第25話
町田信宏から見た敷島樹という人は、一言で言えば『いい男』。
その一言に尽きると思う。
理由を挙げればキリがないが、社内でも段違いに忙しいと影で言われる開発部の中でもトップクラスの仕事量をこなし、それでいて後輩にも的確な指導をしてくれる。俺達みたいな新入社員から毛が生えた程度のやつのちょっとしたミスも見逃さず、尚且つフォローも忘れない。そしてミスをした後輩をしっかりと叱った後に、次からは気を付けろよと優しい言葉もかけてくれるから、断然後輩人気が高い。
理解ある上司からは絶大なる信頼を得て、同期の人間も一目置いている、らしい。らしい。と言うのは、この上司云々のことは俺が直属の先輩から聞いた話だからだ。
最近はあの緑川社長と縁続きになった言うことで、さらに敷島さん人気が高まったらしく、敷島さん狙いの女が増えている。現に俺も総務の子が狙ってるらしいとか、受付の子もらしいとか小耳に挟む機会も案外多い。大体こんな噂が出ている女と言うのは、自分に自信を持っているようなタイプなので敷島さん以外にもいい男がいればすっとんでいくんだろうけども。
とは言え今はまだお互いがお互いを牽制し合っている状況。だが、一旦誰かが告白なりの行動を起こせばコトは早いだろう。
こう言ってはなんだが、敷島さんは決して見目が悪いわけではない。身長こそ低くはないが高くもない、まさに平均的身長だが、背筋をピンと伸ばした立ち居振舞いが良いのであまり低く感じない。聞けば、小さい頃に剣道を習っていたかららしい。
それに、優しそうな顔つきに威圧感を感じさせない声音。30代半ばと言う年齢が経た年相応の物腰。これだけ揃えばそこそこモテないはずはないのに浮いた噂1つ無い理由は、つい最近まで5年間の中東勤務で日本にいなかったから。
それと婚約者がいたからに他ならない。
婚約者…もとい、『元婚約者』の柏木萌花は社の華、秘書課きっての美人。
美人と表現するよりも、可愛いと言った方がいいのだろう。実際彼女を遠目から見ただけでも、その可愛さは美人揃いと言われるわが社の秘書課女子よりも段違いで抜きん出ている。
顔形は勿論なのだが、笑う仕草一つ取っても可愛いし、仕事で忙しそうにしているそれすらも可愛い。何て言うか…思わず男が護ってやりたくなるような庇護欲?みたいなのを感じさせるんだそうだ。
社内では彼女の事を狙っている男が俺の周りにも先輩・同僚を含めなかなかの数で、それでも彼女にも敷島さんという『婚約者』がいたからか、誰かに靡いたとかの下世話で浮いた噂はない。
そんなつれない態度を取ってしても、アタックする男が後を絶たないという噂。
俺なんかのぺーぺーが相手に出来るような人では無いし、自分には惚れた相手がいるので柏木萌花がどうのこうのにと言うのにはあまり興味は無い。まああくまでも観賞用として観ているだけだ。
ただ、これが橘一族内の人間に言わせれば事情は変わる。
どうも柏木萌花には敷島さんではなく、他に好いた男がいるらしい。
それが…
「ま、まじかよ…」
「そうらしいですよ。俺、直系の先輩達が面白がって話してるの聞いちゃいましたもん。あー!わかってます、わかってます!!盗み聞きは駄目っすよね!でもこれだけは見逃してくださいよ!」
「いや、別に咎めはしねえけど…だけどまさか…」
「鳥谷部専務狙いだなんて…びっくりっすね。事もあろうに自分の婚約者の妹の婚約者ですよー。敷島さん、それ知ってたんですかね…」
「…それはさすがに…いいや、わかってただろうな。何せあの敷島さんだぞ」
「ですよねえ…」
「っ、ともかく。この話は他にするなよ!」
「わかってますって!ノブ先輩だから話したんですから!」
他部署にいる可愛がっていた大学の後輩からもたらされた思いがけない情報に少なからず混乱していると、背を向けていた休憩ブースのドアが開く気配がしたので振り返ると、まさに『噂をすれば影』の如く敷島さん。
サボっているわけではないが、2人でこそこそと敷島さんに関わる事を噂していただけに都合が悪い。その都合の悪さを隠すように軽く会釈して自分の存在を示すと、敷島さんは「おう」と短く答えて自販機でコーヒーを選んでいた。
