7.
ーーー絶望していた。
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悪夢の始まりは、一体いつからだったのだろう。
私があの男に出会ったのは、大好きなお母様と、お母様の親友である伯爵夫人とお茶会を開いている時だった。
3時のお茶会。いくらでも大好きなお菓子を食べられる、和やかで幸せなひと時。物心がついたばかりの私はお母様の膝の上に乗せられて、お母様と伯爵夫人の楽しそうな笑い声を、クッキーを一心に食べながら聞いていた。
「エルシェはどんな女の子になるのかしら。」
「今でもとっても大人しくて可愛いくて賢くて素晴らしい娘よ。立派な淑女になるに決まっているわ。もしもならなくたって、私の自慢の娘よ。」
「まぁ…。相変わらずね、ナタリー。」
可笑しそうに笑う伯爵夫人。向かい側に座る黒髪の美しい伯爵夫人は、その真っ白な手を伸ばして優しく私の頭を撫でた。
「たとえどんな子になったとしても、貴女はずっとずーっと貴女のまんま。私にとっても愛しい愛しい娘よ。どうか、優しく育ってね。」
大好きなお母様の腕の中で、私はしっかりと頷いた。伯爵夫人は嬉しそうに微笑むと、私の頭から名残惜しそうに手を離す。
「さてと、そろそろお開きにしましょうか。ナタリー、どうぞまた誘ってちょうだいね。」
「ええ、もちろん。メアリの方こそ、断ったりしないでね?」
「ふふ、どうしようかしら。」
「もう、メアリ!」
温かな言い合いをしながら、伯爵夫人が立ち上がった、
ーーーその時。
「おや、もうお帰りになられるのですか?」
不意に聞こえた爽やかな男の声。振り返れば、大きなお屋敷をバックにして、長身痩躯の赤茶色の髪の青年が立っていた。
「そうでしたら、是非お菓子のご感想をお聞かせください。実は姉上のお茶会のお菓子は、私が手づから作っているのですよ。お嫌でなければ、お願い致します。」
にこりと微笑む顔は美しかった。お母様と似た笑い方。どちらかというとキリッとした、綺麗に整った顔がふわりと和らぎ、サラサラの髪が白い肌に影を落とす。
「……ええ、とっても美味しかったですわ。クッキーも素晴らしい食感で。ですが私は、しっかりと訓練の受けた料理人のお菓子の方が口に合うようですわね。次回からは是非とも、公爵家の料理人のお菓子を食べてみたいですわ。」
お母様と話すときとは違う、冷たくてどこか線を引いた言葉遣い。青年に向ける瞳にも、やや警戒したような、険の色が混じっている。
「おや、これは手厳しい。伯爵夫人のお口に合うように、精進を重ねていきたいですね。」
「趣味程度では無理ですわ。私の舌はだいぶ肥えておりますので。」
「……もう、二人とも。」
伯爵夫人は氷点下の視線を、青年はにこやかな視線を、お互いにばちばちとぶつけ合っているところで、お母様の呆れたような声が響いた。
「なんであなた達はそんなに仲が悪いの。エルリック、貴方もいちいちメアリに突っかかるのはやめなさい。」
「申し訳ありません、姉上。ただ私は感想が聞きたかったのですよ。突っかかった訳ではありません。」
「ごめんなさい、ナタリー。ただ私はこの男の胡散臭さが気に食わないだけなのよ。」
「本当に馬が合わないわね……。」
エルリック叔父様と伯爵夫人の言い分に、お母様が呆れたように肩を落とす。その様子にエルリック叔父様が笑いながら目を細めた。
「あぁ、本当に可愛い………。」
私は驚いて思わず叔父様を凝視した。今可愛いと言ったのか、彼は?視線の先にいたのはお母様だった。叔父様のその言葉は、お母様にも伯爵夫人にも聞こえていないようだった。
愛しくて堪らないものを見る瞳だった。愛しいが故に、ほんの少しの狂気さえ混じった瞳。叔父様の言葉の意味が分からなくて、その瞳に吸い込まれそうで怖くて、私は慌てて目を逸らした。
「……エルシェ?」
お母様が私の異変に気付いて心配そうに声をかける。私は勢いよく頭を振り、お母様の肩口に顔を埋めた。
「………じゃあ、失礼するわ。」
私がだんまりを決め込み、微妙な空気になったところで伯爵夫人がそう切り出した。お母様が頷き、困ったような声を出す。
「ごめんなさい、エルシェが動かないわ。見送れない。エルリックに送らせるから。」
「いいえ気にしないで。一人でいいわ。エルリック様のお見送りは結構です。ではまた。」
伯爵夫人はそういうと、颯爽と屋敷に向かって歩いて行ってしまった。その後ろ姿を眺め、お母様は再びため息をつく。
「エルリック、貴方何をしたの。あんなに取り付く島のないメアリはそうそう見ないわ。あれじゃ仲直りもできないじゃない。」
「いえ…、夫人は最初からあんな感じでした。城の夜会で初めてお会いして、始めは普通に話してくださっていたのですが…。何故かそれ以降、顔を合わせる度に苦い顔をされるように。」
「それ絶対貴方が何かしたのよ…。」
お母様が叔父様を呆れたように見る。叔父様はそれに苦笑を返す……
と、いう構図だったけれど。
叔父様の目は全く笑っていなかった。
あの狂おしい目をお母様に向けて、口元だけ笑みを浮かべる。
ーーーただ、怖かった。
幼い私は、初めて会った叔父様への印象を、“怖い”と“意味不明”で固定したのだった。