50話
先ほどまで罵声を飛ばしていた者たちは、誰一人として口を開かなかった。罰が悪ように目をそらし、中にはただただ二人の姿を見つめる者もいた。
「わかった。主ら……アリスの気持ちはわかった」
向かいの部屋。無残に壊れた窓からこちらを見つめる赤の女王。その声音はとても優しく、表情はにっこりと笑みを浮かべていた。
「生きたいというのであればそれを叶えよう。これからも妾のそばに、妾を守るのであれば殺したりはせぬ」
「ハンプティさんと一緒にいることは」
「それはならぬ。其奴は妾にとっては邪魔でしかない。未来視の力は便利じゃが、散々妾を邪魔してきたのじゃ。その分の報いは受けてもらう」
「そう、なりますよね」
「さぁアリス、妾の元に戻ってくるのじゃ。安心するが良い。前とは何も変わらぬ。そう、何も変わらぬ」
アリスはじっと赤の女王を見つめる。そして、ゆっくりと手を伸ばそうとするが、ただそれだけで、女王の元に行くことはない。代わりに、彼女の顔が酷く歪む。
アリスは気づいていた。ずっと側にいたのだから、赤の女王の考えはわかっている。そんなに優しい言葉を投げかけても、殺さないと口にしても、彼女にはすぐにわかった。
「私が、そんな言葉を信じると思ってるんですか?」
伸ばしていた手をゆっくりと降ろし、彼女は冷たい目を向ける。それは、流石の女王ですら身震いするほどの恐怖を感じさせた。
「どれだけ貴女のそばにいたと思ってるんですか?貴女が嘘をついていることぐらいすぐにわかります。不愉快です……私をその程度だと……気づかないだろうって思われたのが非常に不愉快です!」
前と何も変わらない。そう、何も変わらない。変わらず、アリスは女王に殺される。生きることはできない。どちらにせよ、ハンプティと一緒にいることはできない。なら、拒んで彼女から逃げるしか選択肢はないのだ。
「私は戻るつもりはありません。どんなに罵られようと、自分は生にすがり続ける」
「っ!誰のおかげで今を生きている!誰のおかげで居場所ができたと思っている!」
込み上がった怒りが一気に爆発したようで、女王としての風格もなく、ただただ暴力的に怒鳴りつける。
手にしていた扇は二つに折れ、額に血管が浮かび上がり、ふぅふぅと息を荒げる。
「お前は私の所有物だ!」
しんっ、と辺りが静まり返る。
「確かに、そうですね」
俯きながら、アリスはぽつりと言葉を吐く。それは、女王の耳にも届いて居たようで、怒りの表情からホッと安堵した表情を浮かべる。
「だけど私は、また人として生きたいのです………——————ハンプティさん」
「ん?」
急に名前を呼ばれ、ハンプティはきょとんとした顔で振り返る。
アリスはそのままハンプティのネクタイを引っ張り、自身の唇とハンプティの唇と重ねた。
驚きと、わずかな悲鳴が下から聞こえる。
された本人は状況がわからず、頭の中で思考を巡らせ、やっと唇に感じる柔らかい感触と、0距離にあるアリスの顔に心臓が脈打ち、体温がどんどん上がっていく。
ゆっくりと唇とネクタイを離し、初心な反応をするハンプティを横目に、アリスは唖然とする赤の女王に目を向ける。
「陛下。お世話になりました」




