13 クリスティアンの絵本
十月二十四日
「お話って、何かしら」
「しばらく留守にする。大きな仕事が入ったんだ。君が僕を助けてくれたおかげだよ。本当にありがとう」
「仕事が見つかったのはあなたの実力だわ」
(どこへ行くの?それはいつまで?またここに帰ってくるの?)
そう問いただしたい言葉は口の中で止めた。
「良かったわね。おめでとう」
「でも、」
でも、と言ったところでクリスティアンは一瞬動きを止めた。
「いや、なんでもない」
そう言ってクリスティアンはアンバーの額にチュッと軽くキスをして部屋を出て行った。そしてそのままわずかな手荷物を持って屋敷を出て行った。
「帰ってくるわよね?」
二階の窓のガラス越しにクリスティアンの後ろ姿を見送りながら、小声で聞いてみる。
私はあなたが気になる。だから行かないでとは言えなかった。
もう結婚なんてしたくない。再婚なんてお断りだ。今のまま契約上の婚約者という曖昧で中途半端な状態が居心地良かった。
「でもそれは全部私だけの都合ね」
突然、母の言葉が心に甦った。
『愛らしい淑女になりなさい。強い女は愛されないのよ』
『男の方は守りたくなる女性が好きなの。生意気な女は嫌われるわ』
そのとおりに生きたはずだけど、夫は自分を見捨てたではないか。
もしかしてクリスティアンも夫のように自分に愛想を尽かしたのだろうか。王都での仕事ならここから通えばいいはずだ。
「私はどうすれば良かったのかしらね。世間の幸せな女性はどうやって幸せを手に入れているのかしら」
アンバーは胸を押し潰しそうな寂しさに無理矢理蓋をした。こぼれそうになった涙は上を向いて瞬きして堪えた。
その後、きっちり休養を取った。そして八日目から仕事に戻った。
二度と倒れないように一日の仕事量をセーブした。人に割り振れる事は割り振り、報酬を払って依頼できる事は依頼した。
アンバーが一人で仕事を抱え込むのをやめると、仕事は以前よりも効率良く回るようになり利益も多くなった。
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十一月十五日
「アンバー、聞いたわよ。あの美しい婚約者がこの屋敷を出て行ったそうね?婚約を解消したの?」
エレン・エックルズは「遅くなったけどお見舞い」とクリームたっぷりのタルトを手土産にアンバーの家を訪問していた。
マッサージ店の二号店の見積書を書いていたアンバーは、パタンと書類を裏返してティーテーブルの席に腰を下ろした。
「相変わらず耳が早いわね。解消はしてないわ。彼が仕事を終わらせて戻ってくるのを待つつもりよ」
「あらあら。まるで純愛小説ね」
アンバーは少し眉を寄せて、エレンに反論した。
「純愛小説のヒロインはね、こんなにバリバリ働かないしガツガツ稼いだりしないものよ。もっとか弱いわ」
「あっはっは。確かにね」
エレン・エックルズは人前では完璧な淑女を演じているが、本心ではそんな淑女のマナーを馬鹿にしている。今日もアンバーの前だからと、手でタルトを持って口の周りにクリームを付けながらかぶりついていた。
「そんな食べ方をしてドレスを汚す方が淑女のマナーよりもよほど馬鹿馬鹿しいと思うけど?」
「慣れると汚さないで食べられるのよ。それよりアンバー、私がどこからクリスティアンの情報を手に入れたか気にならない?」
指についたクリームを舐めながらエレンがいたずら小僧のような目つきで聞いてくる。
「さあ?勿体つけるのはやめて教えてよ」
「実はね、あなたの婚約者の絵本の件で画材屋が私のところに仕事の依頼に来たの」
エレン・エックルズは文学研究家だ。
女性にしては珍しくお堅い文芸誌に寄稿したり書評を書いたりしている。
「画材屋は絵本の出版に協力して欲しいって。これを世に出さないのは大きな損失だって熱弁していたわ」
「クリスティアンが絵本を描いていたのね」
「これ。まあ、見てご覧なさいよ」
そう言ってエレンはアンバーに紐綴じの手作りの絵本を差し出した。
それは文字のない黒い線画だけの絵本だった。
絵を描くのが大好きな男の子が楽しそうに絵を描いている。しかし男の子の父親らしい男性が怖い顔で男の子を叱る。
少年が住んでいるのは絵を描いてはいけない国なのだ。絵を描いては叱られ、絵を捨てられる。また絵を描く。そしてまた捨てられる。
ある日男の子は家から逃げて旅に出る。行く先々で経験したことを絵に描きながら旅は続く。旅は厳しいが男の子はいろんな人に出会い成長しながら絵を描き続ける。
やがて絵の好きな黒髪のお姫様と出会って恋に落ちて、お姫様の肖像画を差し出して結婚を申し込む。
二人はたくさんの素晴らしい絵に囲まれて幸せに暮らす、という絵本だった。
どの絵も会話や男の子の心の声が聞こえて来るような絵だ。旅先のエピソードに出てくる人物や動物が生き生きしている。黒髪のお姫様が自分に似ているような気がするのはうぬぼれだろうか。
「すばらしい絵だわ」
「ええ。私も感動したの。これに言葉をつけて出版すべきね」
アンバーはエレンの手を握る。
「エレン。出版に力を貸してあげて」
「あなたに頼まれるまでもないわ。これは絶対に人の心をつかむ絵本になる。そして彼の画家としての足掛かりになるわ。あなたとは関係なく、彼は協力したくなる才能あふれる画家よ。それに……」
エレンはアンバーの長く艷やかな黒髪に目をやって優しい顔をした。
「私は黒髪のお姫様にも幸せになってもらいたいしね」