最悪なプロローグ
簡単に状況を説明したら、死んで目が覚めたら幼女になっていた。しかも人間じゃなかった。
何を言ってるかわからないと思うけど本当にそのまんま。
どこにいるかも本当にいるかもわからない神様……私はあなたに何かしたのでしょうか…。
私、楠本 香苗は普通の女子大生だった。
朝ぎりぎり大学に間に合うように起きて音楽を聞きながら電車に乗り、授業開始の3分前くらいに教室につく。
休み時間は友達とお喋り。たまに授業をサボってカフェでぐだぐだお喋りをして。
放課後は友達とお買い物したり、またカフェに行ったり夕飯食べたりしに行く。それかバイト。特別楽しいわけでもないけれど、本当に平凡でそこそこ幸せな人生を歩んできた。
なのになんでこんなことになったのか、神様がいるならば小一時間問い詰めたい。
第一声はなんて言おう。きっと「ふざけるな馬鹿」だ。
白い光が見えたと思ったらバン!だかボン!だかとにかく重い音がして体がぐにゃりとくの字に折れ曲がった。次に2度目の叩きつけられるような衝撃。
体が燃えるように熱くて、特にコンクリートに直で触れている頬が熱くて熱くて。ヒリヒリなんてもんじゃない。こんな痛み味わったことない。
肋骨もおかしくなったみたいで息も上手くできなかった。なにこれほんと苦しい!
車から慌てて降りてきたらしい男の人の声が聞こえたが、こっちはそれどころじゃない。死ぬ、ほんと死ぬ!比喩とかじゃなくってこのままじゃほんと死んじゃう!
たぶんこのとき私は痛みのあまり意識を失った。
次に意識が浮上したのは音も色も匂いも、何も存在しない不思議な世界だった。
もしかしたら、私の頭の中だけの世界かもしれないけど。
重たい質量のある水の中にいるようだ。
冷たくも暖かくもない温度のどろどろした水の中を漂っているみたい。どっちが上か下かもわからない。
そんな水の中にいるからだろうか。意識もゆっくりとぐるぐるかき混ぜられているみたいに混濁していて、はっきりとなにも考えられない。
私、死んだのかなぁ…とぼんやり思った。
また頭がじんわりと重くなって、私は緩やかに水の底へと意識を落とした。
三回目に意識が戻ったとき、私の楠本香苗という人間としての生は終わっていた。終了していた。
何言ってるか訳わかんないと思うけど、とりあえず私の人間としての人生は知らない間にピリオドが打たれてしまったようなのだ。
肌寒さに気づき、同時に頬がひんやりと冷たい何かに触れているのを感じた。どうやら私は湿った地面の上に横たわっているようだった。
そこまで考えハッと目を開ける。
頭の上から冷水を浴びせられたかのように突然意識がはっきりと鮮明になった。
腕に力を入れて慌てて起き上がり、周りを見渡して……愕然とする。
自分を覆うようにぐるりと囲む鬱蒼とした木々が立ち並んでいた。こんもりと葉を茂らせた木々は、灰色の空も手伝い、さらに薄暗く森全体を一層湿って黒々として見せていた。
いやいやいや、なんで、なんで森の中にいるの!?
