37話
遠く、ヒールの音が聞こえる。それは徐々に近づいて来て、ガチャリと扉の開く音が聞こえた。ゆっくりとアリスが顔をあげれば、どこかスッキリとした様子の女王の姿があった。
「それじゃあ、続きをやりましょうか」
「…………」
「ふふっ、随分無様で醜いわね」
強く顔を掴み、無理やり上げさせて自分の方へと引き寄せる女王。楽しそうな表情をするが、アリスはまだ諦めた様子はなく、ただただ女王に冷たい目を向ける。
「何、その顔……あぁ本当にムカつくわね」
壁に叩きつけるようにアリスを押すと、女王はテーブルの上にある鞭を手にし、彼女の体に何度も激しく打ち付けていく。
「うっ……あっ!」
赤い痣が浮かび、斬れたような傷跡が体に刻み込まれていく。
「私のハンプティを誘惑した悪魔!!私から彼を奪おうなんて、とんだ化け物よ!」
「ぅっ、あ、ングっ、あ、ん」
「貴女が彼を毒したのよ!彼が私じゃなくて貴女を見るのは、彼を洗脳したからよ!!返しないさい!!私の彼を返しなさい!!」
被害妄想、八つ当たり、勘違い。彼女は己の中にある絶対が間違っているはずがないと思っており、全ての元凶はアリスであると口にする。
心の奥底でぐちゃぐちゃに混ざり合った感情。色々なものでできたそれは、特別な名前があるわけじゃない。この場合、結果的に出来上がったその感情は、どんなに混ざり合っても【嫉妬】という名前がつけられる。
自分以外の人間と一緒にいること、話したこと、触れたこと、愛したこと。互いに愛し合っているのに、相手が自分以外の人物に目を向けるのが嫌で、どこにも行って欲しくなくて、そしてたどり着いた答え。
愛する人をずっとそばに。奪う人間を処分する。
「ハンプティだけじゃない。そんな姿になった貴女を愛してくれる人がいるの?好きだと言ってくれる人、友だと言ってくれる人。その人たちが今の、本当の化け物のようになった貴女を、誰が見てくれるというの?」
鏡がないから、自分が今どんな姿をしているのか、アリスは知らない。だけど、さっき来ていたチェシャ猫が顔を歪ませていたのだ。相当酷い姿になっていることは察していた。
「戦場以外で貴女の存在意味はない。終わってしまえば貴女が生きてる意味はないでしょ?だったら、いっそここで楽になるのも一つの手だと思うのよ」
女王はゆっくりとアリスの首に手をかけ、力を込めていく。
上を向いたまま、息苦しさに喘ぎ声をあげるアリス。視線を下に向けて女王に見れば、彼女はにニヤリと笑みを浮かべていた。
実際に口では言っていなかったが、その表情から「もう少しでハンプティが私のものに」と言っているように見えた。
—————————— かわいそう
不意にアリスの口から溢れる言葉。それを聞いた女王の手から力が抜け、ゆっくりと手が離れていく。
アリスは激しく咳き込みながら、必死に酸素を肺の中に取り込んでいく。
だが、女王の表情はひどく歪んでおり、じっと彼女を見つめていた。
「私が……かわいそう?何を言っているの……私のどこが可哀相だというの!!」
女王は力いっぱいアリスの頬を叩き、拘束されてそれを防ぐことができなかった彼女は、真正面からそれを受けた。だが、ゆっくりと顔を上げて、まっすぐに女王の顔を見つめた。
「貴女は一度でも、彼の言葉に耳を傾け、彼のことを考えたことがありますか?」
「え……」
「貴女が口にしてるのは、貴女の一方的な感情と考えの押し付け。彼は絶対に自分が好きだと、彼は騙されただけ。そうやって貴女は、自分のいいように理由をつけ、それを強制的に事実にしてるだけです」
「違うわ!事実は事実なのよ!彼は、私を愛している」
「そう、言ったんですか?ハンプティさんが」
不意に女王の頭の中で再生されたのは数日前の彼の言葉だった。
《俺は、陛下に好意を抱いていません》
体を震わせ、ゴクリと唾を飲み込んで黙り込む女王。動揺してることはアリスにもすぐにわかり、その真実を理解した。
「そんなに、彼をそばに置きたいんですか?」
「そうよ。私はずっと彼と一緒にいたいの!」
「愛されていないのに?」
「っ!」
どくどくと女王の心臓が激しく鳴り響く。動揺、不安、恐怖。彼女の体をそれらが下から徐々に襲いかかってくる。
「貴女は、本当は彼のことなんて愛してないんです。ただ自分のすぐ近くにいた、一番仲が良くて心の距離も近かった。だけど、いざそんな人物が自分じゃない他の人のところに行くとそれをひどく嫌がった。まるで子供のように」
「知ったようなことを!!」
襲いかかってくる感情を振り払うように、女王はアリスを殴りつける。何度も、何度も、何度も。
「貴女は、私とは逆だ……愛情を当たり前のように注がれたがゆえに、それなしでは心のバランスがとれなくなっている。今の貴女は、心の不安を取り除くために、王から注がれていた愛情を、ハンプティさんに強要している」
実際の人間はどう頑張ったって自分の思い通りにはならない。気まぐれで、心の移り変わりが激しい。だけど人形は違う。彼らに心なんてものは存在しない。いつだって自分のことを肯定し、愛の言葉を囁き、自分の心を満たしてくれる。今の女王はまさにそんな人形遊びをする子供のようだった。
「うるさい!誰からも愛されなかった貴女が、偉そうなことを言わないで!!」
女王はテーブルに置かれた大きな包丁を手にした。それは、コックがよく肉の解体用に使用している大きなものだった。女王はそれを勢いよく振り上げ、そのままアリスに振り下ろそうとした。
「陛下っ!」
遠くから激しい足音が聞こえたかと思えば、一人の兵が地下牢へと慌ただしくやってきた。
振り下ろされそうになった包丁は、ギリギリのところで止められた。




