第十八話 夢から目覚めて、立ち上がる。
キャッスル、1306号室。乱暴にドアを開け放ったクロエは無言でベッドに倒れ込む。
体中に疲労が溜まっている。楽しい思い出があったわけでもない。明かりをつけずにこのまま寝るのが一番良さそうだった。
荷物にいれていたパジャマに着替える気力も、寝る前の歯磨きをする元気もない。深く気持ちよく眠れそうだが、あまり夢見は良くないだろう。そんな予感を抱いて、クロエは体が震えたのを認めた。
軽い刺激だった。眠気を吹き飛ばす程ではなかったが、ポケットの中の携帯電話が何かの通知を知らせているのにクロエは気づいた。
眠い目をうっすらあけながらクロエは上半身を起こし、確認する。通知内容はフィルからの音声メールだった。再生するかどうか迷って、なにもしないで枕元に携帯電話を置いて横になった。
クロエが地下を出てから20分は経っている。少しは落ち着く時間の猶予があったし、怒りも収まりつつある。
結局、フィルが欲していたのは800年前の救世主であって自分ではなかった。あの自作自演の誘拐事件は救世主を呼び戻すためだけにあったのだ。シロと親友だというノームを計画に引き込めたのもフィルにとっては相当に都合のいいことだったに違いない。
しかし自分の内側からシロ・ピースフィールの意識や精神が蘇ることはなかった。期待はずれと感じたのはフィルだけではないはずだ。あの計画に加担したすべての関係者がそうに決まっている。シーもノームもあの地下で深い溜め息をついているに違いない。
表にこそ出さなかったが、一番落ち込んでいるのはノームかもしれない。彼女だけが唯一、生きていたシロと交流のある人物だ。自分ならシロを目覚めさせられると思っていたかもしれない。
だが――クロエは疑問に思う。
仕掛け人であったシーはその立場からとても優しくしてくれていた。普通に考えて見ず知らずの人間が窮地に陥っているのをああまで献身的に助けようなんてのはおかしい。
だが彼女の優しさは本当に演技だけだったのか? あの善人ぶりが全て演技だったとは思えない。シーの家で語ってくれた昔話も嘘をついていたようには思えない。
プロの役者だって半日以上もリアルタイムで役になりきれるとは考えにくい。どこまでが本当でどこからが嘘なのかは判断がつかないが、少なくともシーを始めとした仕掛け人たちの全てが嘘で塗り固められた物事ばかりではないはずだ。
そこまで考えたクロエはフィルの音声メールを開くことにした。
彼も真実と虚偽の狭間で自作自演の誘拐事件の幕を開き、結末こそ満足のいくものではなかったが、概ね台本通りに幕を引いている。いま振り返れば「他人を傷つけるようなことはさせない」というゲームマスターとしての発言も、彼らしい優しさが滲んでいるようにも思えた。
そんな一日を彼はどんな気持ちで過ごしていたのだろう。親友の身になって考えてみると、想像だけで相当に厳しいものがあった。
世界を救うために親友の意識・精神を消す選択をする――クロエには荷が重いと思えた。心を許せる存在と引き換えに別の大切なことを成し遂げるだなんて、フィルであれば腕が千切れるくらいに過酷な選択だったに違いない。長く息をついて、クロエはそっと携帯電話の再生ボタンに触れた。
〈やあ……もう寝ている頃かな。そうだったらごめん。もう君の監視はしていないから、分からなくて。君の監視はゲームをしている時はほぼ継続していた。僕のためにネクサス中を駆け回ってくれたことも知ってる。そんな君を、僕は……
すまなかった。話したいことは他にもある。君を監視していた方法についてだ。君にプレゼントした指輪のことを覚えているかい。たぶん今も君は左手の人差し指にはめていることと思う。
それにある細工をしていて、カメラやセンサを埋め込んでいる。身につけているひとの心拍の様子を確かめたり、その人がどこにいてなにを喋っているのかとか、そんな情報が手に取るように分かるんだ。僕のARコンタクトレンズ、あれに全部情報が入ってきている。いまは機能をシャットダウンしているからプライバシーは覗いていない。信じてもらえないかもしれないけど。
聞きたくないことかもしれないけど、いくつか伝言がある。僕が話したいことももう少しだけ。
まずはシーからの伝言だ。彼女は本当にすまなかったって言ってる。こんなにいい子を騙さなきゃいけないだなんて、ってね。
