投身
:
校舎の中には放課を促す放送が響いていた。
この時間は危ない。帰れと教師が言うように、校舎中に響く放送は帰宅を促すようだ。
見回りの先生は顔が恐いから大抵の生徒は放送を聞いて玄関を目指す。それまでしていた友達との話しや校庭での遊びをやめる。
教師に目を付けられまいと廊下を走って行く生徒たち。
これまで遊んでいた彼らは楽しさを引きずったまま笑っていた。
遊んでいたわけじゃなく、教室で作業をしていた僕は違う。後ろの方を歩いている僕だけが怯えた表情を浮かべ、耳を塞いでいた。
僕はこの音が嫌いだ。
夕日が姿を見せる時間になり始める放送が、誰よりも嫌いでいた。
この音を聞くとたまらなく怖くなる。理由はわからない。ただ学校にいたらなにか良くないことが起こってしまう、そんな予感を抱かせる。
不明瞭な理由と、それでも抱く恐怖。
理由が分からないまま感情を抱くことが不気味で、殊更恐怖を引き立てる。
例えば過去の体験に基づく物。そうした明確な理由あればそう怖がることはなかっただろう。
自分事と云うのに分からないことが、何よりも怖かった。
放送が鳴い響くこの時間には、いつもならもう帰っていた。
放送が鳴り始めるのは授業が終わってから随分と経った後だから、普通、何もせずに帰るなら音を聞かなくても済む。
僕はいつもそうしている。しかし今日は違う。まだ校舎の中にいる。
放送が鳴り始ないうちに帰ろうとした。
するととめられた。日直の仕事があったのだ。前回は放送が聞きたくなくて仕事をサボったからと、今回は見張りがつけられた。
そこから作業を始め、急いで作業を終えたのは放送前と云うのに、安堵の息を漏らしたところで説教が始まり、遅くなった。
どうして日直の仕事をサボったのか。
先日のことを尋ねた担任に、放送が嫌だからと言った。
このときまで、僕はこの恐怖が誰しもが抱いている物と考えていた。
そうだよな。そうした同意を貰い、教師が何も言わずに返してくれると思っていたのだ。冗談ではなく、それほどまでに恐怖は強かった。
しかし現実が思った通りではないことを知る。
話を聞いた担任は訳が分からないと云うように顔を顰めた。
その様を見て気付いた。薄々ながら感づいていたことをようやく実感した。
恐怖が自分だけの物と、気付かされた。
どうやら僕だけが抱くらしい恐怖に怯え、とぼとぼと、廊下を歩く。
あか色に染まる校舎の中には、僕を脅かす『なにか』が確実にあると云うのに。
追い払われるようにして退室を許可された教室から出て、直ぐになり始めた放送に怯えた。その正体のわからない恐怖から解放されるため、僕は玄関を目指す。
玄関から出さえすれば良かった。校舎を出れば、恐怖は少し和らいでくれる。
校舎の中では音が反響し、音が大きく聞こえるからだろうか。それともあか色の校舎と音の組み合わせを嫌っているのか。やはり分からない理由だ。とにかく校舎を出れば恐怖が和らいた。
だから早足で玄関に向かう。
まだ教室で話していた生徒がいたみたいだ、廊下には僕の他にチラホラと生徒の姿が見える。
彼らは談笑していた。帰った後に何をしようか、そう考える様は、実に呑気な物と思う。
しかしどうしてだろう、彼らの方が早く進んでいく。遅れをとらないように歩幅を広めた。
ふと後ろを見たのは、そこに誰かいることを期待していたからだ。しかしそこには誰もいないし、なにも追って来てはいない。寂しさと安堵を同じ胸に抱く。
そして前を向くと、誰もいなくなっていた。
「ひっ」
小さな悲鳴と共に、遅れていることに気付いた。
途端、音が大きくなったように感じる。耐え切れずに耳を抑えた。
音が大きくなったかは定かじゃない。でも一人になったことを意識したとき、恐怖が大きくなったのは確かなことだ。
耳を抑えたまま泣き叫びたい。先生に助けを求めたくて、でも年齢から抱く羞恥がそうさせない。先ほど、担任に苦い顔をされたのも理由にあるだろう。
仕方なく歩き出した僕の目には、きっと涙が浮かんでいる。
試すように一歩だけ足を進めた。歩幅が小さくなっていたのか、進むのは本当にごく僅かだ。
これでは廊下を抜けるのに時間が掛かってしまう。
一刻も早く校舎から出たい。恐怖に耐え切れず、思わず走り出した。
廊下を駆ける。駆ける。廊下を走るなという紙に見ないふりをする。
普段、放送のなっていないときよりも廊下を長く感じた。走っているのに歩いているときより遅かったとすら思う。足がもつれ、幾度となく転びそうになったからだろうか。それとも鋭敏になった感覚が、時を引き延ばしたように錯覚を起こしたのか。
ようやく玄関にたどり着いたときには、随分と息が乱れていた。
何も起こらなかった。ようやくたどり着いたと、大きく息を吐く。
あと少し。足よりもよっぽど速い気は安堵をうむ。
しかし目線を前に向けたとき、また恐怖は強くなる。
玄関には誰もいなかった。それだけじゃない。三つある扉のうち、二つが閉じている。
開いているのは真ん中の一つだけだ。それもじきに閉じてしまうような気がして、焦る。
よく考えてみればここに生徒がいるのに扉を閉めるはずがないというのに、しかし良く考えるだけの冷静さは僕にはなく、ただ自らを急くことしか出来ない。
僕は焦って靴をはきかえ始めた。
上級生になったからと言って母親に貰った紐靴。おろしたての靴は直ぐに履けない。散々注意されていたと云うのに、踵を踏んだ。
走るなと言われた廊下を走り、踏むなと言われた踵を踏んだ。
今日の僕はとことん悪いことをしている。
悪いことをしたら悪いことが起こる。普段から母親の言う、脅し文句を不意に思いだした。
身体を震わせる。もし本当に悪いことが起こると云うなら校舎の中にはいたくない。放送から遠ざかりたいその一心に、玄関から飛び出した。
前のめりに、四足歩行するみたいに手を地面につけていたと思う。
どうやって玄関を抜けたかも定かじゃない。気が付けば、地面に身体をぶつけていた。
身体を襲う痛み。それよりも大きく感じるのは、校舎から出たことに対する安堵だ。
