレンは後ろ姿で手をヒラヒラさせて去って行った。
「それで、君は彼のアトリエに行くの?」
「行くかどうかまだ決めてないわ」
「そうか。じゃあ好きにすればいい」
「なんでそんな言い方……」
そこにまた新たな声が。
「アンカーソン様、こちらにいらしたんですね。探してしまいましたわ」
声をかけてきたのは花の妖精のような金髪の美少女だった。小柄な彼女はクリスティアンと並ぶと頭ひとつ分以上の身長差がある。
少女はアンバーに気づくと
「あっ、お話し中だったのですね。失礼いたしました」
と恐縮して頭を下げ、立ち去ろうとした。
「ケイティ嬢、話は終わりましたから大丈夫ですよ」
「そうですか?父がアンカーソン様を紹介したい方がいると申してますの」
「すぐに参ります」
クリスティアンはアンバーに向かうと「じゃ、後で」と言い残してケイティと共に立ち去った。花の妖精はアンバーに会釈した後はこぼれるような笑顔でクリスティアンを見上げて話しかけている。
「私の援助は求めないけど花の妖精ご一家の援助は求めるわけね」
二人の後ろ姿を眺めながらそうつぶやくと、アンバーはグラスの中のワインを飲み干した。クリスティアンが自力で成功を目指しているのはわかっている。自分が筋違いなイライラを抱えていることも知っている。
だが、彼のプライドを傷つけないよう、でも力になれるよう、絵本を売る本屋を開こうとワクワクしていた自分が滑稽で虚しくなる。
『アンバー、強い女は愛されないのよ』
『黒髪は顔がきつく見えるわ。金髪に染めたら?』
『背が高い女性は敬遠されるの。ヒールの低い靴を選びなさい』
母の言葉が頭の中で響く。
うんざりだ。我が子に呪いをかける母親も、もうこの世にいない母親の呪いからいつまでも抜けられない自分にも。
そんなアンバーをどこで見ていたのかエレンが戻って来た。
「どう?人生初の痴話喧嘩の気分は」
「痴話喧嘩?」
「そうよ。痴話喧嘩以外の何物でもないわ。あなたは何があっても冷静に対処する人かと思っていたけど。少なくともブランドンの時はそうだったんでしょ?」
アンバーはそれには答えずにエレンの持っているワイングラスを取り上げると、また一気に飲み干した。
「ブランドンの時は冷静に対処して大失敗したわよ。ねえエレン、痴話喧嘩ってこんな惨めで腹立たしい気持ちになるものなのね。私、もう一杯ワインを貰ってくるわ」