結局は僕の計画は失敗に終わったけど、シーはそれでよかったって言っている。
『クロちゃんみたいないい子を消すだなんて、いくらシロが救世主だからって、そんなの間違ってる』ってさ。この日が来るまでずっとシーは乗り気じゃなかった。君とは面識がなにもないのに。そしてやっぱり、君と出会ってからその気持ちを強めたみたいだ。台本にないことまでやり始めたからね。
シーが自分の過去を語ったでしょ? あれは本当に台本に書いていないことなんだ。ヒューという猫のアニマノイドを姉に持つことも本当だし、ロンという狼のアニマノイドと組んで3人で犯罪に手を染めて生計を立てていたのも本当だ。
もっと言えば、ヒューもロンもネクサスの従業員だ。裏方な作業を主にしているから、あまり表に出ない。だから都合が良かったんだ。シーはあの駅の喫茶店の従業員だから、やっぱり都合よく動かす土台はあったんだよ。
ロンからも預かっている。少し短いけどね。
『怖い思いをさせてすまなかった。そして、連れの女の人に怪我をさせてしまったことを深く詫びる』………だってさ。
ロンも仕掛け人で、君が尋問した男の子たちも仕掛け人だ。本当はアニーを巻き込むつもりはなかったんだが、男の子たちが失敗してね。こっちの息のかかった人間を脅すふりして第二のゲームを始めるつもりだったんだけど、間違えたんだ。偶然、アニーがこちら側だけ
に通じるサインを出したっていうんだよ。
無関係の人間を巻き込むなんて、本当はあってはいけないことなのにね。でもそうしてしまった。計画を十分に練られなかった僕の落ち度だね。
アコニットを撃ったのはロンだけど、実は彼は銃の名手なんだ。純粋にケンカが強いとかならアコニットが上だけど、それが理由で命の危険を感じたそうだよ。
でもロンは深い傷にならない場所を小口径の威力の低い拳銃で狙ったんだ。地下に連れてきたアコニットの治療にあたったのも彼だ。責任感の強い人だと思う。育った環境が良かったなら札付きになんてならなかったのかもしれないね。
イグは知っているかい? たぶんあいつは自己紹介をしなかったと思う。パレードを見た時に一緒に座った樹のアニマノイドだ。
彼も実際、この日が来るまでクロと面識はなかった。かなりドライな性格をしている僕の古い友人で……そのぶんだけこの計画を遂行するには心の負担が軽いってことは分かっていたつもりだった。
でもイグは地下に戻ってくるなりこう言ったんだ。『なあ大将。俺たちは本当にあんな芯の強い女の子を“消さなきゃ”ならねえのか? 結構な損失だと思うんだがね。もちろんあんたが、大将が一番つらいってのは分かってんだけどよ』……そんなに顔に出したつもりはないんだけどね。
あとはノームからも伝言がある。
『私の役割は、あなただったシロ・ピースフィールを呼び戻すこと。だけどシロは私を見ても起きてくれなかった。でも考えてみれば、こんなことになってもクロエちゃんは親友を取り戻すために一日中頑張っていたのよ。それだけ芯が強いって、やっぱり、シロと重ね合わせて見てしまう。クロエちゃんの中にシロがいる。もう目覚めないだけで、やっぱり同じ人間なんだって、そう思う』
僕からももう少しだけ話をさせてほしい。
クロ。君を消そうとした僕を許せと言わない。今日やったことの理解も納得もしてくれなくていい。軽蔑したり失望したりしたいならそうしてほしい。僕が君の立場ならきっとそうすることだろう。
でも……ああいや、でも、だなんてなんか言い訳がましいな。でもさ。クロが目覚めてからの1年はとても楽しかったんだ。本当に。いつか人格や意識を消してシロにしようって決めていたのに、君の信頼を得るための1年間は、心からかけがえのないものだって思えるものになってしまった。
今日、君は、僕の誘拐事件を受けて一日中動き回ってくれた。その姿を見て僕は何度も泣いていたんだ。僕のために動いてくれたのが嬉しくて、そして後ろめたさや申し訳なさもあふれるほど湧いて、耐えられなかったんだ。
ボイスチェンジャーでも泣いているのは隠せないから、何度か仕掛け人たちに代わってもらったこともある。覚悟していたことのはずなのにね……
クロが僕を、僕たちを嫌っているだろうことは分かっている。でも僕たちは君が必要なんだ。地下で話したと思うけど、この計画が失敗した時のプランBがある。それのために君が必要だ。