ようやく出られたことを喜ぶ。何もなかったことが嬉しくて、つい笑みを浮かべてしまう。
身体を起こした。鼻歌を歌いたいくらいに、上機嫌になる。
逃げ切ったとばかりに得意げに後ろを向く。当然、なにも追って来てはいない。
開いていた扉を押した。もしかすると校舎の中には誰か残っているかもしれないが、構う物か。扉は閉じて、音は弱まった。
もう恐怖に支配される必要はない。日直はもう当分回ってこないし、うまくいけば放送の前に作業が終わることも分かった。放送と云う恐怖から解放されたと云って過言ではないだろう。
そう考えると、いままで恐怖していたことが途端にバカらしく感じた。
帰ろう。先ほどまであんなにも重く、遅かった足が軽やかに動くようだ。
帰り道では無意識にスキップをしてしまうかもしれない。そう思いながら玄関から前に向き直る。
そして見上げた前方はあかく染まる。
「……………………え?」
そのあかは、校舎を染め上げていたあかよりもよっぽどあかい。
貼りついたままの笑みに被さるように、なにかが顔に掛かる。それは液体だ。あかいろは地面から跳ね上がり、顔を覆う。
少し口に入った液体は、どこかで口に含んだことのあるような気がした。
それはどこだろうか。ふとした拍子に味わっている気がする。
それはなんだろうか。あかの正体を確かめるべく下を向くと、水たまりみたいにあかが溜まっていた。
下を見るまでは、なにがあるか想像できてはいなかった。
そして見たあとも、結局なにか分からなかった。
見たままを言うのは簡単だ。そこにはあかい水たまりがある。
そしてあかいランドセルと、あかく染まった女の子がいた。
その意味は分からない。一体どういうことかと首を傾げる。
どうして女の子が前にいるのだろう。いや、あるのだろうかと、少し言葉を変えたところで誰からも文句は言われはしないだろう。それほどに生と離れた少女が目の前に、落ちていた。
学年は幾つだろうか。そう歳の変わらないだろう女の子の身体はひしゃげ、歪んでいる。
地面に埋まっているように潰れ、姿を消した身体の大よそ半分はあかに隠され、クラスメイトよりも幾分か縦に細くなっている。
女の子の身体はたぶん此方を向いている。
彼女の表情に判断は付かない。その表情が伝えようとしたこと。浮かべていた感情を読みとることは出来なかった。
「――――ひひ」
口からこぼれたのは悲鳴ではなかった。
きっともう動かない少女を見た僕の顔は、まだ笑みを浮かべている。
校舎を出たことで感じた喜びを別の感情に変換することが適わず、そのまま喜び続けていた。
それが僕の始まりだ。僕は少女の投死体を見て、確かな笑みを一つ、浮かべていた。
:
気付いたときには、夕暮れどきの放送に怯えることがなくなっていた。
代わりに感情は高ぶっていく。音は心躍らせるスイッチへと変わり、それまで音に過ぎなかったそれは正しく音楽となる。
つい鼻歌で口ずさむようになるほどの変わりようを自覚したのは、けれど随分と後のことだったように思う。
あの日、彼女が飛び降りた理由は分からない。
僕が分かるのは、彼女が『ハルナ』と云うことだけだ。
駆け寄ってきた教師が言ったのを聞いた。だからハルナが指す物が名字か名前かも分からない。もしかすると、『ハルウラ』の聞き間違いかもしれないし、つまり僕が知っている彼女についてのことは、ないと言って等しいのかもしれない。
目の前で生をなくした少女について、気にならないことはない。
いや興味は十二分にあると云うのに、目撃者と云う位置にありながら彼女について知らないでいる理由は、情報から遠ざけられていたことにある。
事件の直後、大人の計らいにより学校から遠ざけられていた。
それは目の前に落ちた少女について野次馬から尋ねられないためとか。死体を見たことで精神に異常を来たしていないかどうかとか。そうした配慮や確認など、幾つかの理由があったのだろう。そして閉じ込められていたのは、白い建物だ。母よりも幾分か若い女性と話をする日々が続いた。
なにもない、つまらない部屋の中で先生は幾つもの質問をした。
質問に答える僕はいつも眠たげだった。僕が眠気を感じた頃にいつも先生は現れたからだ。
だから質問された内容について、僕は詳しく覚えていない。小難しい質問をされたような、おぼろげな記憶があった。
生活はどれほど続いただろう。カレンダーを見ることさえ適わない中、娯楽のない部屋の中で僕はたまにハルナのことを思い出した。
浮かべた表情は彼女を見た日と果たして変わっていただろうか。
部屋に鏡はなく、そのため確認することは出来なかった。
「幸いにも光景を理解していないのでしょう」
白い部屋での生活の末に下されたのは、そんな判断だ。
程なくして僕は解放された。監視のない、ただの生活を取り戻したのは、歪みがないと判断されたからだろう。確かに、先生の判断はその時点では間違っていなかったように思う。
そう。その時点では、間違っていなかった。
植えられた種が芽を出したのは、先生に判断された後だ。
身体の成長と共に歪みは成長しm芽吹き、表面まで現れた。
次第に、肥大化していった異常を明確な物として感じるようになる。
二次成長で身体が痛み出したころだろうか。どこか変わっている。そう気づき、異常の有無について自覚してみると、おかしいと云う箇所に直ぐに気付いた。
あの日、僕にあか色を見せたハルナがどうなったのか。それまで「よく分からない」で済ませてきた問題が、彼女の自殺であったことに気付いたのが異常を肥大化させた原因のように思う。
そして、どうして自殺したのかと調べようとしたときには既に、問題は取り返しのつかない形になり、おかしな物へとなり下げていた。
鼻歌を口ずさむ。それはあのときまで嫌っていた音楽だ。
この音を好きになったように、この音を好きになる原因となったそれを僕はどうしようもなく愛するようになっていた。
つまりハルナを。いやハルナがそうなった、死体と云う物を愛するようになっていた。
僕は死体を見たことにより、死体を見て喜びを感じるようになっていた。
