14 春の女神
本日二度目の更新です
十一月十五日
「この絵本が売れたら、絵本の線画を油絵で描いて個展を開けばいいと思う。話題性も加わって多くの人が彼の絵を見に来るわ。有名な画商にも注目されやすくなる」
エレンは自分が四つ持ってきたタルトの三つ目に手を伸ばしながら計画を立てている。
「私は文壇ならともかく画壇にはあまり詳しくないけれど、煌めく才能を見過ごすわけにはいかないわ。必ずこの絵の魅力を最大限に引き出す言葉を加えるから」
「彼のこと、お願いします」
アンバーが静かに頭を下げた。
「そうそう、彼は今、壁画を依頼したヒューズ伯爵家に住み込んでいるそうよ。あなたのために聞き出しておいたわ」
「ヒューズ家って、デビューしたての令嬢がいる家よね?」
「ええ。なまじ貴族の身分を持たせたばかりに、あなたはライバルを増やしてしまったわね」
アンバーは何も言わずにエレンから食べかけのタルトを奪うと自分も手でそれを食べだした。
「ちょっと!」
「これ、私の分だもの。あなたもう二つ食べ終わったじゃない」
そう言ってタルトにかぶりついた。
たっぷり盛り付けられたホイップクリームがポトリとテーブルクロスに落ちたが、それも指ですくって口に入れた。母が生きていてこれを見たら目を回しただろう。
「あら?手づかみで食べるほうが美味しい気がするわね」
「でしょう?異国には全ての食事を指で食べる国があると読んだけど、わかる気がするわ。なんでもかんでも貴族のマナーに従えばいいってわけじゃないのよ」
エレン・エックルズが急に優しい眼差しでアンバーを見た。
「彼のことを大切に思うなら、あなたは彼の援助はやめておきなさい。近道しようとして道に迷うわよ。あなたの隣に並び立とうとしているのに、あなたが援助したら、それは彼に対する侮辱にしかならない」
「……そうね。私は絵に関しての援助はしないようにするわ」
アンバーはその日からまた仕事に没頭した。
使用人たちが心配するから過労になるほどは働かないようにしながら、アンバーは書店の開業計画を立てていた。
クリスティアンに直接の援助はしない。
だけどクリスティアンが描いた絵本はたくさん売れて欲しい。
小さな店でいい。人通りの多い、貴族も平民も立ち寄りそうな場所にある書店を開きたい。
十一月二十五日
アンバーの意欲が実り、望む条件の物件が見つかった。貴族街と平民街のちょうど境目の地区にその店舗は建っていた。通りに面した出入り口は狭く、奥行きが長い。日差しで本が傷まないから丁度いいだろう。
ガランとして何も置かれていない店内を眺めた。
背の高い本棚を店の左右の壁と真ん中に一列、そう配置すればいい。クリスティアンが描いた絵本は入り口の近くに置こう。その他には何を置こうか。
アンバーはクリスティアンが出ていって以来久しぶりに明るい気持ちになった。
「ここは賃貸でしたね」
「さようでございます。ですがご希望でしたら買い取ることもできます」
不動産商会の男が如才なく答えた。
「買うとしたらおいくら?」
男が答えた額は決して少なくはなかったが、今のアンバーなら十分買える額だった。「少し考えさせてほしい」と伝えて、その日は屋敷に帰った。
明日の夜はクリスティアンに会う。夜会があるのだ。
婚約を解消していない以上、クリスティアンはアンバーのエスコートをするのが役目で、それは画材屋の主人に託した手紙で伝えてある。
クリスティアンは夜会に着ていく服を持っているかしら、と思う。
背負い袋一つの中に、アンバーが買い与えた夜会用の服は入っていなかったはずだ。
「私が用意したら嫌がるかしらね」
クリスティアンから返事がない以上、先走ってあれこれ用意するのは良くないような気がした。子供ではないのだ、服がなければ自分でなんとかするだろう。
そう思う一方で何もしないでいれば冷たい女だと思われるだろうか、と不安だ。なんだか最近の自分は臆病になってしまったと思う。
十一月二十六日
不安なまま彼の服は何も手配はせず、夜会に出発する時間になった。
クリスティアンは馬車でやってきた。
それは滞在するヒューズ伯爵家の家紋が入っている馬車で、さすがにそれに二人で乗るわけにはいかず、使用人に
「この馬車はあちらにお返ししておいて」
と指示して自分の家の馬車に二人で乗った。
クリスティアンはちゃんと夜会用の衣装を身につけていた。
身につけている物はどれも見覚えのないもので、滞在先で用意されたものだとわかる。
大きな仕事だと言っていた。
画家に大きな絵を描かせるということは、衣食住の負担も含めて仕事に専念させられる財力があると世間に誇示することだ。夜会に行くとなれば服も用意するだろう。特別なことではない。
だから何もおかしいことではないのに、不愉快なのはどうしてだろう。
「会いたかった」
クリスティアンはそう言ってアンバーの手を取り、美しい笑顔を向けてくれる。
良かった、愛想を尽かされてはいない、と安堵したことは隠してアンバーは微笑んだ。
「ヒューズ伯爵家でホールの壁に絵を描いているんだ」
「それはきっと素敵な絵になるんでしょうね」
「君を描いてるんだ」
「はい?」
(世話になっているヒューズ伯爵家のホールの壁に私を描く?そこのご令嬢じゃなくて?)
意味がわからず手を握られたままクリスティアンの顔を見返した。
「テーマは春の女神。君が春の女神になって植物たちに命を吹き込んでいるんだよ」
(ありがとう、と言うべきなのよね?)
「ええと、それは誰が見ても私ってわかる絵なのかしら?」
「どうだろう。女神として描いたからね。髪の色は緑色だし、横向きだから言わなければわからないと思うよ。とても美しく描けているから毎日楽しいんだ」
いやいやそうじゃない。そこじゃない。
尋ねたいことが山ほどあって、言葉に詰まった。
そして思い出した。
『芸術家は往々にして常識に囚われない人種だ』ってことを。
「あの、あのね、初めての大仕事で私をモチーフに選んでくれたのはとても嬉しいのよ?だけど、それを見る人たちはどう思うかしら。画家が自分の婚約者を女神に見立てて描いた絵って……」
「え?嫌だった?」
クリスティアンは青天の霹靂、みたいな顔だ。アンバーはたまらず早口で一番気になることを尋ねた。
「その女神、服は着ているのよね?」