君を消そうとした僕に協力する義務もない。なにを援助したって君への罪滅ぼしにもならない。でも、もし君が、この世界を好きだと思うのなら――どうか頼む。明日の朝に君の部屋に行くよ。それじゃあ、またね〉
ベッドの上でクロエは静かに胸を上下させた。深呼吸をして落ち着きを得なければすぐにでも大声で泣き出しそうだった。
今でも彼女の両目からは静かに涙が溢れている。
フィルには、そして彼の仲間たちには、普通の人間が持ち合わせている良心がある。そんな彼らがどんな思いで「ひとりの人間の意識を消す」計画に携わっていたのだろう。
ひとりを差し出して大勢を助け出すのか、かわいそうにと見逃して全員が脅威にさらされるか。合理的な判断は間違いなく前者だ。でも良心が「それはいけない」とささやく。語りかける。雄弁をふるう。
親友たちが計画した今日の出来事を全部許すつもりはないし、これからもきっともやもやと良くない印象がつきまとうのは確かだ。だが――これでクロエは確信した。
状況が状況なら。出会いが出会いなら。彼らとはきっと気のおけない友人同士になれた。お互いに笑い合ったり、悲しんだり、怒ったり、喜んだりできる。困難に立ち向かって助けあったりも出来るだろう。
でもそれは、今日の出来事のせいで遠ざかった。どれだけ離れてしまったかは分からないが、でもいつかは自分が納得できる形で許せる日が来るのかもしれない。彼らは根っからの悪人ではないのだ。
ぷー、と高い電子音が鳴った。インターホンだ。ルームサービスの類は頼んでいないはずだった。
服の袖で涙を拭ったクロエは玄関に向かい、扉を開けてシーが顔を赤くしているのを見た。
「シー? どうしてここに?」
「直接謝りたくってさ。フィルくんから聞いたと思うけど、私も仕掛け人だった。クロちゃんを騙してたんだ。だから、ごめんなさい」
頭を下げるシー。彼女の尻尾もしゅんとしなだれていた。
そんな様子をじいっと見つめたクロエは部屋の明かりをつける。予告のない光にシーの背中がわずかに跳ね、ゆっくり顔があがっていく。
「よかったら……なにか飲んでいかない? 部屋のインスタンスのコーヒーとかあったと思うから」
「それじゃあお言葉に甘えて。でもいいの? 今日はもう体を休めたほうがいいんじゃ――」
「寝る前に誰かとお話するのは悪くないことだと思う。それにシーなら歓迎する。騙してたっていっても一緒にいてくれたんだし、これまで見せてくれた優しさが全部ウソだって思ってないから」
泣いているせいでところどころ詰まってしまったが、クロエは本心を伝えた。嬉しそうにシーは頷き、しなだれていた尻尾も元気を取り戻したように持ち上がる。
部屋にあった電気ポットのお湯で、インスタントのコーヒーとココアが出来上がるのに時間はかからなかった。
窓際にある小さなテーブルに、向かい合わせになった椅子。
椅子に座ってカーテンをあけたクロエは椅子に座りながらきらびやかな夜景を眺めた。青と紫がよく目立つ色鮮やかな照明が、クロエには遠い世界の出来事のように見えた。
この部屋からは北の島と西の島がよく見える。閉園は午後10時だが、アトラクションの類は午前0時まで稼働している。宿泊する来園客のためだ。
シーはコーヒーの入ったカップを、クロエはココアの入ったカップを持ち上げ、軽くうちあわせる。かん、と乾いた音が小さく響いた。
「……乾杯って雰囲気でもないのにね。でも、クロちゃんとこういうことができて嬉しい」
「私も。さすがにフィーから全部聞かされた時はブチ切れててそれどころじゃなかっただろうけど。すごく怒ってひどいこと言っちゃったし」
「無理もないよね。私が言うのもなんだけどさ。その、クロちゃんを……しようとしたんだし」
「言いにくいなら喋らなくていいよ」
シーは気まずそうに頷いてカップに口をつける。その様子を見ながらクロエもカップに口をつけ、ある考えを巡らせていた。
この猫のアニマノイドは本当に犯罪に手を染めていたのだろうか? 第二大陸にいた頃は悪いことをしないと生きていけなかったと語ったのはシーだった。それはたぶん嘘ではないはずだ。
フィルのボイスメールを聞いて、そして目の前で罪悪感に苦しんでいるシーを見て、もしかするととクロエは思う。過去に犯罪に手を染めていた頃のシーは良心の呵責に苦しみ続けていたのではないだろうか?