:
「――今日は」
と、上機嫌を感じていたところに声を掛けられた。
僕の隣を歩いていた彼女は身体に見合った小さな声で言う。
「良いことがあった?」
死体を見ることで喜び感じるようになった反面、僕は別のことで機嫌をあげることが苦手だ。
鼻歌を口ずさむ程に上機嫌な様を見せることはまずないし、尋ねられることに疑問はない。
しかし僕は首を振るう。指摘されたことが恥ずかしかったのだ。
「いいや、なにもないよ」
そう言うと、彼女は申し訳なさそうにうつむいた。
何もないことを尋ねた。たったそれだけをまるで重罪のように受け止める奴なのだ、藤澤と云うやつは。
誰も責めていないのに縮こまり、そのまま消えてしまいそうなまでに身を縮ませる。
すみませんと言う彼女の様を見て、思わず笑みがこぼれた。
消えてしまいそうだからこそ藤澤には目を付けて、そして唾をつけている。
僕は彼女だった物、つまり彼女の生が消えた後に残る死体に恋する予定だ。
恋すると予測するのは、彼女の態度による物だけではない。消えてしまいそうと感じただけではなく、行動が伴っていることを知っていた。
藤澤は自傷癖を持っている。それは偶然に気付いたことだ。
僕の見立てによる物だが、藤澤の自傷は他人に見られるためのファッションではない。私可哀想な子をアピール術ではないことは、彼女の傷を見れば分かることだ。そもそも見られる位置に傷はつけられていなかった。
手首ではなく、それよりも奥。傷があると知らなければ知られることのない位置に刻みこまれた傷跡は、傷を付けることを悪いと知っていながらもそうしなければいけないと云う、彼女の明確な意思を感じさせるようだ。
一体、傷を付けるためにどれだけの血液を流しただろうか。
彼女の傷がいずれ致命傷に繋がることと思い、恋する物になると予測を立てた。
藤澤に近づいたのは、見るためであり、知るためだ。
現状、彼女が亡くなる理由の有力候補は自傷による物だ。
つまり死体を見るとなれば近くにいなければいけない。だから近づいた。
そして理由はもう一つ。ハルナの投身自殺のように、何も知らないままの他人でいたくない。要は知識欲だ。死体となるその人の人となりを知っておきたいと考えていた。
どうした人間が死体へと変わるのか。
どうして変わったのか。その原因を知りたい。
壊れた姿。そして壊れていく理由が知りたくて関わっている。
方法はそう、恋人だ。彼女に好かれるように関係を獲得し、共にいる。
それは最高の立ち位置ではないだろうか。
しかしそう言っても、だ。
僕は藤澤と遊びで付き合っているわけではなかった。
近づいた理由こそ悪いが、恋人として付き合いが真面目な物となるように努めている。
それは学業を共にし、互いに話を聞きあうと云った物だ。そうした付き合いはまるで少年少女が描く恋愛話のように初心な物であり、行為どころか、キスさえしたことはなかった。手を触れ合わせると顔を赤らめる程の、健全な付き合いをしている。
今日日ここまで発展性のない恋人は他にいないだろう。
「今日は家に来る?」
その誘いも、勉強をする場所を決めるための言葉に過ぎない。
藤澤は一つ頷き、自前の自信のなさから、
「迷惑でなければ」そう続けた。
まさか迷惑な物か。呆れるように肩を竦めながら何度目かの台詞を口にする。
「何回でも言うよ。迷惑じゃない」
「じゃあ、行きますね」
「大した物は出せないけど構わないかな」
これも何度も言っている。そろそろ買ってくるべきかもしれない。
買い物に行こうと考えるのは何度目のことか。財布の有無を確かめるのは、今日が初めてと云うことはない。
財布がないし、また明日にしようか。そうして先のばして行き、今日まで買っていないのは確かなことだ。
買うとすれば何が良いか。藤澤が家に来たとき、流石に飲み物は出している。
他に客人に振る舞う物と云うと、菓子ぐらいしか思い浮かぶ物はなかった。
まあ、それが妥当か。小袋の菓子を幾つか買えば良い。どうせ僕はお菓子を食べないし、買いに行くなら藤澤を誘うのが賢明だろう。
すると勉強の前に行くか、後に行くか。
財布を持っていないから前に行くことは出来ない。また帰り道にスーパーがあるが、これは学校に近く、帰った後に行くには面倒な位置にある。
一人で行こうか、それともまた後日に先のばそうか。
「菓子をだすとしたらなにが欲しい?」
尋ねると、藤澤は熟考した。
「――チョコレート系、かな」
でもなんでも食べられると、藤澤は言葉を続ける。
「クッキーも好きだし、スナック系も。グミや飴でも大丈夫だよ」
選択の幅が狭くなることはない。次々に菓子の種類を言う姿は遠慮を感じさせない。
なんでも構わないと言うようで、込められた意味は色々な物を食べたいと言いたいように見えた。そう言っているのだと云うように、それから藤澤はあのお菓子がどうと語り始める。
コンビニには珍しい菓子が多いが量が少ないと、大層不満げに言う姿は可愛らしい。
文句を言うときに少し眉を下げるところ。そして、怒りをぶつけるように右手が上下に揺れるところ。強張った姿ではない、自然体に見える動きは普段見ない物だ。
教室では見られない一面。付き合っているからこそ見られることに、優越感を感じる。
彼女の一挙一動に注目することを、僕は恋と思う。
近づいた理由こそ悪いが、藤澤に感じる情の中に、愛情が含まれている自覚があった。
彼女の死体が見たいと思っている。そして、同時に生きた彼女に恋している。
死体を見て以降、一度として生きた人間に恋したことはなかったと云うのに。
この瞳を通して見る景色の中では、生きた少女たちは所詮じゃが芋に過ぎなかった。興味の対象外である彼女たちに特別な感情など抱きようがなく、しかし、その中で藤澤は特別になる。
初めただの少女であった彼女の傷を見た日に死と云う可能性を見い出し、そしてじゃが芋ではなく個人と見るようになる。
個人として扱い、結果、恋していた。
僕が彼女に恋したゆえに起こる弊害がある。
