2.
ヒタリ、と。
額に冷たい何かが乗っけられた感触がして、俺は意識を浮上させた。
ピクリと眉を動かすと、俺の額に触れていた奴は驚いたようにその手を引っ込めた。
怯えるようなその仕草に、俺は不審に思いつつ重い瞼を開ける。
窓から差し込む昼の太陽に照らされて、心配そうに、でも何処か怯えた表情で、一人の少女が俺を覗き込んでいた。
……美しい。
ただ、そう思った。
陶器のように白い肌。
薄茶色の髪は一筋の乱れも無く腰の辺りまで真っ直ぐに伸ばされている。
真紅の瞳はあからさまな恐れを宿し、同色の唇ははくはくと声にならない言葉を紡いでいた。
しばらく、互いに見つめ合い。
先に、俺が言葉を発した。
「あの、ここは…?」
途端。
バターン!と。
彼女が倒れた。
「……え?え、ええええええ!?」
起きざまに幼い少女が倒れた時の、この衝撃が分かるだろうか。
思わず叫び声を上げてしまうのも、仕方がないと思う。
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「……はぁ、すまない。娘が迷惑をかけた。」
と、目の前で眉をハの字にして謝るのは薄茶色の髪をオールバックに撫で付け、黒い私服をピシッと着こなしたナイスガイな男性。
俺が倒れる前、会話をしていた声だ。
ということは、娘だというこの子があの幼い声か。
この子が俺が寝ていたこの部屋で倒れた後、長い髪を引っ詰めにした女性が来て、この子が倒れているのを見て慌ててこの男の人を呼んできたんだよね。
で、今に至る。
「その…、君は、ここに来るまでのことを覚えているだろうか…?」
男性の言葉に、俺は迷いなく頷いた。
前世を思い出した時に、今世の俺の記憶も脳内に流れ込んできていた。
俺の今世での名前は、リアン・アドベルト。
アドベルト子爵家の長男だったんだが、俺は庶子で、厄介者扱いでこのライロン公爵家に引き取られた。
ライロン公爵家の一人娘、エルシェリーヌ・ライロンの従者として。
ちなみに、彼女は夢の中で思い出した乙女ゲームの悪役令嬢だ。
つまり、その従者となる俺は攻略対象。
…はぁ、なんで乙女ゲームなんかに。
「そうか、それは良かった。改めて自己紹介しよう。ライロン公爵家現当主、トザリック・ライロンだ。これからよろしく、リアン・アドベルト君。」
「よろしくお願いします。」
ナイスガイとにこやかに握手しながら、俺は静かに思考する。
このナイスガイがライロン公爵家現当主。
じゃあ、この女の子が俺の主人、エルシェリーヌ・ライロンか。
「すまない、娘は少し他人と関わることが難しくてね。貴族の娘として、致命的な弱点なのは分かるんだが…。事情が事情でね。悪く思わないでくれ。君も、知っているだろう?」
俺は、また頷いた。
それに満足したように彼もまた頷くと、「明日また会おう。今日はゆっくり休んでくれ。」と言って、娘を抱えて部屋から出て行った。
俺はベットに再び横になり、彼女についての記憶を掘り返す。
エルシェリーヌ・ライロン。
ゲームの中では、主人公、シェリーに最も嫌がらせをするメインの悪役。
主に出てくるルートは、王子ルート。
ある時は主人公の弁当をひっくり返し、ある時は主人公の身分を学校中に喧伝してイジメが起きるように仕掛け、ある時は主人公の宝物を目の前で踏み潰し…。
……ロクでも無いな。
そんな彼女は、自分のトラウマから主人公に嫌がらせをするとされていた。
エルシェリーヌが幼い頃、大好きだった母親、ナターシャが、彼女の弟によって殺される。
エルシェリーヌは母親の弟、つまり叔父とかなり仲が良かったため、大ショックを受け、人間不審に陥ったという話だった。
そして今世でも、その話を聞いた。
ライロン親子の様子を鑑みても、既にその事件は起きてしまったと考えてもいいだろう。
そして唯一心を開いた王子に執着心を抱き、主人公に嫌がらせをするのだ。
そして怒った王子は、彼女を処刑する。
……なんて、胸糞の悪い。
俺は彼女の従者だ。王子なんぞに執着を持たれて、みすみす殺してなるものか。
俺の主人は、俺が自分で救ってみせる。
王子様、お前に出番はない。