「あのさ。……信じてもらえないかもしれないけど、この計画が失敗に終わって本当に良かった。シロっていう人に全部おまかせしてもらうって、それは800年前にやったこととなにも変わらないでしょって思ってたんだ」
「かわいそうだって考えてたの?」
「シロさんを?」
「そう」
「だってそうでしょ。800年ぶりに目覚めたら、また封印の魔法なんてのを作らされて、身の安全を守るために冷凍保存だなんてさ。それが一番確実な方法だとしてもやりたくなかったって思ってる。現実にはほら、もうやっちゃったあとなんだけどさ」
確かにそうだ。だが。クロエには分かっている。計画を進める組織の中で個人の反対意見が尊重されることなんてそうそうないはずだ。
だからクロエは聞いてみることにした。ちょっとした好奇心がうずいたのだった。
「じゃあどういう計画ならよかった? その、火のサラマンダーっていうアニマノイドがこの世界を転覆させようとしているって話。それにどうやって対抗する計画なら良かったと思う?」
「真っ向から戦うってのはどうかな。相手がどれだけ強いのか、どれだけいるのか、まだ詳しいことは分かっていない。でも、たったひとりに全部背負わせて解決しますってよりは健全だと思う」
「健全? ひとり犠牲にするよりも、もっと多くの犠牲が出るかもしれないのに?」
「私の気持ちの問題だよ。もちろん叶わない理想を語ってるだけだってのは分かってる。でも、そっちのほうが世界を守っているんだって前向きに考えられそう。女の子ひとりを差し出して世界を守りました、だなんてあまりにも後ろ向きじゃない」
合理的な判断ではない。でもそれをシーは自覚しているし、彼女の言葉は真剣な調子だった。
今日の出来事がなければシーとはすぐに仲の良い友人になれただろうとクロエは思う。それは理想だが、現実でもシーとならば心を通わせても不愉快ではないだろう。
「うん、そうだね、私もフィーにそう言って怒ってたんだ。たったひとりにおっかぶせようなんて、ふざけるなって」
「クロちゃん……」
「明日、フィーと会うよ。今日の出来事は全部現実離れしていた。全部夢だったとか、ファンタジー要素のあるドッキリだったとか、そっちのほうが納得できるかもしれない。でも、もう分かったんだ。これが変えようのない現実で、立ち向かわなきゃいけないってこと。これは自分で決めたことなんだ。800年前の私はシロ・ピースフィールだった。でもいまはクロエ・ブルームなの」
一気にココアを飲み干す。そうする勢いがなければ言い切れない。
「アニマノイドが創られた人類なんてのも、800年前に起こった争いも、誰が主張したってバカバカしいってとりあわないのが当たり前。だから誰も知らないうちにフィーが計画を練って解決しようとして、ホントにやってしまったんだろうなって分かるよ。そしてフィーはプランBがあることを教えてくれた。そのために私が必要なんだって。だから、フィーと明日会ってちゃんと話をする」
「本当にいいの、クロちゃん」
「正直もやもやしているところはたくさんある。でも、そういう気持ちに甘えるわけにはいかない――」
クロエが言葉を途切れさせたのには理由があった。彼女の携帯電話が音を立てたのだ。
見ればフィルからの電話の通知だった。今日このやりとりを何度したことだろう。やっとゲームマスターとしての彼ではなく、親友としての彼と話ができる。だがついさっき激怒して出ていったばかりでバツが悪い。クロエが悪くなくとも。
「もしもし、フィー?」
「おい嬢ちゃん、フィルの大将が誘拐されちまった! 襲われたんだ!」
聞き覚えのある声。今日どこかで出会ったことのある人物の声。
しかしクロエはそれよりも彼の言葉に耳を疑った。
誘拐された? フィルが? 誰に? もう自作自演の誘拐事件は終わったはずでは?
「ちょっと待ってよ、あなたは誰?」
「今日の昼に会っただろ! イグだよ、樹のアニマノイド! 一緒にパレードを見ただろう!」
「え、あんたなの!? フィーが誘拐されたってどういうこと、くだらないこと言ってんなら切るわよ」
「本当のこと言ってんだよ! いいか、いま地下の基地は大変なことになってる。疲れてるとこ悪いがすぐこっちに来てくれ!」
だがクロエは最後の言葉をよく聞き取れなかった。予告なく爆音が響いたのだ。
音がしたのは外だった。ゆっくりと雪が降っていた空の一点が赤く染まっている。その近くには黒々とした、飛行機と艦船を併せ持ったような巨大な鉄の塊が、ネクサスの上を当然のようにゆらゆらと飛んでいた。
「どうした、なにがあった!」
「空飛ぶ戦艦? いや、そんなものが……」
「クロエ! それはきっと奴らだ。RONの奴らだ! 今すぐこっちに来るんだ、もうフィルの大将と会えなくなっても知らないぞ!」
「そんなのお断りよ。分かった、すぐに向かうわ」
どうしたの、と不安を浮かべてシーが叫んだ。携帯電話をポケットにいれたクロエはシーの手を掴んで玄関へと向かう。
「地下基地の道案内をしてほしいの」
「でも行くのは明日って――」
「フィルが誘拐されて、そしてRONの連中が、サラマンダーってアニマノイドが攻めてきたのよ! 全部は分からないけどそれは分かるわ。だから行こう。行かなきゃいけない」
乱暴に扉を開け放ってクロエは飛び出す。事態をとりあえず飲み込んだシーは、こっちだよ、とクロエの前を駆け出した。
ふたつのトラブルが重なった理由。それは、かつて世界を滅ぼそうとしたアニマノイドが、たまたま今日を選んで暴れたかったからに違いない。全力で駆けるシーの背中になんとか追いつきながら、クロエは怒りと不安に心が押しつぶされそうになった。