後輩は敷島さんと面と向かうのは初めてだったのか、ちょっと感動しているみたいだったが、腕時計を見てはっとしている。どうやら休憩がてら俺と話をしていたのが、予想より長かったらしい。
「やっべ!じゃあ、俺行きますね」
「おお、ありがとう。仕事頑張れよ」
「わかってますって!じゃ、ノブ先輩。今度メシでも奢ってくださいね!」
学生時代のような元気の良さはいいがもう2年目に差しかかろうとしているにも関わらず、廊下を小走りで行って挙句、出会いがしらにぶつかったおっかない上司にこっぴどく叱られている後輩を見て溜め息をつくと、隣でくつくつと笑う声が聞こえた。
「元気が良くて何よりだな。知り合い?」
「はい、大学時代の後輩なんです。見ての通り元気がいいから、自然ムードメーカのような存在になってたんですよ。その分失敗して尻拭いも結構あったんですけどね」
「はは、その尻拭いをしてやったのが町田だったってわけか」
こうして敷島さんと他愛の無い話をする機会は滅多にない。
と言うのも、前述した通り敷島さんは多忙だ。今まで開発部からも近い休憩ブース(ここ)に何度も足を運んだことはあるけれど、部の人間も利用しているのにも関わらず敷島さんとだけは一緒になったことはない。
たまに席を外している時があるから休憩している時はあるのだろうが、あまりブースにいるのも見かけたことがないのに今更ながらに気付く。
コーヒーを飲みながら仕事とは関係の無い話をしている敷島さんは、いつも以上に話しやすい。
俺が敷島さんと仕事で関わりを持ったのは、本当に開発部に配属されて右も左もわからないの超ド素人の頃だった。
俺が入社して開発部に配属になった頃には敷島さんは中東に赴任していて、電話やメールでのやりとりが主だった。本人が帰国したのは、赴任してからまだたったの一回。後に、5年間の赴任中、その一回が敷島さんが唯一帰国した時になる。その際、まだ配属されていなかった俺はその貴重な一回を全く知らぬまま他の仕事をしていたので、配属後敷島さんとは一度も会った事が無かった。
俺は配属当時、現地にいる敷島さん達スタッフから要請された資材を日本から調達・現地までの運搬の手配と言う仕事のアシスタントをしていた。
アシスタントというからには指導しながらそれを教えてくれた先輩がいて、新人の俺は彼の言う通りこなしていたのだが、ある日その先輩が北海道での急な会議が入ってしまい、そしてその日に限って簡単な建設資材の手配に手こずった。
現地にいる社員からは矢の催促、最悪な事にその日に限って部署内には設計部から転属されたばかりの課長しかおらず、そしてその課長は全く知らん顔。多分手配が遅れ、工事が一時中断したとしても俺のミスで片付けて、自分には落ち度がなかったという根回しをする予定だったんだろうと今では思う。ただまあ、その頃の俺はなんとか資材を手配しようと、必死になっていた。
その時、現場から一本の電話が入った。出るのがこれほどいやだった電話は、後にも先にも存在しない。だが、出無いわけにもいかず意を決し受話器を取った。
「はい、町田です!」
『もしもし、敷島です。手配が遅れてるってどう言う事なのか説明してくれる?』
「し、敷島さん!申し訳ありません!」
『謝るのは後でいい。とりあえずどこまで手配が出来てるのか、詳しい状況が知りたい。資材そのものの手配が済んでないのか?』
「いえ、資材は手配済みです!ただ…」
『問題点があるならはっきりと言え。資材は手配済みなんだろう、だったら問題は運搬方法か?』
「は、はい。通常ですと通行可能な道が、先週NATO軍に閉鎖されました。その為代替の行路を探しているんですが、まだ安全なルートが探せないんです」
『…そう言えば隣国の首都への道を国連軍が閉鎖したって皆が話してたな。なるほど……なかなか厳しい状況だな』
「…すみません、俺が使えないせいで…」
『道が閉鎖されたものはしょうがないだろう。誰のせいでもない。元々あのルートが一番安全だから使ってただけだしな。……町田、1時間後に掛け直す。その間に、現場に通じてる道を大小全部洗い出せ。出来るな?こっちでも通行可能な道を探す』
「は、はい、わかりました!!」
