9.
「ーーーえ」
ーーードサッ、と。
お母様が床に崩れ落ちた。
唇は笑みを浮かべたまま、優しい面立ちは微笑んだまま。
私にもたれかかるように、お母様はーーー
「おっ、お母様!!」
自分でも驚くくらいに大きく悲痛な声が響いた。
冷たくなっていくお母様の身体を震える腕に抱き抱えながら、力が抜けそうな自身を必死になって叱咤し立ち続ける。
「お母様!!お母様!!」
どこかで分かっていたのかもしれない。お母様があの鈴の鳴るような声で私の名前を呼ぶことはないと。あの優しい笑顔を向けてくれないことを。それでも呼び続けなければならなかった。呼び続けなければ、その瞬間この温かい人はすぐにでも天に昇って行ってしまうかもしれない。
周囲の喧騒なんて気にならなかった。ただひたすら目の前のお母様の暗い瞳に映りたくて、縋るように呼び続ける。行かないで、お願い、だから。
「……っぷ。あは、あはははっ!あははは!!」
突如響いた笑い声。
それは紛れもなく、あまりにも嬉しそうな叔父様の声で。
ぎ、ぎ、と首を無理矢理後ろに向けた。脳が拒んだ。耳が空耳だと訴えた。でも、だけど、私は、その、光景は。
ーーー腹を抱えて、狂喜する叔父様で。
「あはははっ!やっと手に入れた!姉上っ!私はようやく手に入れました!貴女を!あぁ…っ。」
恍惚の表情で、男が笑う。私は恐怖に歯が鳴ることを抑えられなかった。理解できなかった、この男を。
「ようやく、ようやくだ!あの簒奪者から、私は貴女を取り戻しました!待っていた、この日を…。あぁ、最高だ。素晴らしい!!」
足を踏みならし、天に吠え、手を叩いて悪魔は狂喜乱舞する。真夏の焼けた砂浜の上で、ダンスを踊るように。
ーーーあぁ。
「狂ってる……。」
悪魔がグリンとこちらを向く。
「ああ、確かに君からすれば、姉上を手に入れるために姉上を殺した私は狂ってるだろう、壊れているだろう。だが私は優しいのさ。姉上が苦しんでいるのを見たくはない。最期は笑顔で終わらせたかった。だから即効性の毒で、姉上の大好きなシュークリームで、葬ってあげたのさ。」
ーーーシュークリーム?
混乱と憎悪が渦巻く私の脳内に、その単語がある記憶を蘇らせる。
ーーーあぁ、まさか。
「……あの、小瓶」
私が呆然と呟いた言葉に、悪魔が堪え切れないとというように爆笑し始めた。
「あぁそうだよ賢いエルシェ!!君があの食器の裏から頑張って取り出したあの小瓶!あれには君の大切な大切なお母様を殺した美味しい美味しい毒が入っていたのさ!」
………下衆が、という言葉も放てない。手に取っていた。中身を見ていた。いくらでも床にぶちまける機会はあった。なのに、なのに。
悪魔がお母様に向けていた瞳の色を知っていた。なのに、何もしないで、私は。
ーーー私は、お母様を見殺しにした。
「う、うぁ、うああああああ!!」
絶望が頭を満たす。
お母様が丁寧に梳いてくれた髪を振り乱しながら、とめどなく流れる涙が頰を伝ってお母様が可愛いと褒めてくれたドレスを濡らしていく。
「あっはははは!!君のおかげさエルシェ!君が一緒にお菓子を作ってくれたから、面倒な伯爵夫人に怪しまれずに済んだ!君が一生懸命に私の側にいてくれたから、私はこの屋敷に長く滞在できた!あぁ、本当に感謝しているよエルシェ!!」
後悔が溢れて頰を伝う。気が狂うほどの絶望に満たされた私に、この激流を止める術はない。
「あぁ、エルシェ。今どんな気分だい?大好きなお母様を殺す立派な手伝いができたんだ!褒めてあげるよ。あぁでも、ぜひ感想を聞きたいなぁ。ねえエルシェ、聞かせてよ。聞こえてるかい?可哀想に。あはははっ!」
「このっ、地獄に落ちろ!!!」
誰が呼んだのか、怒りと憎悪に満ちたお父様の声が聞こえて、国の騎士団を示す白い軍服の男達が現れた。誰かが誰かを殴る音、お父様と悪魔の罵声、夫人達の悲鳴。周囲が混乱していく中で、失意に泣き腫らした私は、一人で意識を失った。
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翌日から、私は立派な人間不審に陥った。
顔見知りのメイドにすら悲鳴を上げて逃げ惑い、部屋に閉じこもってはベッドで寝て過ごした。身近な人間ほど恐ろしくて、お父様はその最たるものだった。何度拒絶し、部屋から追い出したことか。
二年目は一人のメイドに心を許せるようになった。お父様は悲しそうな、嬉しそうな顔をしていた。私を想ってのことだと思うけれど、それは返って私の不信感を増長させた。お母様が亡くなったのに、私を気遣う余裕があるのか、と。
三年目、お父様は私の従者を探してくると言った。勿論断ったけれど、いつも私に譲歩してくれていたお父様も、家のしきたりだと言って受け入れてくれなかった。
ーーーそして、ある日。
私は、あの綺麗な従者と出会った。