スラム食堂での一件
「…っべ」
それに気付けたのは偶然だった。偶然だが、そのおかげで俺は隠れるという幸運を掴むことができた。
「あ、ひぁ、や、やめてくれっ!おれは、おれはぎぁぁぁぁぁぁぁ!!やめてぇぇっぇぇぇぇぇ!やめ、やめぇぇぇぇぇええぇぇえぇぇぇ!」
ゴコッ、バン、グキャッ
そんな重苦しい音を伴いながら、ボロ切れすら取り上げられたらしい男が“解体”されていく。“解体”している犬種は持ち主らしく、誰一人としてそちらに気を向けやしない。
「ハッ!悲鳴はまだまだ出せる見てえだな、ええ?」
「そ、そうだ、だからまだ肉にはブッ」
腹に綺麗な一撃が入る、血を吐いたところを見るに内臓がやられたらしい
ついでにボキンという音もしていたから、肋骨も折れたようだ
「つまりまだまだ元気なのにもう動けねえなんて嘘をつきやがったわけだ!そんな嘘吐きは要らねえよなあ?ああ?」
「っ、こひゅっ、たっ、けて」
「ウッゼェんだよ、とっとと肉になれや!」
その言葉とともに振り下ろされた腕が、男の頭をグシャリ、とミンチにした。そのはずみに、目玉がポンと俺の足元に飛んでくる。犬種の方を見れば、女将に“肉”の調理を頼んでいた。
考えるよりも先に俺はその目玉を拾い、客でごった返す中、何食わぬ顔で席に座った。犬種はまだ出てきていないことを確認し、目玉を自分の口に放り込む。
噛み砕いた瞬間、生暖かい液がドロりと口を満たす。血とはまた違う生臭さと、目玉の皮や中身の食感を噛みしめる。コリコリとしたその食感に、思わず顔が緩むようだ。たったの目玉一つだが、ここ数日間ロクに食事をしていない身には、とてもありがたかった。
「おうおう、目敏くて隠れるのが得意な奴だな…そういう奴は大好きだ」
「っ!?」
不意に話しかけられ、慌てて飲み込む
見れば、隣の席の―何か魚を食っていたらしい―太った巨漢がこちらを見ていた。
「取って食いやしねえよ、むしろ一皿奢ってやる」
慌てて手首に隠した獲物を取ろうとした俺に、男は言った。そしてその通り、女将に追加で一品、料理を頼んでいる。
「…なんだい、あんた。人に奢れるくらいの金持ちには見えないな」
「なあに、俺やアンタみたいに目敏けりゃ金は減りはしねえよ、増えもしないがな!」
そう豪快に―しかし周囲の音に紛れるように―言い放った男は、しかしどう見ても底辺のこの店ですら不潔に思えるような見た目をしていた。
だが、隣に座って臭い匂いがしなかったのは間違いない。少なくとも、この男の体臭は、このスラムや臭い飯の匂いに紛れる程度のものだ。
「…あんた、何者だ?妙に清潔な匂いじゃないか。それに、奢られる理由も義理もない」
「あん?なぁに、そんなこたぁ気にするな!俺は目敏い人間が好き、あんたはそのお眼鏡にかなった、それで十分だろう?」
…こいつは、たまに見かけるタイプだ。何でかは知らないが、自分からスラムに飛び込みその中に溶け込む。そんな変わり者のお偉い人間か、その仲間に違いない。
こういう類いにはあまり関わらないか、ベッタリな関係になるかの2つに1つ。奢られたが最後、俺はコイツの手勢に抱き込まれるだろうが…この時の俺は、空腹でどうにかしていた。
「…まあ、それでいいか。もう一皿頼んでいいか?ここしばらく大仕事続きで、ロクに喰っていないんだ」
こんなふうに、ガッツリと他人に借りを作ろうとしていたのだから。普段の俺なら、考えられないことだった。
食事が運ばれてきて、俺は無心に食べ始めた。臭い飯だが、決して腹を壊すことはないのが評判のこの店のウリだ。隠れ場への道だから中に入りこそすれ、客として飯にありつくことは中々できないのだ、せっかくの機会は逃したくない。
「で、兄ちゃん。あんた、上を目指してる、なんて言わねえよな?」
「…はぁ?おっさん、何を言ってんだ?」