恋するゆえに臆病になっていたのだ。近づくために吐いた言葉はいまやもう言えた物ではなく、彼女の前では思うように舌は回らない。
行動にしてもやはり臆病でいる。臆病により彼女の手を握ることが精いっぱいだ。
キスと云う行為には踏み込めない。そして、重要な人間として認められる方法である、それ以上の行為に踏み込むことは到底出来そうにない。感情を抱きさえしなければいまごろ付き合いは清純に留まってはいなかったろうに、手を出せずにいる。
早く死体を見たいと云う欲を叶えようと急かす心を止めるのは愛情による物だけではなく、単純に上手く行動出来なくなっていることにもあった。近づいてこうしよう。考えた策略は到底口に出来た物ではないし、行えた物ではない。
また計画を抜きにして、恋人と云う面で考えたとき、彼女の身体に手出しできない理由がある。
僕は自らの抱いている愛情に自信を持てない。
臆病とはまた違う感情だ。身体を重ねるための好意を抱いているのか、自身がなかった。
彼女の死体が見たい言い、そして愛情が共存できた物かと判断が付けられずにいる。
愛情なくして身体に触れられることが果たして許されるだろうかと、そして手を出せずにいる。
様々な理由を持って彼女と行為に及ぶことはない。
いずれ行うだろうに。いま手出しできない出来ない理由について、藤澤が自らの傷を明かそうとしないことが理由と誤魔化して見せる。
僕はいつか『酷いこと』をするつもりでいた。酷いことの内容はまだ分からない。それは藤澤が心を痛めるほどに嫌がることでなくてはいけない。身体をあばくことや愛情を否定する言葉。藤澤が心を壊し、自殺するきっかけとなる行動となる必要がある。
手を出せずにいる期間にせめて信用を得よう。愛情を貰おう。
そうして趣味の悪い考えに浸っているうちに、気付けば家の直ぐ傍まで近づいていた。
話さずにいた僕の横に藤澤はいる。
退屈はしていないだろうかと気を遣うには、幾分か遅かった。
「ただいま」
玄関の扉を開けながら言う。後ろから聞こえるお邪魔しますに頷きながら靴を脱いだ。
はて、部屋は片づけていただろうか。片づけていた記憶はおぼろげにある。しかし僕の趣味は悪く、万一のこともある。
「少し待っていて」言い残して家に上がる。
まずはリビングへ。リビングの戸を開けると、テーブルの上にはいつも通り置手紙が一つ。夕飯はどうと云う内容だ。お節介に嘆息を漏らし、目を通した紙をゴミ箱に放る。そして自室を目指した。
程なくして開けた部屋の中は暗い。
カーテンは閉め切られている。暗闇に目をならす程に時間を掛けるのは藤澤に申し訳立たないと電気を点け、そして習慣から鍵を掛けようと思い、必要ないと手を止めた。
簡素な部屋だ。パソコンが一つ置かれているくらいで、他に目立った物はない。
目立つ物は押入れにしまってあった。幾つかの秘蔵コレクション。男子高校生らしく女性のヌード写真が収められているわけではなく、収められているのは幾つかの写真だ。それは死体と云う、僕の趣味を捉えた物だ。人間の姿を捉えた物は、殆どないけれど。
押入れを開き、アルバムが姿を見せていないことを確認する。
もし仮にこの部屋の扉を開き、押入れを開いたとして見つかることはないだろう。大丈夫。露見する心配がないだろうことを確認し、玄関に戻る。
藤澤は背筋を立てて待っていた。
「今日は親がいないみたいだ」
たぶん毎回言っている台詞を今日も口にする。
藤澤がごくりと唾を呑むのもいつものことだ。僕は慣れきっていて、藤澤はまるで慣れる気配がない。
「それじゃあ宿題でも終わらせようか」
親がいなかった所で、するのは健全な学業に関することだ。
リビングに行き、対面に座る。
ノートを置いて、その向こうに筆箱を置いてもまだあいた隙間を埋める物はない。
一つ息を吐き、宿題に取り掛かる。
パッと見たところ、一時間も掛からずに終わってしまうだろう。僕たちは特別頭が良いことはないが、特別悪いということもなく、分からない問題は補てんし合うことが出来る。
正解かどうかはさておき、問いにはなにかしらの答えを書く。勉強と共に交わされる会話はやはり勉強のことくらいで、そこに色気はない。
とは言うが、他の話題をあげないのは簡単なことだ。
終わったあとにどうせ話すだろう。終わった途端に解散と云うことはなく、テレビを見たりとか、適当に話をしている。
だと云うのに勉強中に会話すると云うならばそもそも勉強会をしていないだろう。
目測通り一時間程度で勉強を終えた後、やはりいつも通りに話をする。
そうして話すのは本当に他愛のない話ばかりだ。しかしなんでもない話をすると云う、それだけのために家に招くなど恋人らしいことだと思う。
学生にとってこれが良い、と真面目ぶる。
二人でいるこの時間は僕を正常に見せる。
そのため時折このままでいようかと悩むときがある。つまり藤澤を死なせずに、そのまま付き合っていくということを考える。
藤澤に近寄ったのは彼女が直ぐに死にそうと思ったからと云うのに、付き合うことで異常が和らいでいく。だからこそこのままでいたいと思う。まあ、そんなことはない。真に正常になってはいない。正常になっていると錯覚していることは、良く考えれば分かることだ。
本当に正常化されているというなら、そもそも迷わないだろうに。
迷っている限り僕は異常に過ぎない。
藤澤と関わり続けるのは、きっとストレスとなっている。
彼女が嫌いと云うことではない。本能に背く行動をとり、そして気の迷ったようなことを考えるから。
死体を見たいという欲がある。そして、藤澤に近づいた。
そこまでは良い。藤澤を死なせまいと押さえつける理性と云う物が働き、押さえつけているのが現状と云える。
ストレスを改善するにはどうするだろう。行動するだろう。好きなことをする。物に当たる。そうして感じる爽快な気持ち、喜びに似た感情によりストレスを軽減させるが、ところが改善させるための感情を感じ辛くなっていた。
幸いにして脱毛に悩まされていないのは愛情による物ではない。ネットが普及したことにある。
