19話
「アリス」
倒れるアリスの側へ来て、ハッターは彼女の頬にそっと触れる。
眠るように倒れているアリス。しかし首には痣と、抵抗した時のひっかき傷が、痛々しく彼の視界に入ってくる。まるで、「お前がやった」と攻め立てているようだった。
「帰りましょうアリス……私たちの国に」
ゆっくりと抱きかかえ、そのまま白の兵士である、ライオネルとユニーアの側へと歩いて行く。
「それでは、お互いに用もすみましたし、私たちは帰りますね。それはおすきにして下さい」
足元で息絶えるように意識を失っているハンプティ。伸ばした手の先にはすでにアリスの姿はなく、虚しく雪の中に埋まっている。
「貴方は、なぜこの作戦に参加したのですか?彼女も言っていた通り、貴方は赤の女王を嫌っていると聞きましたが?」
「アリスに返答した通りですよ。友人である彼女のためならば、女王の命令にだって従う」
「では、戦場を去った理由をお聞きしても?」
その問いかけに、ハッターはにっこりと笑みを浮かべる。
マッド・ハッターは、有名な貴族の一人である。今でこそ、【帽子屋のお茶会】を開き、のんびりとした生活を送っているが、かつては戦場に出ており、有名な軍師であった。
【道化軍師】と呼ばれており、普通の人間であれば間違いなく最強と言われる存在だった。
まだ彼が現役だったことは、赤と白の戦争の勝率は5分5分。白をハンプティが指揮し、
赤をハッターが指揮し、まだ戦争が少しはまともだった。
しかし、アリスという存在の登場で戦場は一変する。圧倒的なその力に、白のチェス兵たちは皆恐怖した。
そんな彼女と入れ替わるように、【道化軍師】マッド・ハッターは戦場から姿を消した。
「アリスという圧倒的戦力の登場とともに、当時最強と言われた貴方が戦場を去った理由」
「……大したことではありません。死臭よりも珈琲や紅茶を嗅ぎたかった。バカバカしい戦場にはうんざりで、ただ平穏を味わいたかった」
その表情はどこか寂しそうで、だけど満足そうで、抱える胸の中で眠る彼女を愛おしそうに見つめる。
「そんな平穏を友人たちと味わいたかった」
「……それだけですか?」
「えぇ、ただそれだけです。貴方たちにはわからないでしょうが」
「しかしそんなことで、あの赤の女王が許すはずがない」
「……確かに、認められませんでした。だから、最後の役割を果たして、私は戦場を去りました」
その役割の内容を、彼は語らなかった。ただじっと、腕の中で眠るアリスを見つめるだけ。その表情は、どこか悲しそうで、苦しそうだった。
「我が国の事情は貴方方には関係のないことです。我々はこれで失礼します。そちらも、早く帰られた方が良いのでは?」
森から姿を現した時と同じ、彼は二人に笑顔を浮かべると、残ったトランプ兵を連れてその場を後にした。
去っていく彼の後ろ姿を見つめた後、残された二人は、地面に倒れるハンプティを脇に抱える。
「つかみどころのない男だ。何を考えているのかわからない」
「不気味だよなぁ……笑ってんのにすげー殺気出してさ」
生き残ったのは彼らとハッターと行動をともにしていた数名のチェス兵のみ。それ以外は全てアリスに殺されてしまっている。
「死体、どうすっか」
「ほおっておけばいい。死んでいるとわかれば、動物が勝手に食うだろ」
「それもそうだな」
仲間であろうと、死体には興味がないとすぐに背を向けて二人は残った部下と桜蘭を後にする。
「そういえば、戦闘力がないとはいえあのハンプティさんがあそこまで……」
「どんな感じだったんだ」
後ろをついてくる兵士たちにライオネルが振り返って尋ねると、彼らは互いに見合って少し困った顔をしていた。
「手を出さないように言われて、我々は少し離れて戦いを見ていたのですが……」
「マッド・ハッターの方が圧倒的で……」
「まぁだろうな……」
「しかし、時々何か会話をしているようでした。内容は聞きとれませんでしたが」
「ふーん」
興味なさそうに返事を返し、その後は特に会話をもすることなく、彼らは自国へと帰っていった。