「なに、上に出たいんならやめとけ、って言いたいのさ。上はこっちよりもロクでもない場所だ、ってな」
…何を言っているのか、イマイチわからなかった。スラムの人間は、誰も彼もが上に出るか、こっちでどこかの縄張りのトップになるか、どちらかを目指していると言っていい。
そして、獣種でもなければ縄張りのトップにはなれない。
自然、人種やそちらに近い種、獣種のもやしっ子はこの肥溜めから上を目指す奴ばかりになる。
「上がロクでもない、ね…ここも大概だと思うぜ?仕事にありつけりゃマシだがよ」
「上はよ、仕事にありつけても生きてられるたあ限らねえのよ。一度上に上がれば、もっともっと上を目指し続けなきゃならねえ。それだって、上を目指しすぎるとぶち殺されちまう地獄なのさ」
魚の身をむしりながら、男は言う。いわく、上の世界には「流れ」というものがあるらしい。その流れに乗って好き勝手出来るうちはいいが、次の流れに乗り損ねたり、流れに乗った後でも蹴り落とされたりすると、曰く「この世のありとあらゆる悪意や暴力を詰め込んで、その中で殺しあって最後に残ったものをまた詰め込んだような」場所に押し込められるのだと、。
「で?なんでそんな話をするんだ?俺はひと言も上を目指してるって言った覚えはないんだが?」
「へっへっへ、俺のお節介ってやつよ。気に入ったやつには飯を奢って、この話をすることにしてるのさ」
「…ふん。まあ、飯を奢ってもらったのは礼をいっとくよ。俺は食い終わったんでね、もう帰る」
「おうおう、いい喰いっぷりだったぜ?…何の仕事をしてるかは聞かねえがよ、もしまた見かけたら、何か頼むかもな」
「そんなことだと思ったよ…ほれ、オッサンのだろ、これ」
そう言って小さい革袋を渡す。中には追加で頼んだ一品の代金と、連絡を取る方法のメモを詰めておいた。多分そのうち、何か面倒な仕事が舞い込むだろう。
その時にはもう、選択を早まったと気付いたが、もう後の祭りだった。ならば好印象を与えて、せめて敵に回られることが無いようにした方がいいだろう。
そして、店から出ようとした時だ
「おい、テメェ。俺の肉の目玉、テメェが食ったな?」
男を解体していた犬種が、俺の方を睨んでいた。だいぶ頭に血が上りやすいタチらしい、血走った眼で睨み付けてきている。
「ん?ワンコロが共通語を喋るってのは珍しいな。物見せ小屋に売れば、小遣いくらいにはなるかね?」
「テメェ…気高い狼種様相手に良い根性してるじゃねえか…死ねやおらぁ!」
そう言い、犬種改め自称狼種の男が飛びかかってくる。狼種を自称するだけあって、そんじょそこらの犬種よりもよっぽど早い。
が、犬種の限界を超えるほどのものではなかった。そもそも狼種ならばスラムにいるはずがない、大体は上の連中が自分たちのボディガードに仕立て上げるために狩り尽したのだから。少なくとも、こいつは狼種より格段に劣るのは間違いない。
「おせえんだよ」
何より、狼種であっても空腹が満たされたならば負ける気はしない。そもそも狼種やそれ以上に厄介な相手を殺して生きているのだ、犬っころごときに負ける道理はない。
だから、飛びかかってくるのその鼻っ面に、靴の鉄板底をぶち当てるのは容易だった。
「っぎゃぁぁぁ?!ぐぅぅぉぉぉおおお!」
「よえーんだよ、ワンコロが。狼種ならもっと気持ち悪いぐらいに筋肉モリモリだぞ、あ゛?」
尻尾を巻いて股に挟んでいる、これならこれ以上の抵抗や襲われる心配はないだろう。喉も渇いていたところだ、丁度いい。
「ありがたく思えよ、ワンコロ?混ざりものとはいえ吸血種に血を吸われるんだ、滅多にできない体験だぜ?」
その日、スラムから狼種を自称する『飢狼』ガルシマスがいなくなった。
噂では上の人間に目をつけられてスカウトされたとも、逆に恨みを買った相手の刺客に殺されたのだともいわれるが、真相を知る者は少ない。
それでもスラムは、回り続ける。