ストレスを軽減させるためにネットサーフィンをする。そこで見るのは死体の画像。探してみればいくらでも出る。世の中に野次馬と云う物は数多くいて、事故現場を写した写真をあげる人間がいれば、目の前に倒れた人間を撮影する人間も多くいる。
そうした画像を集め、ストレスを軽減させる。
ただ問題となるのは、画像を見たときに欲が強くなることにある。
つまり死体を更に見たいと思い、藤澤を亡くしてしまいたくなる。
そこで理性が働く。藤澤を死なせてはいけない。更に強くなった欲望を抑える。生じるストレスは増大していき、そしてまた問題はぐるりと回る。ループにより増えるのはストレスの量。いずれ理性が破れ、藤澤を生かそうと考えることすらなくなるのは見て取れた。
と、気付けば思考は宙へ浮き、現実から離れていた。
どうにも考えに耽る癖があるようだ。現実に戻った意識と現実に動いていた無意識とが衝突し、耳鳴りを生む。不快な音は脳を焼切る様に強く響き、思わず額を抑えた。眩暈がする。吐き気がした。
「―――――?」
そして聞こえてきた声はどうやら僕の物ではなく、藤澤の物だったらしい。心配そうな顔が目の前に迫る。近づいた彼女の顔に鼓動を速める。視界の方は正常に働いているため驚き、仰け反った。
「大丈夫?」
正常を取り戻した聴覚に語りかけられる。僕が反応を返さないことに心配を拭えないのか、藤澤は再度口を開く。その頃には近づけた顔は元の位置に戻っていた。
「だい、じょーぶ?」
「……心臓が止まりそう。それ以外、問題ないかな」
「そっか」
藤澤は安堵し、笑みを見せた。
「なにを話していたかな。驚いたせいで頭から抜けた」
「そんなに?」
「逆の立場になれば分かるよ」
げんなりとしたように言う。
そんなことはないと言うが、宿題に集中したときなどにやれば効果はてきめんだろう。顔を真っ赤に変える姿は容易に想像につく。もしかすると身体を仰け反ったあまり倒れてしまうかもしれないと思い、実行を見送る。あれは痛いと経験が語った。
「なんの話か、だよね。駄菓子屋さんの地下には秘密の工房があるって」
藤澤の言ったこれまでの話は突飛な物だ。
あるって、のあとに僕を見たから発言者は僕だろう。まったく。何を言っているのかと呆れた。
「それで何を作っているの?」
「それを知っていたら僕はここにいない」
「そっか。そうだね」
そうらしい。
「こう云う話が好きなの?」
「こう云うって、どう云う?」
「噂話とか」
「それなら好きかな」
分からなそうに言われた。
「学校の七不思議とか、知ってるよ」
「へえ」
少し、興味を惹かれる。
藤澤は言う。曰く、学校には入らずの間と云う物があるらしい。
それは入れない部屋だ。扉が何処にもない。部屋にある物は一つの椅子だけで、どこかの窓から部屋の存在だけは確認できると云う。どこか。尋ねると、上を指した。
「屋上?」
「その手前にあるって。聞いたことがある」
「へえ、全然知らなかった」
学校の屋上は閉鎖されている。だから知らないのも無理ないだろう。
いずれ行きたいと思う場所ながら足を向けていないことを思い、いい機会だ、開いていないことを承知でいこうかと考える。
「それより今度駄菓子屋に行こう?」
「別にいいけど」
なんで、と言いかけてやめた。もしかすると僕の言ったという話を真に受けているのかもしれない。噂話を聞いてそこに行こうと考えるのはお互い様だが、規模が違うだろう。
「藤澤って僕の言うことは大抵聞きそうだね」
「そう?」
「僕の名前は実はトムだ、とか」
「流石に信じないよ」
「なら安心」出来るのだろうか。嘘と分かりきった嘘を信じはしないが、彼女にとって微妙な物は信じてしまうのではないだろうか。それも微妙のラインが常人より太く、大抵のことは信じるように見える。
――例えば好意、とか。
「どうしたの? そんな質問をして」
「藤澤を純粋と思っただけだよ」
「そう?」
「そうかもね」
「結果はどうだった?」
「どうだろう。ただ意外なことに、僕をトムと信じなかったね」
藤澤は苦笑する。信じるわけがない、そう言うが、信じる危うさは十分にあった。
「全く、どう思ってるの」
「いやゴメンね」
「ちゃんと普通に見てます」
僕はそのちゃんと普通に見るというやつをしていないのだけど、どうだろうか。
そして藤澤の目は彼女が思う以上に節穴で、僕のことを正確などに捉えていない。
「だからいま隠していることを言って下さい」
その台詞に、打ち明けようと思ってみた。でも止めた。
僕は君の死体を見たい、死体愛好者とでも伝えようか。
仮に本気ととられたとき、対応はどうだろうか。まさか傷心し、自殺はしまい。するのは引くことや、退いていくことか。気持ち悪いと言い、離れていくだろう。
それは望むべきことかもしれない。藤澤は死ななくて済む。万々歳だ。恋人としてこれ以上に望むべきことはないだろう。けれど言わないのは、藤澤が離れていくことに耐え切れないからか、それともどうしても藤澤に死んでほしいのか。後者の方が強い気がした
どうやら僕はなかなか藤澤を生かそうと動けないらしい。
「里見君って」
大抵僕が話しかけているから呼ばれることがない。だから、どきりとした。
「なにか隠している?」
再度、今度は詰問するように言われた言葉に胸が痛む。
彼女が問いを向けたのはどうしてだろう。
なにか感づかれることをしただろうか。ただの思い付きだろうか。
頭にぐるりと回る疑問が周回するより先、僕は否定した。
「なにも隠していないよ」
「そっか」
言葉に頷く藤澤の顔には笑みが浮かべられている。
本当に隠していることはない。そう思ったように。心配が拭えない。
「急にゴメンね?」
「いいや。疑われる方が悪いよ」
「そうだね」
「そこで頷く?」
「え?」
「そう言う物だから」
分からなそうに、藤澤は首を傾げた。
傾げた首は戻る際に寄り道をした。時計を見て、時刻を確認した彼女は言う。
「えと。もう帰った方が良い、かな」
出来ればお願いしたい。感じた焦燥を忘れてしまいたかったが、口にはしない。
「送って行こうか?」
「いえ、寄る場所があるので」
