エピローグ
黒コート姿でクロエは夜明け前のネクサスを歩いていた。夜空を舞う飛行戦艦の砲撃からネクサスを守った土のドームは、脅威のないいまなら無用であった。すでにノームの手によって崩れ、海のなかに消えている。
彼女の脳裏に強くこびりついていたのはアコニットの死に顔だった。全身を炎で舐められ尽くされるのと、自ら頭を砕いて死ぬのは、いったいどちらがマシなのだろう――これまで見てきた中で最も衝撃的な場面だったのは間違いない。そのショックと、昨晩の戦いで負った傷が、クロエを眠らせなかった。
「そこにいたのかい。ちょっと待って!」
セントラルと北の島を結ぶ「プリズム大橋」を小走りで進むベージュ色のコートの少年がいた。クロエは振り返らずとも声でそれが誰なのか分かった。フィルだ。
「おはよう、フィー」
「ああクロ、おはよう。その、体の調子はどうだい」
「眠れなくて最悪よ」
「そりゃ……眠れないならひどくなるばかりだ」
「フィーは? 腕の骨折は半日で治るわけ無いと思うけど」
「今は痛み止めとかでどうにか動けてる。今日の朝にでもちゃんとした治療を受けないとならないね」
「なんだ、私と同じようなものなんだ。薬のおかげで平気な顔して歩いてられる。ボロボロじゃん」
クロエの言葉にフィルは愉快そうに笑った。無理してそうしているのはひと目で分かる。
「そこのベンチで休憩しない?」
「うん。ここなら日の出がよく見えるかも」
空に雲はなく、うっすらと空が白くなりつつある。様々な思惑や悪意と危険にまみれた昨日は遠く過ぎ去ろうとしている。
ゆっくり体を休めながら、気になったことをクロエは口にすることにした。
「ねえフィー、お客さんで怪我した人っているのかな」
「それがいないんだ。RONの空中戦艦の砲撃はバリアや土のドームで防いでいたからね。直接の戦闘員が降下してきたわけでもないし」
「でもネットのニュースで見たよ。RONは自らの存在を明かす声明をだした」
「うん……これからは、これまでのような平和な日々が送れないかもしれない。彼らならきっと、世界に弱肉強食を押し付ける争いを仕掛けるだろう。それがいつかは分からない。僕らに出来るのは、その日のための備えをしておくってことだけだよ」
自分に言い聞かせるようにフィルは言い、空を仰ぎ見た。そんな彼の頬にクロエは右手を伸ばす。先程まで彼女は紺色のパワードスーツ「ピースフィール」に身を包んでいた。それに比べたら自分の腕などなんて折れそうなまでに細いのだろう。
一度に無力になったような気がしたクロエは、しかしフィルの体温を感じて安堵した。
「クロ?」
「暖かいなあ……ちょっとだけ、こうしててもいい?」
「……ああ、うん。もちろんだ」
「ありがとう」
「それとクロ、言わなきゃいけないことがあったんだ」
「なに?」
「これまで君にしてきたこと、これから君にしてもらわなきゃいけないこと――それを考えると一回謝っただけじゃ足らないなって。でも……謝るだけじゃダメなんだ」
「ふうん?」
期待するようにクロエは答えた。
フィルが何年もかけてクロエを、シロ・ピースフィールを利用しようとしたことをスッキリ許しているわけではない。だが、そうしようとしたフィルの気持ちも理解出来るし、少しは納得も出来ている。昨日の地下基地の出来事のように激怒することはないと断言できる。
何度も深呼吸を繰り返すフィルを見てクロエは困ったように笑った。まだ自分が笑えていることに驚きながら、決意を固めたらしいフィルが見つめてくるのを頷いて応える。
「もう一度君と親友になりたい。今度は本当の絆を結びたい」
「なんだかプロポーズみたいね」
「……ダメ、かな」
「そんなことない。今度はちゃんとクロエ・ブルームとして、もう一度やり直しましょ?」
声もなくフィルは涙を流した。頬に触れていたクロエの手に伝わったそれは温かみをもって濡らしていく。
「泣くほどのこと?」
「泣くほどのことだよ。僕は……拒絶されるかもしれないと思っていたから」
「そんなこと――でも、私も謝らないとね」
「なにを?」
「昨日はひどいこと言っちゃったでしょ。本当に悪いと思ってる。ごめん」
「いいよ。君の事情を考えればあれが当然だもの。……それとさ、もうひとつ」
「ん?」
「アコニットはこの世界が嫌だったとクロは教えてくれたね。でもメーベルに仕えていた日も悪くないとも言っていたんだよね」
「……うん」
「やっぱり僕はそれが嬉しいんだと思う。うまく言えないけど……アコニットの気持ちは分からないでもないんだ。自分はどこまで出来るんだろう。そうやっていろんなことに挑戦してきたから、分かるんだ。僕の場合は音楽に興味があったけど挫折して、アコニットは自分の力を試そうとして――」
言葉に詰まったフィルは左手でクロエの右手を軽く握る。
試そうとして、死んでしまった。フィルは自分の仲間だと思っている人物が裏切り者という事実に深い悲しみを抱いているのだとクロエは直感した。彼女は怒りのほうが強いが、彼は違うのだ。
「――弱い奴らは要らない、か。確かに合理的だよ。でもそれを押し付けるのは強い奴らの、サラマンダーの都合だ。そんなものに振り回されて付き合うつもりはない。そんなものに賛同したアコニットにも僕は怒ってる。でも……ダメなんだ。僕は彼女に怒れない」
「分かってる」
「アコニットもこの世界に嫌気がさしてたんだ。でも同時に、僕たちに近いところで居場所を見出してたんだと思う。本当に僕たちのことがどうでもいいなら、自演の誘拐事件につきあう必要なんてどこにもなかったんだから」
やはりフィルもそこに行き着く。そのことにクロエは心の底から安堵して、確信した。
フィルと自分は違う人間だ。自分に至っては人間ですらない。だからいなくなってしまったアコニットへの感情は違うものだ。だが、最後に行き着いた結論は同じだ。
だから私たちは友人に、親友になれる。何度だって。そこでクロエは全身がぐっと重くなるのを自覚した。ほとんど1日、心休まることなく駆け回っていたが、ようやく休める時間が来たのだ。
「……クロ、クロ? 寝ちゃったの、こんなところで……でも、ありがとう。ゆっくり休んで――もしもし、シー? 悪いけど来てくれないかい? うん、プリズム大橋のベンチにいる。クロも一緒だ。クロを背負ってセントラルまでお願いしたいんだ。あー、うん、ありがとう。待ってるよ」
日の出。晴れやかな空に穏やかな橙色をもって太陽が空を染め上げていく。フィルの膝下に頭をうずめたクロエが、そんな景色を見ることはない。
だからフィルは自分の携帯電話のカメラ機能を起動して一枚だけ撮影した。クロエが目覚めればきっと喜びながら見せるだろう。そんな近い未来を予想して彼は満足するように頷いた。