「…ちょ…ほんと、まじで、意味わかんない。ほんと、ちょっと…ほんと…」
混乱して馬鹿みたいな意味のなさない言葉を呟いた。
そのとき視界に黒いものが横切った。ビクリと体を強張らせ目を見開く。
かちこちに固まったまま周りに視線を投げるが、数分経っても何も出ては来なかった。
「もうやだ…なんなの。ほんとになんなの。いみわかんないありえないし…!」
過度のストレスで私はヒステリック気味にそう声に出す。
そよそよと生暖かい風で髪がふわりと揺れた。
そして私はひっと短く声をあげた。驚き過ぎて心臓が痛くなった。恐怖心がなかったらぎゃああー!!と大声で叫んでいたところだ。
私はなぜか裸だったのだ。
しかもなんだか全体的に小さい気がする。気のせいだと思いたいけど思えないレベルで小さい……もはや状況含めて全部気のせいだと思いたいけれど……それはもうふくふくと柔らかそうな真っ白い子供の手だった。色も血が通ってないみたいに青白い。
さらに髪が伸びていた。肩あたりまでしかなかった髪の毛がすごくすごく長くなっている。しかも私は直毛だったはずだ。それがコテで巻いたようにうねうねと揺れているのである。不幸中の幸いか、剥き出しの体の大事な部分は長く成長した黒髪で覆い隠されている。
なんだこれは。もう一度言う。なんだこれは。
え、まさか私が寝ている間に何百年も経ったとか?それで周りが大自然に!?と、そんな矛盾点がてんこ盛りなSF展開が一瞬頭に過った。馬鹿か。いやこの状況が馬鹿。もう満喫したよ帰らせて。
さすがに限界突破。泣いてもいいかな?何故か涙でないけど。人間いろいろ超えたらショックで真顔になるらしい。
きっと今ここを神視点から見れたのなら、冷たい地面にぺたんと座り込む裸の幼女がいることだろう。
と、とりあえず森を出ないと。
もうすでに空は薄暗い。あと数時間後には夜になってしまう。
震える足を叱咤して力を入れて立ち上がる。そしてゆらゆらと覚束ない足取りで歩き出した。
最初は恐る恐る歩いていたが、遠くで聞こえる獣の鳴き声や鳥の羽ばたく音に涙が出てきて、次第に早歩きから猛ダッシュで森を駆け抜けていった。
どうやら精神年齢も体に釣られたのか傍目を気にせずわんわんと泣きながら走る。
方向が良かったのかそれとも森が意外と小さかったのか、一時間もしないうちに森を抜けることができた。
夜が来るのが思ったよりも早くて、空はすっかり真っ暗だ。
見渡す限り前方に木々はあまり見えない。草が所々禿げていてでこぼこした地面が露出していた。
驚くことに、遠くに明かりが見えた。
私は安堵と不安で大泣きしながらふらふらと明かりがある方向へと歩み始めた。
それは小さな家だった。近づくとその家のもっと奥にも小さく明かりが見えた。
人が住んでいる…!
目の前に見える明かりの灯る家と私の間には、確実に私の身長よりも…今のサイズの私だと四人分くらいの高い柵が並んであり、それより手前には杭の尖った先の方を上にして地面に打ち込んだ…明らかに外敵から村を守る目的のための柵があった。
ぐすり、と鼻を啜る。
柵まであと五メートルくらいだ。
どうやってもたぶん中に入れない。入り口を探すために柵の周りを回ろう。
か細く泣き声を口から零したときだった。
バタンと目の前の家の扉が荒々しく開き、大きな影がズンズンとこちらへ向かってきた。
びっくりして硬直したまま待っていると、男らしき人影は柵越しに私を見つめ、声を上げた。
「そこで待っていろ」
皺がれた年老いた声だ。
他にどうしようもないのでぽつんとそのまま突っ立ったまま男を待った。
その間にもぽたりぽたりと涙が頬を伝ったが、必死で止めようと鼻を啜りまくる。
数分くらいで男は柵の外へ出たのか遠くから歩いてきた。
かなり早く歩くなと思っていたら、男は近づいてくるにつれてどんどん大きくなり、目の前に来る頃には確実にニメートルは越えている巨漢だと知った。
「どうした。一人か」
