第3話
敷島樹は俺の先輩にあたる。
年が近いと言っても俺との年齢差は三歳。柏木の血の繋がった家族に捨て置かれていた俺にとっては、血の繋がりがある実の兄よりも兄らしく感じていたのは事実。また、樹もまた椿が生まれる前だったこともあって、ほとんど弟のように接してくれた。そして、後から妹の椿が産まれてからも、俺を妹と分け隔てる事無く、本当の弟のように可愛がってくれた。
敷島夫妻もまた穏健派の呼び声通りに、幼いころから頻繁に家へ上がりこんでいる俺を厄介物扱いもせずに招いてくれ、本当の家族ではないのにも関わらず、俺を一人の家族として見てくれていたのだろう。
俺の事を無視せず、ちゃんと話を聞いてくれて、その都度反応してくれる。
そんな些細な事がどれだけ嬉しかったことか。
俺は敷島家の人達には感謝してもしきれない。
家族との折り合いが悪かった青少年時代の俺が、結果的に悪い方向に進むことが無かったのはひとえに敷島家の人達のお陰だと断言出来る。
とは言え、いくら優しい夫妻だと言えど、こうも頻繁に俺が実家に寄り付かない事へ対しては思うことがあったようで、樹経由で何度か諭されたりしたのだが、既に俺と家族との軋轢は深く修復不可能なまでに悪化していた事もあって、ほとんどが右から左状態ではあったけれど。
妹の萌花中心に回っている一家は、祖父母は完全に言いなり状態だし、両親だってそう変わらない。次兄は一応ワガママな萌花に対して多少は諌めたりしているみたいだが、俺からしたらこいつもそう両親達と変わらない程度に甘やかしている。
唯一、長兄だけは長男らしく俺の事を気遣っていたみたいだが、その頃思春期真っ只中だった俺と大学生だった兄貴との接点は既になく、ましてや実家に寄り着かなくなった俺からしてみれば三歳と言う差はあったとしても、実の兄以上に一緒にいる樹の方が本物の兄貴のように感じてるようになっていたのは当然の事だと思う。
そして、樹の妹、椿が生まれた時を俺はよく覚えている。
あの日は快晴で、朝はとても寒かった。
その寒空の元、椿は病院で元気に産声を上げた。
確か3000グラムちょっとの本当に小さな女の子は、樹にとって、そして俺にとってもとても嬉しい事だったのだ。
樹は敷島の両親に愛されて育っていたが、それが甘え全般の教育だったのかと言えばそうではない。むしろ厳しく躾られていたと言っても過言ではない。
幼い時から父親から剣道を習わされ、母親からは習字とソロバンのお稽古事を習わされていた。
そのお陰なのかはわからないが、樹は幼くして老成していたとでも言えば良いのだろうか。とにかく、うるさく騒ぐ年代の同級生達とは明らかに違って、彼等を笑ったりはしているがその輪には参加しなかった。しかし、物静かな中にも常に礼儀正しい子供で、他の子達からもそう言った態度を一目おかれていたのは確かだ。
平たく言えば、樹は同級生と比べてもかなり精神的に大人びていた子供だったのである。
それでも、嫌われるどころかむしろ頼りになるリーダー的存在で、男女問わず好かれていた部類にいたと思う。
そんな樹が十歳の頃、椿が生まれた。
生まれたばかりの小さな身体を抱き上げる樹は、既に同級生に比べても誰よりも早く身長が延びていたのもあって、小さな妹相手に大いにビビリ(なおかつ剣道を習っていたから、同級生よりもかなりガタイは良かった)、そんなに樹を笑っていた俺もそう対して変わりが無かったように記憶している。
壊れ物を扱うようにして妹を抱く樹は本当に嬉しそうで、それを眺めていた夫妻の穏やかな顔は寒い日にありながら、俺の心をぽっと暖かくしてくれるものだった。
その暖かい感情の裏で、ほんの少しの嫉妬心もあった。
俺はこの家族の一員ではないし、かといって柏木家の一員とも言いがたい。
俺はどこに所属しているのか。
頼るべき家族と、護るべき家族が俺にはない。
その時、嫉妬心と同時に感じた虚無感。
椿が生まれた事。
それこそが俺の人生で徹底した家族への愛着心と、それと相反する家族への懐疑心を生む事になった切欠だったのだろう。
少なくとも、俺はそう思っている。
椿が生まれてからはたった一人の妹を大事に護っていた樹だったが、そんな樹の絶え間ぬ愛情は急展開を迎える事になる。
つまり、椿と鳥谷部楓との婚約である。
椿六歳、楓が十二歳の時に結ばれた婚約の裏に居たのは、現在は隠居している御大…当時はまだ橘のご当主であられたお人だった。
そして、その日を境にして樹は変わった。
元々敵を作りにくい性格だったのだが、椿が婚約した後から更に人間関係に気を使っていたのだと思う。
そうすることが椿を護ることになると言う事をわかっていたのかのように。
たまに。
本当に極たまに。
俺ですら樹を怖いと思う瞬間がある。
そう、俺でも気付くか気付かないかの瞬間。
樹はとても冷えた目をする。
まるで、何かを悟った者がする目のようで。
それが無性に怖い。