電話が切られてからすぐに現場近辺の地図を広げ、道を探す。俺が探している間に戻って来た先輩達も、俺から事情を聞いて一緒に探してもらった。さすがに新人だけに任せられるものではないと思ったのだろう、慰めるように肩を叩かれ、「新人なのに災難だな」と苦笑をもらってしまった。
先輩たちにも手伝ってもらい、なんとかルートを探し出すと、1時間かっきりで再び電話が鳴った。先輩に見守られながら受話器を取ると、敷島さんが「どうだ」と成果を聞いてきた。
「現場に通じているルートは全部で4つ。Aは山岳沿いで、急勾配な上に現場からは最も距離があります。BとCは距離的には同じなんですが、道幅が狭く、大型の資材運搬には向かないかと。今回のような比較的小さめのものを運ぶには問題ないです。今回はBかCのルートで大至急手配します!」
『ちょっと待て、最初に言ったのは4つだろう。残りのDルートは?』
「あの…ここは…」
「敷島、ここは駄目だ。一応ルートとして見つけはしたが、この道はルートとして考えないほうがいい」
『と言うと?』
「反政府軍の拠点に近いゲートを通らないといけないと箇所があるんだ。資材を積んだトラックで通ったりしたら、政府軍とのドンパチに巻き込まれる可能性が否定出来ない」
『もしかしなくともダーバイ地区を抜けるルートか』
「そうです。道幅、距離、手配云々を踏まえればDルートが一番いいんです。ですが、このルートが最も危険ですから…」
『だけど、そこが一番手っ取り早いと……なるほど。少し考えてみる価値はあるだろうな』
ざわっと部署内がざわめいた。
当然だ、取るべきでは無い選択肢を考えようとしているのだから。
それには流石に高みの見物を決め込んでいた課長も動いた。いけしゃあしゃあと自分の名前を告げると、偉そうに命令し始める。
「おい、ちょっと待て。一考の余地がある?そんなものあるわけないに決まってるだろう。お前は黙ってこっちの言う事聞いてりゃいいんだ」
『ですが、これからも国連軍に今までのルートを閉鎖され続けるようだったら、いずれはどちらかを選択しなくてはいけない場合が来ます。今回はたまたま小規模のものでしたからB、Cルートでも大丈夫ですが、これからまだまだ大型の資材が運搬されるんです。長距離で急勾配の山岳地帯を抜けるか、一部に問題がある道を抜けるか。どちらか考えないといけないでしょう』
「考えるまでもない。スタッフの安全が第一なのは基本だ。それ以外は存在しない」
『ですが課長、』
「しつこいぞ、俺の言う事が聞けないのか?そうだな、もしそのルートを通るんだったら。敷島、お前が自分でトラックでもなんでも運転して資材運搬しろ。だったらその武装地域の通行許可してもいいぞ」
「なっ!課長!!」
『…わかりました。町田、Aルートの詳しい状況を教えてくれ。それと、至急にB、Cルートを通して今の手配も完了させろ。あと、皆もありがとう』
渋々、と言った感じだった敷島さんだったが、危険なルートを諦めたようなのでホッとする。まさか本当に危険地帯を抜けるような事はさせられないし、課長の言う通り、敷島さんが自ら運搬するような事に鳴らなくて済むから。
それから各ルートを敷島さん達がいる現場へと送り、資材の手配も済ますと、ようやく一仕事を終えた俺は一人で休憩ブースへと向かった。時間も時間なだけに誰もいないブースで、自販機からコーヒーを買い、一口飲んで一気に脱力。
「つかれたー…開発ってマジでこんなキツイのかあ…」
と、一人ごちながらずずっとコーヒーを啜っていると、課長が誰かと話している声が聞こえ、聞くつもりは無かったのだがそのまま耳を澄ました。
「馬鹿だと思うだろう、敷島。考えればわかるじゃないか、普通誰だって安全な道を選ぶに決まってるのにさぁ…はははっ、ランボー!面白い表現するね。だから言ってやったんだ、だったらお前が運べって。案の定引き下がったけどね。と言うよりも、そのまま死んでくれた方が君にとって幸せなんじゃないかな」
耳を覆いたくなるような、ゲスな会話がこれまたゲスな忍び笑い声とともに繰り広げられていた。
課長1人で話しているのかと思ったら、どうやら携帯で誰かと話しているらしい。
このゲス課長。
設計にいたとは言え、こんな大型開発には一切携わってこなかったって聞いている。聞いた話だと、住宅設計関係だっけ?にも関わらず筋違いの開発部に来たのは、奥さんが大手ゼネコンの専務かなんかの娘で、そこから人事に無理を言って昇進ということになったらしい。
