12 ライラの内緒話
十月二十三日
寝室のドアから顔を覗かせているクリスティアンを見て、アンバーは少々慌てた。
「今、酷い有様だから、あとでまた来てくれる?」
「ああ、君が目を覚ましたのを確認に来ただけだから。ゆっくり休んで。僕は仕事に行ってくるよ。じゃ、おだいじにね」
クリスティアンはそう言って静かにドアを閉めた。
「ふうぅぅ」
ボスッと頭を枕に戻してアンバーは息を吐いた。
美しい男にみっともない姿を見られるのが嫌だった。ただそれだけだ。
彼は契約上の婚約者。それ以上でもそれ以下でもない。そう自分に言い聞かせた。
やがてミルク味の甘いパン粥とお茶が運ばれた。
マーサはまるで幼児の世話をするようにアンバーに粥を食べさせ、体を拭き、髪を梳かした。自分でできると言っても取り合わず、ひと通りの世話を終えるとまた寝かされた。
ライラも母親と共に顔を出し、悲しげな顔で「元気になってください」と言って庭の花を生けた小さな花瓶を窓辺の小机に置いてくれた。
母親のベッキーは何も言わずに涙ぐんでアンバーの手を撫でていた。
夕食は昼よりも少ししっかりした物が運ばれ、食べ終わってひと息ついた頃に医師の往診を受けた。
「完全な過労でしたね。最初に診察したときはあまりに脈が弱いからヒヤヒヤしました。伯爵様は子供の頃から丈夫で病気知らずだったのに、いったいどうしたんです?」
「なんだか働いている時が一番心が安らいだものだから」
老医師はメガネの奥からアンバーの顔色を点検して口の中も調べて終わりにした。
「いけませんねえ。あなたのような人をたくさん診てきましたが、仕事の与える高揚感は中毒になるんです。際限なく働いて、最後はあなたのように倒れるか重篤な病気になるかです。仕事に人生を奪われてはいけませんよ。仕事以外にも目を向けるべきです」
診察を終えた老医師は
「仕事抜きで大人しくするなら明日から普通に生活してもいいです。ただし大人しくするなら、ですよ」
と言って帰って行った。
十月二十四日
翌朝、アンバーが部屋から出ると、顔を合わせた使用人たちはアンバーが仕事をしないよう、休養を取るよう、口を揃えて懇願した。
アンバーは苦笑して「働かないから大丈夫」を繰り返さなければならなかった。
そして今は庭の東屋に座っている。
隣にはライラが座っている。
付き添うのはやめてくれとマーサを断ったら、折衷案でライラが送り込まれた。
その小さな膝に「小人の冒険」の絵本を乗せて飽きもせずページをめくっていた。ライラはアンバーに何かあったらすぐに母屋に知らせるよう重ね重ね言い含められていた。
そのライラがパタンと絵本を閉じてアンバーに話しかけてきた。
「アンバー様が倒れた日ね、大変だったんです」
「そう。みんなに迷惑をかけたわね」
「あっ、そうじゃなくて。んーと、クリスティアンさんが大変だったの」
どういうことかとアンバーはライラの顔を覗き込んだ。
「玄関でアンバー様が倒れて、マーサさんが叫んで、クリスティアンさんが来て……クリスティアンさんがアンバーさんを抱っこしたの」
まあ、そうなるだろう。
自分は大柄だから五十歳のヘンリーが抱きかかえて二階まで運ぶのは厳しい。
「それで?」
「クリスティアンさんがベッドまで運んだあと、マーサさんが『お着替えさせるから出て行って』って言っても『嫌だ』って言って怒ってた」
「ライラはそれを見ていたのね?」
「見てはいません。心配だったからドアのところで聞いてました。それで、マーサさんがほんとに怒って、ヘンリーさんがガッてして、部屋から出したの」
「ガッてして」というのはライラの身振りからすると腕をつかんで引っ張ったということらしい。
「それで?」
「お着替えが終わったらまた自分が付き添うってクリスティアンさんは言ったけど、マーサさんもヘンリーさんも許さなくて、三人ともすごく怒ってた」
「そう。わかった。ありがとう」
いや、本当は全然わかってないが。
マーサとヘンリーの対応はわかる。クリスティアンは婚約者という名の客人だから、女主人の着替えの時や寝込んでる時に居続けさせる訳にはいかない。
だがクリスティアンはなぜそんなに粘ったのか。それではまるで本物の婚約者みたいではないか。
(……ええと、よくわからないことを憶測で考えるのは時間の無駄よね)
そう考えてその件は無理矢理忘れることにした。
夕食は自分の部屋で食べた。
まだ体がだるかったし、少し動くと動悸がしたから用心した。
手早く湯を使い、夜着に着替えた。ベッドに横になるとマーサが部屋の灯りを消して、小さなオイルランプだけにして退出した。
「さて、明日からどうしましょう」
医者からは最低でも五日は仕事に復帰してはいけないと厳命されている。きっとマーサたちもそれを聞かされていて、仕事はさせてもらえないだろう。
ぼんやりとして過ごすのは苦手だから読書でもしようと考えていると、ドアが控えめにノックされた。
「はい。どうぞ」
マーサがホットミルクでも持ってきたのかと返事をすると、入ってきたのはクリスティアンだった。
「あっ、ごめんなさい、マーサかと思ったの」
「少し話をしたいんだけど、迷惑かな」
「いいわよ。今、明るくするわね」
「いや、このままでも十分だよ」
そう言ってクリスティアンは椅子を運んでアンバーの枕元に座った。何かを言いたそうな、でも言えずに困っている顔に見える。
「それで、お話は何かしら?」