男は年老いているが体は鍛え上げられた筋肉に覆われ、口髭を蓄えふさふさとした眉毛の下から覗く目は鋭くこちらを睨んでいた。こんなに大きな斧が似合いそうな人を見たのは初めてだった。熊と闘っても勝ちそうである。私には怖すぎた。
また涙がどばどばと溢れた。
何も口を聞かない私をしばらく無言で睨んでいた男は、のっしりと屈むと、むんずと私の腰を掴んだ。
「きゃあ!?」
男は私を抱えたままズンズンと進んでいく。
大股なのかやはり歩くのが早い。あっという間に門のような所へ辿り着き、門の横に立って居た若い男は私を抱えた彼を見てぎょっとしたように目を剥いた。門番さんだろうか。
そりゃこんな巨漢のおっさんが裸の幼女を俵担ぎして歩いてきたらそうなるだろう。
「ちょ、ええ!?コーラスさん!!なんでそんなちっちゃな女の子抱えて帰ってきたんですか!?どうしたんですか!?」
「ぎゃあぎゃあと猫のような煩い声が聞こえたから見に行ったら、突っ立っててな。拾ってきた」
「いや拾ったってそんな犬猫みたいにあんた…」
ほんとだよ。まるで人を捨てられた動物みたいに。
…そういえば私人生から捨てられた人間だったわ。
「どうでもいいからとっとと中入れさせろ」
随分とぞんざいな喋り方をする男だったが、門番さんは諦めたように道を開けた。
彼を見ようと顔を向けようとすると、何故かぐっと強い力でまた地面へと顔を向けさせられた。解せぬ。
「得体の知れない子供なんて…まあ貴方が拾ったんだから大丈夫なんでしょうけど…」
こうして私はコーラスという男に拾われ、家に連れていかれた。
無骨なその男は何も聞かずに得体の知れない私を家にあげ、裸であった私に大きな布を上から投げつけた。
家の中は見た目に反して天井が高く(コーラスに合わせた高さであった)そして扉の数を見るに、部屋は三つ程あるようだった。
干した肉や何かの草が天井から紐に縛られ垂らされている。
木で作られたどっしりとしたテーブルの上にドンと湯気の立ち上るマグカップを置いた。呆然と佇む私をコーラスはジロリと見据え、「飲んだら寝ろ。話は明日聞く」と低い声で伝えた。
カップを受け取り、中身をちびちびと飲む。ホットミルクだった。
コーラスはそれをしばらく見つめ、そして腕組をして窓の外を眺めだした。私が水を飲むのを止めてもコーラスは黙ったままそのままであった。
なんだか私は無性に嬉しくなって、先程とはまるで違う暖かな涙をポロポロと零した。
コーラスは扉を一つ開けて、奥にあるベッドを顎で指した。
そこで今日は寝ていいみたい。何も考えられなかった私はコクコクと素直に頷いた。
突然知らない場所に放り出されて、体が縮んで髪もにょきにょき伸びちゃって。
それでもこんな優しい人に出会えた私はまだ幸せなのかもしれない。
自分の中の不安や焦りが溶けていくのを感じていた。
状況は何も変わっていない。
この心を満たす温かい感情も、一時的なものに過ぎない。
でも今日は彼が言っていた通り寝てしまおう。何も考えないで寝てしまおう。体は幼児だからか随分と疲れてしまった。
今ぐだぐだ考えたって、どうしようもない。
小声でお礼を告げ、ふらふらとベッドのある部屋へと入って行った。
背後で扉の閉まる音が聞こえた。
このときまだ私は勘違いに気づいていなかったのだ。
ベッドの脇には鏡が立て掛けてあった。
目の前に来たときに自分の姿がはっきりと映った。
「………はあ?!」
大きな丸い目。黒々とした長い睫毛が縁取っている。
青白い肌に対比するかのように真っ黒い長い黒髪は水中で揺らめいているかのように綺麗に緩やかにカーブを描いて流れ落ちていた。
鏡の中の私は、息を止める程の美少女だった。
しかし異質な部分が一つあった。
黄緑色に妖しく光る光彩の瞳は、瞳孔がパッキリと縦に割れていて、まるで爬虫類を思わせた。
血の気のない雪のような肌に真っ赤な唇、そして瞳が、自分が確実に人間ではないことを主張していた。
その日私は自分がどうやってベッドに入ったのか記憶がない。
一つだけ解るのは、どうやら私の第二の人生は人間以外の種族らしいということだけだ。