「じゃあ、また明日」
「はい。おやすみなさい」
そうして、行ってしまう。
無理にでも送って行くべきかと考えるのは、一人残されたあとのことだ。
残された部屋の中でやることは少ない。テレビは部屋にパソコンがあるから事足りる。よって藤澤が帰った後は部屋にこもることになる。
自室に入り、電気を点ける。そして今度は鍵をかけた。
そう云えば鍵をつけるとき、理由はなんと言っただろうか。僕の趣味が知られないための防衛策が許された理由を思い起こそうとするが、どうにも頭に浮かばない。余計なことばかり考えている所為か、昔のことを忘れやすいように思う。
念のためドアノブを捻り、ドアを押す。
鍵が掛かっていることを確認した。
「はあ……」
嘆息する。どうしてか、疲れていた。
パソコンの電源を押す。そして、準備が完了するまでの間に手持無沙汰に携帯を弄る。パカ、パカと、開閉を繰り返す。ようこそ。誰に向けたか分からないメッセージを視界の端にいれた。
そして起動が完了するなりすぐにブラウザを立ち上げる。
検索欄にうち慣れた文字を入力する。と、表示されるのはやはり見慣れたページだ。大概のひとが嫌悪感を示す画像ばかりが並ぶサイト。サイトの背景は黒く、いかにも裏サイトであるという風を見せている。
そこで目に入った物に見入る。野次馬が撮った画像には僕の望む物があり、一転して気分を良くした。
ふと、藤澤はもう帰ったかと心配に思う。
気付けば30分以上が過ぎていた。辺りが暗くなっている時間に帰したを申し訳なく思い、メールを送る。死体を見て顔を思い浮かべ、心配するとはどこかおかしいような気もした。
2,3分とまつがメールは返ってこない。
気付いたときにかえってきていたのはメールではなく、母親だ。
時間は随分と遅くなっている。ベッドの上に移動し、ぼうとしている間に僕は意識を手放していた。
目が覚めたのは翌朝。光が差し込まないため朝が来た実感はなく、携帯を拾い画面を見ることで時間の感覚を取り戻す。
カーテンを開けようとベッドから降りた。布を捲り、日差しを浴びる。朝だけはこうしていたかった。日差しを浴びると、ようやく目が覚めるのだ。
どっぷりと身体に日差しを染み込ませることを終えると、次いでまた携帯を手に取る。藤澤からの返事を確認していなかった。
しかし返信はない。画面にメールのマークは表示されておらず、ためしにメールセンターに問い合わせるも結果は変わらない。珍しい。内容はともかくとしていつも返信はする彼女が何も送ってこないとは、ついに愛想を尽かされたのかもしれない。冗句として思い浮かべた言葉は思いのほか胸をえぐられる。
リビングに行き、朝食を食べる間も不安はぬぐえない。もしかすると携帯に触れられない理由があったのかもしれない。そう思い、心配する気持ちからいつもよりはやく学校に行こうかと考える。しかし今日は土曜日だ。カレンダーを睨みつけるも日付が変わることはなく、藤澤と会えないという事実のみを感じることになる。
メールを送ろうか。しかし、続けてこちらから送るのは心が引ける。
結局メールを送ることはない。そして、藤澤との関係が希薄な休日二日を過ごす。
月曜日はいつもより早く学校に行った。いつも通りに来ている藤澤はそれでも僕より登校が早い。何をするわけでもなく椅子に座る藤澤に声を掛けると、
「おはようございます」いつも通りに挨拶が返ってきた。
あまりにいつも通りの挨拶に言葉が出ない。メールなど気付いていなかったかのように振る舞うからどうしたのかと聞くこともできず、仕方なく席に戻る。
授業中に見る藤澤の姿はいつも通りとは言えなかった。
うまく説明は出来ない。だが、ふと視線を向けたときに見た彼女はいつもよりも小さく見えた。外敵に怯えるように身体を縮こませていた。
どうかしたのだろうか。何かあったのだろうか。それでも明確とは言えない変化を指摘することは出来ない。気のせいです。そう言われてしまえばおしまいだ。
授業の内容はろくに耳に入ってくることがなく、また幸い授業中に指を指されることはなく、そうして抜け殻のようにしていると放課後が訪れていた。
藤澤の席に向かう。公に付き合っていると言ったことはないために集まる若干の好奇心に満ちた視線に気を留めることなく彼女に話しかけると、首を振られる。
「図書委員、なので」
だから放課後は拘束されているという。
「放課後まで待つよ」
キョトンと目を開いた彼女に断られる前に言う。
「校門のところで会おう。僕がいなくても出るのが遅れているだけだから、その場合、悪いけど待って貰えるかな」
了承し、分かれた。
何をして時間を潰そうかについて、考えてはある。
入らずの扉と云う物を見ておきたかった。その後は教室でひと眠りすればいいだろう。
廊下に出て、間近な階段を上って行く。屋上へ続く扉があるくらいで部屋はない。別の場所だろうかとそこを後にする。そうして歩いて行き、見つけたのは三つ目だ。職員室や特別教室が置かれた棟の東側にその部屋はあった。
「へえ」
本当に扉がない。そのくせ階段から中身が見えるように大きめのガラスが貼ってある。まるで見世物小屋のように置かれた部屋は意図を把握することが出来ない。何のためか。首を傾げるが、やはりわからない。
屋上に隣接しているのだ。屋上に扉があるのではないか。そう思い扉に目を向けると、瞳孔が開く。鍵が壊れかけていた。
なにかで痛めつけた跡がある。鍵はいまにも壊れてしまいそうだ。昔からこうなのか、それとも最近破壊を進めているのか。
教師に言えばことは解決するだろうが、そうしない。
屋上が開いた方が良い。どうしてか学生は飛び降りを選ぶ物で、屋上が開きそうなのは、好都合だ。
近いうちに誰か死ぬのだろうか。にやっとする口元を抑え、教室に戻った。
学校の机と云う物はベッドよりも眠り易くできている。
退屈のあまりいつの間にかに眠り、目を覚ましたのは放送を聞いてようやくだ。目を覚ます。
あまり残っていると見回りの教師に怒られるからと僕は校門を目指す。藤澤はもういるだろうか。いたら悪いことをしていると小走りをする。あの日よりも廊下は短い。
