4.
「おはようございます」
すぐ側で女性の声が聞こえて、俺はしぱしぱする目を擦りながら重い瞼を開けた。
ベッドサイドに無表情で立っていたのは、焦げ茶色の髪を引っ詰めにして、質素だが清潔な感じのするワンピースを着た綺麗な女性だった。
「おはようございます…。」
「現在の時刻を確認しなさい。」
女性の言葉に壁にかけてあるシックな時計を見ると、黒い短針は5時を、白い長針は12時を指していた。
「5時です。」
「あなたは毎朝、この時刻に起きなさい。お嬢様の従者となったからには、お嬢様より遅く起きてはなりません。」
なるほど、この人は俺の教育係的な役割なのか。
「はい。」
「結構。私の名前はミーレです。このお屋敷の侍女頭を務めております。本日のあなたの仕事は、このお屋敷の使用人を全員覚えきること、そしてこのお屋敷の構造を知ることです。従者がお屋敷の中で迷う様では、話になりませんので。」
……結構スパルタだなミーレさん。
まあこのくらいの人の方が、お嬢を守る為に好都合なのかもしれないけど。
「分かりました。」
「身仕度が終わり次第、使用人の一人を捕まえて、このお屋敷を歩き回る旨を伝えてから始めなさい。終わったら、私の元に報告に来るように。」
ミーレさんは終始無表情なまま言い終えると、微かな足音も立てないまま部屋を出て行った。
…さて、始めますか。
結論。
公爵家ハンパなかった。
俺が使用人の人達の顔と名前を覚え、屋敷の中をあらかた理解した頃、始めた時にはまだ登っていなかった太陽が、地平線の向こうに沈み始めていた。
ただ一つ助かったのは、使用人の人達が皆気さくで優しかった事だ。
俺が何度名前を忘れても、「大変だな」と皆笑いながら教えてくれた。
「ミーレさんの居場所かい?」
屋敷の使用人達の中で一番の古株である庭師のガゼットさんが、俺の質問に首を傾げる。
「……裏のお墓だと思うなぁ。」
「お墓?」
ガゼットさんは俺に苦笑を向けると、節くれた大きな手で俺の頭を優しく撫でた。
「裏のお墓には、ミーレさんの息子さんが眠っているんだよ。ここで働いている者達のほとんどは貴族の出だが、ミーレさんは少しばかり特別でね。彼女の事情を知っているのは、旦那様と奥様、儂と執事長くらいなものだ。彼女が裏のお墓に通っているのは、皆知っているがね。」
俺が思わず黙り込むと、ガゼットさんは穏やかな笑顔を浮かべた。
「気になるなら、ミーレさんに直接聞くといい。憐憫の目を向けるのは、逆に彼女に失礼だ。」
ガゼットさんの最もな言葉に俺は深く頭を下げ、踵を返してその場を後にした。
長い壁の区切りを迎え、俺は思わぬ光景に思わず戸惑う。
美しい花々が咲き誇る広い花畑。
その中心に、小さな墓石と共に彼女はいた。
朝俺に見せた無表情ではなく、深い悔恨と哀しみ、そして溢れんばかりの愛情に歪んだ彼女の顔。墓石に手を合わせながら、その狂おしいほどの激情を示すように、彼女の整った頬をとめどない涙が流れていた。
俺はミーレさんの邪魔を可能な限りしないように、彼女に静かに歩み寄る。
「終わったのですか。」
不意に声をかけられ俺は驚きに目を見張る。
まだいくらも近づいてないのに……。忍者か。
俺は少し息をつきながら答える。
「はい。終わりました。」
ミーレさんは俺に向き直り、少し赤くなった瞼を片手で抑えた。
「…そうですか。あなたが終わる頃には戻ろうと思っていたのですが。なかなか優秀ですね。」
はぁ、とため息をつくミーレさんに、俺は意を決して口を開いた。
「ミーレさん、あなたのことを教えてください。」
ミーレさんは驚いたように顔を上げた。
「俺…いや、私は、これからたくさん貴女にお世話になると思います。貴女の事を知りたいんです。お願いします。」
俺が深く頭を下げると、ミーレさんの長いため息が聞こえ、しばらくして。
「……産まれた、ばかりでした。」
懐かしむように、ポツリ、と零れ落ちた言葉。俺は静かに頭を上げ、小さな墓石を見つめる彼女を見る。
「愛しい人との間に産まれた、愛しい愛しい宝物。頼りなくて、弱々しいたった一人の息子。
守らなければと、思っていました。」
彼女は、元々平民だったそうだ。
「決して裕福ではなかった。夫と協力して毎日馬車馬のように働き、やっと不自由なく暮らせていけるような生活でした。でも、それでも幸せだった。……幸せだった、のに。」
ふっと、彼女の顔が苦悩に歪む。
「夫は満足しませんでした。私と息子の為に、もっと裕福になる事を望みました。私は止めました。これ以上働けば、倒れてしまうと。夫は優しい人でした。その優しさ故に、引かなかった。そして、彼は重度の過労で亡くなってしまった。」
ミーレさんの声が涙で揺れる。眉がクッと寄せられ、有り余る後悔に耐えるように唇が噛み締められた。
「夫の亡骸を前に、私は後悔しました。あの時、無理矢理にでも止めていれば。彼は、きっと生きていた。そして……、放心した私のせいで、あの子が死ぬこともなかった。」
ミーレさんは震える手を墓石に伸ばして、慈しむように触れた。
「重なった重い後悔に押しつぶされそうになった私は、死に場所を探して歩きました。希望を失った私に、もはや生きる理由はないと。そして、私はお忍びで通りかかった旦那様と奥様に拾っていただいたのです。そして、この仕事を与えていただきました。この仕事は、今の私の生きる理由そのもの。お二人には、感謝してもしきれない……っ。」
ミーレさんはポロポロと涙を流しながら、墓石から目を離して俺を強い目で見据えた。
「ですから、リアン。あなたにも、しっかりとお嬢様をお支えして欲しい。あの方々の、宝物。我々が、守らなければならないのです。そのためならば、どんな事も厭わない覚悟で。」
威厳溢れる彼女の、心からの願い。
彼女の瞳に宿る壮絶な覚悟に、俺は静かに頷いた。