だから、こいつは課長というポストだけで中身は本当にカラッポ。仕事は出来ないくせに見栄っ張りで、虚栄心と塊ときた。部下の企画は横から掻っ攫うし、それを今度はこっちに丸投げしてくる。役員連中や上司が顔を出した時だけ、やってますよ的なアピールをかまし、いなくなった途端部下に罵詈雑言。もしもミスったりしたら、執拗に詰り続け最終的に部長にチクる。
テメーはみみっちい女か!と頭に来る事は多々あるが、それでも皆我慢して仕事をしている現実。
マジでこれがパワハラじゃなくて何なんだと言いたい。だから開発部の全員から嫌われているのが周知の事実。
知らぬは本人ばかりだ。
ふいに、コンコンとブースがノックされる音で昔の記憶から引き戻される。
外から遠慮がちにノックしていたのは、俺が惚れている女の子。
「どしたの、莉那ちゃん」
「もー、先輩ったら会議の時間忘れてません?あと1時間で会議なのに、さっき開発部の部屋に行ったら先に並べる資料全然出来て無いんですよ。出来てるんですよね?」
「あー!出来てる出来てる!悪い、悪い!そっちに上げるの忘れてた!」
「もう、しっかりしてくださいよね!!」
「はいはい、わかったわかった」
「返事は一回でいいんです!」
そう言えばこれから会議があるのを忘れてた。彼女が今回サポートとして付いてくれているのだから、かっこわるいところは見せたく無いのに、すっかり頭から抜け落ちていたらしい。
俺達がそういった会話をしていると、またブースが叩かれた。
「敷島くん、ちょっと私のオフィスに上がって来てくれる?」
「わかりました。町田、ボードに16階にいるって書いておいてくれ」
「はい、16階部長室ですね」
「じゃあ頼んだ」
ブースを出て行った敷島さんと、16階の主…もとい、海外事業部部長の醍醐の後姿を見送りながら、莉那ちゃんが溜め息をついた。
「醍醐部長、何時見ても素敵~…」
「失礼だけどさ、醍醐部長っていくつだっけ」
「あ、先輩。女性の年聞くのって野暮ですよ、野暮。って言っても、醍醐部長若いですからね。確か40代後半ですよ。でも全然見えませんよね!」
「美魔女かー…こえぇぇ」
それって失礼ですよ、と眉を顰めて言う莉那ちゃんの声を無視して考える。
うちの会社きってのやり手、海外事業部部長の醍醐あやめ。
10数年前に女性社員で初めて営業一課の部長に登用されたエリート。話を聞けば、入社数年は総務の仕事を淡々とこなしていたらしいが、ある上司が彼女の仕事の正確さに目を付け一課に引きぬいたらしい。そこからその上司の容赦無いシゴキにも似た教育の成果か、一課配属から7年で男性社員を抜いて成績トップに立ったわけだ。そこから8年間不動のトップを護り続けた醍醐あやめは、その間主任、課長、次長、部長補佐と役職をランクアップさせながら、一課配属から15年目の年、遂に営業一課の部長になった。
今までにも女性管理職は存在していたのだが、やはり男が活躍する営業職で女性が部長になったということで結構雑誌などで騒がれたらしい。
スタイル抜群、知的美人を地で行くスーパーウーマン。
おまけに。営業一課でバリバリ働いている最中に結婚した旦那は世界的に有名な心臓外科医。しかも、結構な男前。子供はいないらしいが、溜め息が出るほどの美男美女カップルときたもんだ。
こんな画に描いたような完璧カップルにありがちな仮面夫婦のフラグは立たず、記念日にはしっかりとオフィスにバラの贈り物が届くらしい。
…すごい。
醍醐部長のパーフェクトな公私に溜め息しか出なくなったころ、莉那ちゃんが俺の袖を引っ張った。
ああ、マズイ、仕事から逃避してた。2人で休憩室を出て開発部へと歩いていると、やっぱり莉那ちゃんも醍醐部長の話題を引っ張った。
「醍醐部長、敷島さん買ってるらしいですからね。本当に海外事業部に引っ張られたらどうします?」
「敷島さんにとってはいい事だろうけど、俺ら開発にとってはイタイなぁ…」
「引っ張られるだけだといいですけどね…他社に引きぬきとかも…」
「うわ、それ言いっこ無しでしょう」
思わず身震いをする俺を見て笑った莉那ちゃんの顔を見て、ああ、やっぱりこの子の笑った顔が好きだなあと思った。