学校名が書かれた小さな門の前にはまだ誰もおらず、ほっと胸をなで下ろしながら門へと寄りかかる。硬い感触だ。粉のような物が点いていないかと心配になるが、杞憂であった。
放送に音声が混じる。もう帰りの時間と云うことが聞こえ始めた頃になり、ようやく藤澤は校舎から現れた。来るなり、頭を下げられた。遅くなったことを詫びているらしい。
「良いよ。帰ろうか」
「そうですね」
そして歩き出す。帰路に就こうとして、いやそれよりも前にすることが一つある。
「お菓子、買いに行かない?」
「はい!」
提案に藤澤は頷いた。その嬉しそうな顔に、思わず何でも買おうと口にしそうになった。
町は田舎だが、帰り道にスーパーはある。寄り道のために足を延ばす必要はない。
チェーン店と云う程に大きくはない、精々町に幾つかあるという程度の規模の店。開いた自動ドアの向こう側からいらっしゃいませ、と声が聞こえた。
藤澤は律儀に頭を下げる。いや、顔を逸らしたのだろうか。ともかく下を向いた。
訪れた菓子コーナーの規模はまずまずだろうか。どれにしようかと決める選択肢はある。
「どれにしようか?」
尋ねると、藤澤は商品棚を食い入るように見る。
お菓子を好きに一つ選べ、そう言われた子供でさえここまで真剣に見はしないだろう。宿題に手を付けるよりもよっぽど集中しているように見える彼女に、ふとちょっかいを掛けたいと思ったのは、あまりに無防備に見入っていたためだろう。
触ることの意思表示と云うように、わざわざ声を上げる。触ったのは彼女のうなじの辺りだ。髪に隠された皮膚に触れると大層驚き、驚きのあまり商品棚に向かって跳ねようとする。頭を打たないようにと思い、手を伸ばすも遅かった。
「――――痛」
「あー、ゴメン」
「…………」
不満げな瞳で行動を咎められた。
よほど強く打ったのか頭を押さえ、目には少量の涙を浮かべているように見える。悪いことをした。再度謝罪の言葉を口にすると、藤澤は指を一つ立てた。
「もう一つ、です」
「え?」
「もう一つ買って貰える?」
「それで許して貰えるなら、良いよ」
言った途端に笑みを見せる。上機嫌を一つ上げたのか、鼻歌を口ずさみ選ぶ姿に苦笑を漏らした。
商品を選び、レジに持っていったのはそれから10分過ぎたくらいだ。レジに置くのは菓子の入った袋だけでその数は少なく、直ぐに会計は終わる。まるで子供のように、藤澤は菓子の入った袋を自らが持つと言う。
藤澤の機嫌は良い。菓子を買ったことによる物なら、もう少し早くから実行していたら良かったかもしれない。
「ところで図書委員で、ね」
「なにかあった? もしかして疲れるようなことかな」
クレーマーとか、いるのだろうか。
「いえそう言うのじゃなくて。甘かったです」
「仕事を舐めていた?」
「そうでもなくて。食べていたチョコレートが、とても甘かった」
確か図書室は飲食厳禁じゃなかったか。
それに仕事中だろう。何をしていたのかと藤澤を見る。
自らのバッグを漁り、そして貰ったのだろうチョコレートを幾つか取り出しながら藤澤は言う。
「活字離れが悪い。ひとが全然来なかったよ」
「それもあるが、放課後は帰りたい物だからね」
「そうですか?」
チョコレートの封を切りながら藤澤は首を傾げた。
「そう言う物じゃない?」
手を出して、僕は頷いた。
友人と話すなら帰る前に寄り道をすれば良いし、大抵のひとはさっさと帰ってしまう。高校生となるとそうした考えを抱くようになる。部活動と云った活動を除き、夕暮れの放送まで話しているひと、遊んでいるひとは減った。
校舎を出るときに見た限りでは、放送を聞いて帰るひとは殆どなかった。放送に恐怖を抱くままでいたならば、きっと僕は孤独に泣きだしていただろう。
感じた変化よりも大きく変わらない物かと心配になるのは、
「それで、委員の途中に食べたのにまだ食べるつもり?」
「ダメですか?」
藤澤はまだ食べている。きっと勉強をする合間にも手を伸ばすことだろう。
女性と云うのはあまりにない体重を重いと嘆く物と聞く。
しかしチョコレートを口に運ぶ藤澤に躊躇いはない。
「いや良いけどね」
そう言って見た腹部に肉はない。食べっぷりからは肉付きが良いように見えるが、もしかすると自傷行為に身を削っているのかもしれない。うへえ。想像に身震いする。
想像の通り、いやそれ以上に食べる藤澤との勉強会を終え、別れた後に気付く。
そう云えば、結局メールの返信が返って来ていない理由を聞いていない。すっかりと忘れていたと額を叩く。
今日は返ってくるだろうかと思い送ったメールは、3分後に返ってきた。
昨日のことには何も触れていなかった。
:
と、気付けば今日は木曜日になっていた。もう少しで、今週も終わる。
よほど菓子を貰えることを気に入っていたのか、週が終わりが近づくにつれ藤澤は悲痛な声を上げるようになっていた。まだ今週でいたい。わけの分からない言葉を吐く姿を何度か見た。
それでも菓子を貰うと藤澤は上機嫌になった。
週が終わって欲しくないというのは僕も同じだ。
藤澤にずっと上機嫌でいて欲しいわけじゃない。いや機嫌が良いことに越したことはないが、理由は別にある。今週が終われば放送を聞く機会が減ってしまうのだ。僕にとってそれは問題だ。
問題を抱えながら、放送を聞いていた。
授業は終わり、いまは放課後だ。図書委員は既に仕事を終えたのだろう。時計を見る。放送が鳴り始めてから5分以上が経っている。急ぐつもりはない。その必要はない。
今日、藤澤は一人で帰るという。放課後に彼女を待っているとメールが届いた。すみませんに使われる文字数が本題より多いのは彼女らしい。しかしメールで伝えるのは、あまり彼女らしいとは思えない。伝えることが出来ず、流される。涙目で参加しない行事に参加する方がらしいと思う。
しかし送られてきたメールには疑問を覚える物で、もしかすると彼女以外の仕業と疑ったのかもしれない。待つ必要はなく、メールを見てすぐに帰っても良かった。そうせずに残っていた。
