17話
森の奥から姿を現したハッターは、ゆっくりと生き絶え絶えのライオネルとユニーアの側に立ち、アリスに向けた笑顔と同じものを向ける。だけど、肌に感じる雰囲気はピリリと刺さり、ゴクリと唾を飲み込んだ。
彼の後に続き、森の中から続々と兵士たちが姿を表す。ライオネル達とは反対に、多くのトランプ兵と数名のチェス兵の姿。
「手を焼いてるようですね」
「おかげさまで」
「まぁアリス相手ですから仕方ないです。生きてるだけでも褒めてあげますよ」
癇に障る発言に、二人の機嫌は悪くなる。
そんな彼らのことなどどうでもいいと、アリスはただ驚愕し、じっとハッターのことを見ていた。動揺し、震える声で彼女がただ一言問いかける。
「どうして……」
「どうしてとは、またおかしなこと言いますね、アリス」
苦笑しながらも、彼は動揺する彼女を見つめる。今までに見たことない彼女のその表情に、思わずハッターは今までとは違う、少しだけ歪んだ笑みを浮かべる。
「貴女を迎えに来たんですよ、アリス」
「迎え……ありえない!陛下のことが嫌いな貴方が、彼女の命令に従うはずがない!」
「そう怒鳴らないでください。確かに私は陛下の命令には従わない。でも、貴女のことは別ですよ、アリス」
「……どうして、ですか?」
「友だからですよ」
「友……」
誰にも聞こえない声でアリスはポツリと呟く。
それは、とても嬉しい言葉だった。自国にいたならば、少し照れ臭くて目の前のお菓子に手を伸ばしていただろう。きっと、そのまま彼に続いて他の友人たちも同じように口々に言ってくれる。だけど、今のアリスには傷をえぐるようにその言葉が染み渡り、苦痛に感じてしまうほどだった。
「ところで、帽子屋さんはなんでここいんの。もしかして迷った?」
「あぁ、いえ。用事が済んだので、君たちを探してたんですよ。目的の人物ではありませんでしたが、一応手を組んでいるからと思いまして」
そう言いながら、ハッターは杖を握る手とは逆の手に持っていたそれを彼らの側に投げ捨てる。
雪上に重く鈍い音を立てて倒れたそれに全員の視線が注がれ、少し離れた場所にいるアリスは大きく目を見開いて息を呑んだ。
そこに横たわっているのはボロボロになったハンプティだった。微かに呼吸はしているが、ただ小さなうめき声をあげるだけで、全く動かなかった。
「抵抗したので、手荒い手段をとりました。死んではないので大丈夫です」
「派手にやったなぁ……」
「女王が怒りそうですがまぁ……連れ戻さないよりはマシでしょう」
「いやぁ、久しぶりに体を動かしたので、捕まえるのに時間がかかりました」
倒れる彼を囲むように見下ろす三人。アリスは一瞬、ハンプティに手を伸ばしそうになった。けれどそれをぐっと堪え、ただ苦しげに見つめることしかできなかった。
(ごめんねさい、ハンプティさん……ごめんなさい……)
震える手を必死に抑えながら、何もできずにただその姿を見つめることしかできない自分の不甲斐なさが憎くてたまらない。
「さてアリス、武器を捨ててください。そして、一緒に帰りましょう」
「私は、帰りたくないです」
「ここにいたって、貴女の存在価値はないでしょ」
耳を塞ぎたかった。ライオネルやユニーアに言われるより胸に突き刺さる。
泣き出してしまいそうで、だけど彼女は首をふる。胸の痛みを消すために、強く自身の胸を殴りつける。
「貴女の居場所は戦場だ。苦しいとは思うが大丈夫。辛くなったら私の茶会に参加すればいい。マウスもマーチもいる。たまにチェシャ猫やスノーも参加する。そして、嫌なことを全部忘れてしまおう」
それはまるで、一人の道化師が子供を連れ去るような、非現実的で、魅惑的な言葉だった。楽しい楽しいお茶会。アリスの頭の中に浮かぶのは、いつの日かの賑やかな【帽子屋のお茶会】の光景だった。
「さぁアリス、帰りましょう」
「……断ったら、どうなるんですか」
それは、アリスの最後の抵抗だった。その手を取り掛ける、だけど最後の確認というような問いかけ。ハッターは小さく唸り声をあげながら考える。
「そうですね……————— こう、なりますかね」
後ろにいたトランプ兵の剣を抜き取り、そのまま倒れているハンプティに剣先を突きつけた。
「行動を共にしていたぐらいです。よっぱど彼が大事なのでしょうね。君は、君自身が思っている以上に優しい子です。どうするべきか、わかりますよね」
ぐっと唇を噛み締めるアリス。ハッターは変わらず笑みを浮かべるが、表情と行動の違いに、ただただ恐怖を感じる。
手にしていた剣を地面に投げ捨て、アリスはその場から動かなくなった。素直に従ってくれたのが嬉しく、ハッターは嬉々としてアリスに近づいてき抱きしめた。
「あぁ、久しぶりの感触です。少し身長が伸びましたか?しかし、筋肉は少し落ちたようです」
後頭部を触れ、背中に触れ、ハッターは体の隅々まで、今の彼女の身体的情報を観察し、解読し始める。はたから見れば、それはただのセクハラ行為で、さすがのライオネルも引き気味に顔を歪ませる。隣にいるユニーアは、「いい……」と小声で呟きながら、両方から鼻血を垂れ流していた。
「帰りましょう、アリス。マウスやマーチも、貴女の帰りを待ってます」
「……そうですね、帰らないと」
アリスが小さく呟くと同時に、ハッターの体が不自然に揺れ、彼は彼女を抱きしめたまま動かなくなった。
彼の胸に突き刺さる短剣。アリスが兵から奪い、隠し持っていた最後の武器。
徐々にハッターの服が赤く染まっていき、二人の鼻をくすぐるように、甘い香りが漂った。




