第8話
樹と萌花との婚約期間。
それは樹にとっては、忍耐の日々だった。
兎角萌花がワガママなせいで樹は大学を卒業するまで、中学生相手に振り回されるだけ振り回された。
同じ中学生だった椿が自己主張をしない性格であるのに対し、萌花の場合は世界は自分中心で回っているということを本気で信じているような馬鹿な性格をしていたせいで、それまで樹が相手にしてこなかったようなタイプの人間に合わせるのには相当な気力と体力がいっただろう。
振り回されると言っても、実際に萌花に会ったりはしない。
妹が気まぐれに樹へ呼び出しをかけ、樹がその場に赴くと本人に対し罵詈雑言を言ってそのまま帰されたり、萌花が買い物に行った時には荷物持ちのためだけに呼び出されたりもしていた。
こともあろうか、萌花は友人連中に樹を『パシリ』だと公言していたので、萌花と同列の女共にも樹は嘲笑の的だった。
流石に俺も腹が立って萌花に文句を言おうと思ったが、それは樹に止められた。何故だと問い詰めようと思ったが、「平気だから」と言って樹は俺にそれ以上を言わせなかった。
気分屋の妹に対して、樹は一切文句を言わなかった。
萌花と婚約する事で得た確約もあって、椿が高校を卒業するまでは日本にいられるということになっていたけれど、その分国内での仕事を多く振り分けられた。その為、樹は新社会人という立場に甘んじる事無く、誰よりも早く職場へ向かい、誰よりも遅く帰るような生活を続けていた。
当然一人でいる時間が多くなった椿であったが、そこは俺がいたし、中学から友人になったらしい三神小百合という女の子とも過ごす時間が増えた。
椿は大人しい女の子だったために、なかなか友人をつくることが出来なかった。
内気な性格をしている椿の心配していた樹だったが、御三家の鎧塚家の一人娘の蝶子と仲良くなった事で少し安心したらしい。蝶子は口は悪いが、根は物凄く素直な子だ。
だが、その蝶子は椿よりも年下である上、生まれつき身体が丈夫ではなく、本家主催のパーティなどでも欠席することが多かった。故に、婚約者である楓から離れると椿は一人でぽつんといる事が常だった。
椿は嵐の婚約者である蓮見旭とも親交があったようだが、その当時蓮見家が没落寸前にまで失墜し、嵐との婚約が白紙撤回されるかされないかと言う時期だったために、やはり椿は一人になる事が多かった。
さすがに中学時代もこんな性格では友人が出来難いのではないかと思っていた矢先に、椿が家に友人だと言う子を連れて来ていたので、正直驚いた。
三神小百合と言う子は、中学生になりたてだと言うのに既に女の匂いがしていたからだ。
それは俺がどこかで感じたような匂いに、椿達にはわからないように内心眉を顰めた。
三神小百合と萌花は、似ている。
直感で嫌な予感を感じたが、流石に椿が初めて連れて来た友人だと言う事も考えて、それはただの気のせいだと思って記憶の奥底に押しやった。
その頃、樹はと言うと新人らしからぬ仕事ぶりに周りからのプレッシャーも自然と上がって行った。
同期から言わせると「ほとんどシゴキに近い」と驚愕され、すぐ上の先輩達からも「新人がやる量じゃない」とまで言われていたらしい。
それは上司からの期待もあったのかもしれないが、暗に日本を離れるまでの期間が他の部員よりも長いと言う事もあったのだろう。事実、樹が三年目辺りの頃には同期にも赴任するメンバーが出始め、五年目には先輩連中は言わずもがな、同じ部署に配属になった同期は全員中近東かアフリカに赴任していった。
部署にいるのは、赴任先から戻って来た社員やこれから赴任していくと言ったものばかりで、そんな中一人だけどこにも飛ばされない樹が不審がられるのも当たり前の事だった。
樹は言わなかったけれど、部内の風当たりも段々とキツくなって行っていただろう。それでも何も言わずに、ただ黙々と自分の仕事をこなして行く樹は本当にかっこよかった。
そんな樹を俺は同じ社内で見ていた。
と言っても、俺は完全下っ端中の下っ端で。しかも日陰部署に所属していたせいで、余計に樹の事を眩しく思えたのかもしれない。
俺が橘の本社へ入社したのはマグレだ。
成績も見た目も普通、いいと言えば味噌っかすでも柏木家出身だと言うことぐらいで。それもプラスになったのかは微妙なところだ。
そんなところがあったからか、俺は資料管理課という日陰部署に配属になった。
樹の開発部とは全く違う日陰部署で、周りからは窓際・リストラ対象課とまで言われる完璧ダメな奴が行く最下層だ。
社屋の中でも地下にあるそこはホコリっぽく、暗い。たまに人が来るとしても、設置されているパソコンでささっと資料を見つけて去って行くか、もしくは逢引現場として使われた。
中にいた俺はそう言う社員を傍目にしながら、地味に仕事をこなしていた。勿論、上の社員とは比べ物にならないくらいの薄給で。
と言うのは表向きで。
実は誰も来ない資料管理には裏で関わっているメンツが揃っている。
さながら、橘家お抱えの『汚れ仕事専門チーム』と言ったところか。
俺は学生の頃から遊び半分でやっていたハッキングの腕が買われて、そこに配属された。
表立って立ち回る事が出来ない分、余計に裏での仕事に力が入る。
そして、地上の社員達が到底知り得ない裏の事情を知る事で、樹が現在置かれている状況を詳しく知る事が出来た。
樹は椿が大学を卒業する来年、中東の一番過酷な現場へと五年間の赴任が決定していたのだ。