単に放送が好きたかったのかもしれない。ぶらぶらと廊下を歩く。三階から二階へ。また三階へ行き、校舎を渡る。幸い見回りの教師と鉢合わせすることはない。
靴を履きかえて扉を出る。そして、電灯の点いた道を一人歩く。一人では歩幅や話の内容を考慮する必要はない。久しぶりだ。藤澤と会うまではこうしていた気がする。放送が流れるまで残り、帰って行く。あまりに花がないことをしていたことに気付いた。
「僕にとって藤澤との出会いは青春の始まりと云うわけだ」
なんとも恥ずかしいことを言った。赤面。一人で良かった。
息を漏らすと、一人ではないと言うように携帯が音を立てた。ポケットにしまったそれを取り出して見ると、メールが届いたようだ。相手は藤澤。明日を題に置き、本文には何も書かれていなかった。
あと少し待てばメールが届くだろう。しかし待たない。なんとなく、電話を掛けてみる。丁度打っている最中だからか、出るのは早い。
「藤澤、図書委員はどう?」
もしもしを言い忘れた。僕は通話にはあまり慣れていなかった。
「――――」
藤澤もまた通話に慣れていない。通話は切られていた。始まった言葉の続きは分からない。
打ちかけのメールが届いたのは通話が終わってすぐのこと。掛けなおそうかと首を傾げているとメールが届く。電話を掛けた時点で打っていた内容だと思う。まだ完成していない内容に、しかし分かったと頷いた。
明日もまた、藤澤は一人で帰るらしい。
なにかあったのかもしれない。聞こうにも学校では話す機会がないし、電話を使うのはあまりに機械になれていない。通話が続けられないのは先ほど見せつけられたし、メールもこの通りだ。直接会ってもすみませんばかり言われるだろう。
「うわ」
すみませんばかりが書かれたメールに絶句する。
どこか変わったように感じる関係に首を傾げ、答えを出さないままに翌日になる。悩みを吹き飛ばすのは放送に限る。放課後まで嫌な気分を引きずっていたが、放送を聞いた途端に気分はいつもどおりに戻る。
今日は放送が終わるまでは聞かなかった。始まって、少しすると教室を出た。
既に生徒の大半は校舎に残っていない。残っているごくわずかのひとともすれ違うことはなく、姿を見ることもない。急ぐわけでもなく、焦るわけでもなく玄関を目指した。
昨日と同じように靴に履きかえると玄関に出る。夕暮れが肌を染める。もしかするとここにいれば藤澤の顔だけは見れるんじゃないか。思いついて校門で待とうかどうかと悩む。靴の有無だけ確認しておこう、後ろを向こうとすると、視界の端になにかが動いた。
それは上から下へ、落下したように見えた。
「――あれ?」
ぼう、と藤澤が玄関から出るのを待っていた。
声を掛けてきたのは誰だろう。藤澤ではない。
顔を上げると、好意的とはとれない視線とぶつかった。
「里見君、どうしてここにいるの?」
虐めかと思った。しかし、敵意より理解できないと云う物のように感じられる。
その声は上ずっている。まるで化かされたというように、目を開いている。例えば今先ほどまで僕と校舎の中で話していたように、矛盾した物を見ているように。
学友は後ろを向いた。そこになにかあるのだろうか。校門から背を離して視線を追うと、人だかりがある。なにかあったのだろうか。
「なにかあったのかな」
尋ねるが、返事はない。
「ところで、藤澤が何処いるか知らない?」
やはり返事はない。目の前にいる彼女は言いづらいというように、後ろを向いた。
「里見君が初めに見たんだよね?」
そして尋ねられた言葉に首を傾げる。
「それなのに笑って、どうして?」
笑っていたらしい。頬を触る。
確かに作られた笑みが意味するのは、僕の趣味に見合った物を見たことになる。
校門より内側にある人だかりと、藤澤の居場所。
つまり、藤澤は死んだのだろうと、ぼんやりと思う。何てことはない。飛び降りだ。
人だかりより上を向く。壊れかけていた屋上への扉があったのは確かあそこだ。
とすると、鍵を壊そうとしていたのは藤澤だろうか。いやそんなことよりも。
「藤澤は死んだのか?」
返事はない。たかが数年の成長はそれでも骨格を丈夫にするが、丈夫にも限度がある。あの日身体を潰したハルナが数年の成長で傷を減らしたとは思えない。つまり、死んだのだろう。
哀しいのだろうか。しかしどうしようもなく高ぶって行く感情は、ただ満たされたことを伝える。彼女、恋人の関係の相手がいなくなったことによる喪失感よりも満ち足りた感情を感じることに嫌気がさす。
所詮藤澤に亡くなって欲しくないと考えたのは、自らを正常と云うために過ぎなかったのだろう。涙が漏れないことが証拠だ。泣き叫ばないことが証拠だ。どうしようもなく嫌気がさす。いっそ死んでしまいたかった。
「……そうだ」
死んでしまいたい。
藤澤の近くにいたが、死んだ理由は分からない。
その兆候を幾つか見たい程度にしかすぎず、彼女を理解するには至らなかった。
しかし自分事ならばどうだろう。この感情の原因が分かる。死にたいと思うわけが分かる。ならば自分が死んでしまうのはどうだろうか。
考え付いたときには足が動いていた。
野次馬に向けるわけではない。玄関に向けられた足は、次第に早くなる。
あの日放送から逃げたように、今度は放送に向かっていく。駆ける。そしてたどり着いた屋上への扉の前には、誰もいない。野次馬になることに専念しているのだろう。開いたドアを潜った。
最後に藤澤が見た景色と同じ景色を見渡して、一つ扉を見つけた。
入らずの間への扉。何となく、嬉しいような気持になる。
藤澤はこれを見ただろうか。噂話として話をしたことを思いだす。
そして、僕はフェンスを越えた。
僕は喜んでいるのだろう。死を知ることを。そして、死を見ることを。
藤澤にまた、会えることを。
なろうの使い方を把握するために書いてみました。正直出来の方はあまり自信はなく、書きたい内容を無理に入れようとした結果ぐだぐだと長くなってしまったように思います。それでも最後まで読んで下さった方がいれば嬉しいです。




