11 過労
九月二十七日
クリスティアンの絵カードを見た日の夜、アンバーは彼と二人で夕食を食べた。
「アンバー、今日は忙しくないの?」
「ええ。大丈夫よ。今日、あなたがライラに描いた絵を見たの。素晴らしかったわ」
クリスティアンは少し驚いた顔になった。
「君は絵に興味があるの?」
「あるわ。最近も無名画家の絵を買って毎晩寝る前に眺めているの」
するとクリスティアンは少し眉を寄せる表情になった。
「それはちょっと悔しいな」
「悔しいって?」
それに対してクリスティアンは返事をしなかった。
何も聞こえなかったように肉にナイフを入れている。
「私にも絵を描いてくれない?ちゃんと代金は支払うわ」
「世話になってる君から代金は貰えないよ。今度、他の家で肖像画を描くことになっているから、それが終わったら君に絵を贈らせて」
「他の家?」
「うん。画材屋の主人に頼まれた。絵姿を描ける人を探していたらしいよ」
アンバーはピンときた。絵姿を頼まれたのは先日見かけた侍女と入って行ったあの家に違いない。
「もしかして毎月小金貨が欲しいと言ってたのは画材を買うためだったの?」
「うん」
「言ってくれればつけ払いで好きなだけ買って良かったのに」
「だからだよ。きっと君はそうするだろうと思ったから言わなかった。絵姿を描いた代金が手に入ったら、今まで貰ってたお金は全部返すつもりだよ。画材屋の主人にはもっと客を紹介してもらえそうだし」
クリスティアンは何気なくそう言ったが、言われたアンバーはハッとした。
アンバーは無意識のうちにクリスティアンの保護者のような気持ちでいたが、そうではないことに今の言葉で気づかされた。
クリスティアンは契約上の婚約者だ。彼は既に必要な役目を果たしてくれている。クリスティアンが経済的に自立できたらもう、いつだって好きな時に婚約を解消してこの屋敷を出て行けるのだ。
「アンバー?どうかした?」
「ううん。どうもしないわ。絵姿は貴族の方よね?」
「うん。お年頃のご令嬢の絵姿を何枚も描いてるよ」
「そう」
食べている料理の味が急にぼんやりする。
『その娘さんは何歳?』『美人なの?』『絵を描いている時に会話するの?』いろんな質問が浮かぶけれど、そんなことを尋ねるのは二十七歳のアンバーのプライドが許さなかった。そして突然、夫のブランドンが侍女のキャシーの肩を抱いて玄関を出て行った最後の場面が思い出された。
(キャシーは小柄で若くておとなしくて、ふわふわした金髪だったわね)
今の今まで思いもしなかったが(自分は女としてキャシーに負けたのだ)という考えが突風のようにアンバーの心に吹き荒れた。これまでは(やっとあの男の尻拭いから解放された)としか思っていなかったのに。
そのあとは無難な会話をしてアンバーは早々に自室に戻った。
そして翌日から猛烈な勢いで仕事に没頭した。
今やアンバーの管理する商売は多岐に渡っている。
平民用のドレスショップ、バー、惣菜屋、農作物の売買、エステマッサージ店はどれも順調に利益を上げている。屋敷の使用人たちはもう副業の指導役に立ち位置を変えていて、睡眠時間を削ることはない。領地からの税収も問題ない。
何も問題が無いことが逆にアンバーの飢餓感を刺激した。
お金は足りている。
伯爵家としての品格を保てる程度には潤沢にアクセサリーもドレスもある。不必要な贅沢をすることに興味はない。
それでもアンバーは働き続けた。
王都から馬車で二日かかる領地まで頻繁に出かけ、領民の相談に乗り、河川にかかる橋の修理、街道の整備について村長たちと話し合い、工事の計画を立てた。王都の屋敷に戻れば各商売を見て回り、売り上げを確認し、ライラの勉強を見た。
十月二十日
そしてアンバーはついに倒れた。
出先から屋敷に戻り、ショールとバッグをヘンリーに手渡したところまでは覚えている。
帰りの馬車で酷く頭が痛かったし寒気もしていた。風邪を引いたわねと思って……玄関ホールから先の記憶がない。
目を開けるとマーサがベッドの隣の椅子に座ってレースを編んでいた。
「お嬢様!やっと目が覚めましたね」
マーサはレースを籠に放り込んでアンバーの手を握った。
「お水を飲んでください」
そう言ってアンバーの上半身を起こしてクッションを当て、湯冷ましを飲ませてくれた。喉が渇いていていくらでも飲めそうだったが、「少しずつですよ」と止められた。
全身が痛い。背中とあちこちの関節が特に痛かった。
「私、倒れたのね?」
「そうです。あんなに働くからですよ。何日眠っていたとお思いですか。三日間ですよ!」
「そんなに?」
「ええ」
急にマーサが鼻声になった。
「もう十分です。お嬢様は十分頑張ったんですから、もうあんなに働かなくていいんです。お嬢様に何かあったらどうしますか。今のオルブライト家は安泰なんです。無理はおやめください」
普段はとても気丈なマーサがそこまで言ってエプロンに顔をうずめて泣き出した。
「ごめんなさい。なんだかとても働きたい気分だったのよ」
「そうでしょうけれども、こんな……。今、なにかおなかに優しいものを持って参ります」
グスグスと鼻を鳴らしながらマーサが部屋を出ていった。
すぐにドアをノックされて「はい」と返事をすると、半分だけ開けたドアから顔を覗かせたのはクリスティアンだった。
「やあ。目が覚めたと聞いてね。具合はどう?」
「あちこち痛いわ」
三日も寝ていた自分は今、どんな様子になっているだろうか。
部屋に招き入れて美しいこの人に自分を見られるのは嫌だ、と思った。