第19話
それはあまりにも突然のことだった。
「椿っ、お前本当に婚約破棄したのか!?」
突然家に現われた俺に対し驚いたようだった椿は、少し困ったように微笑んだ。
樹が帰って来ると喜んだものの、樹は仕事の関係上すぐには帰ってこれず、ヨーロッパにある各支社でいくらかの雑務をこなしている。その仕事のメドが立ったら日本に帰って来れるらしく、すぐに帰国というわけではないことに少々気落ちした。
とは言え、以前いた地域より通信状況が格段に上がった事で、ネット経由での通話もなんら苦ではなくなった。月に一度か、たまに二度程度の連絡だった以前から比べたら近況報告もしやすくなった俺は、何気なく椿の事を口に出したのだ。
妹の事を誰よりも気にかけている樹のこと。些細な事でも近況報告をしてやると喜ぶだろう。そんな単純な気持ちで。
なのに、樹から椿に関して語られたのは、まさに爆弾発言だった。
「樹から聞いた。お前、自分から婚約破棄を願い出た上に、会社に辞表も出したんだって?」
「相変わらず話が早いね。まあ、兄さんと秋くんの仲だったら当然か」
「はぐらかすなよ。本当なのか!?」
「…本当だよ。私から兄さんに婚約を破棄して欲しいって言ったの。その時に会社も辞めるって言ったんだ」
ふわりと悲しそうに笑った椿の顔は見ていない。
いつもなら気が付く些細な表情の変化に気がつけないほど、俺は動揺していたんだと思う。
あれほど鳥谷部楓と言う男の存在を否定し、そればかりか忌避していたはずなのに、いざ椿が彼を切り離したことに対して頭が付いてこなかったと言ってもいい。
『椿が婚約破棄を願い出た。椿本人のたっての希望だからな、俺が本家にと鳥谷部家に連絡を入れたよ。つつがなく受理された』
樹から婚約破棄の知らせを聞いた時、一瞬何を言っているのかわからなかった。次いで出たのは俺自身でも信じられないが、笑い、だった。
「ははっ、なんだよ、冗談だろ?樹よお、急に何言いだすのかと思えばそんな下らない事かよ。いやー、一瞬マジで本気にしかけたー」
『………』
「だいたいさ、今更婚約破棄とかありえないだろ?いくら鳥谷部楓が遊んでるって言ったって、今までずっと椿は我慢してきただろ?それが今更?」
『………そうだ。今更だな』
「だろー!?なんだよ、樹。冗談にしては性質悪すぎだぜ!」
『ああ、悪かったな』
その時気付けばよかったんだ。
樹が底冷えのするほど感情のこもっていない声だったことを。
樹の言っていた事が本当だったと知ったのは、海斗さんから聞いたからで。
海斗さんは子会社の社長に就任してから、滅多に本社に顔を出さなくなっている。心配された子会社の業績はと言うと、就任してから一年、二年目まではギリギリ赤字だったのが、徐々に業績は上向いているようで、最近では新興国向けの産業開発で目覚しいものを見せている。そこまで持って行ったのは、ひとえに海斗さんの手腕が大きいのだろう。
その日はたまたま仕事の都合で本社に来ていたらしく、俺を個別で呼び出すと誰もいない屋上に真っ直ぐ連れて行かれた。
海斗さん自身は俺が知らなかった事を意外だったと言わんばかりに、吸っていたタバコを口から離して驚いていた。
いや、知っている。知っているのに、それを本気と取らなかっただけだ。
「なんだお前、知らなかったのか?」
「……ほ、本当なんですか…婚約破棄したって……」
「ん?ああ、マジマジ。二、三日前だったか。今ドイツの支社にいる樹から本家へ電話があったらしいぜ。椿が婚約破棄を願い出てるってな」
「………」
「楓のヤツ、普通に見えるけど内心じゃ腸煮えくり返ってるみたいだぜ。何せ自分から婚約破棄を御大に願い出た時は一蹴されたくせに、椿が言い出したらあっさり許可が下りたからな。そりゃあ面白くもねえだろうさ。それに、どっから聞きつけたもんやら、もう見合いの話があるらしいぞ。モテモテの楓ちゃんは困っちゃいますねー」
くつくつと笑う海斗さんを見ていた俺も、流石にその言葉には少し笑った。
ふざけんなよ、ゲス野郎が。
群がる女どもも女どもだ。クソ野郎に群がる女豹を想像して、また笑った。
「橘の当主も、ずっと我慢してた椿からの婚約破棄の申し出だったから何にも言えねえだろ。一昨日、昨日と本家に呼び出されていろいろと話込んでたみたいだけど、まあ流石に話の内容までは知らねえな。たまたま妹が本家で茶会に招かれて奥方と少し話したらしくてな。そん時少しはこれからの椿の事も聞いたみてーだけど。辞めるんだと、会社」
「なっ!?それ本当ですか!?」
「…マジでお前…何も知らないのか?」
海斗さんが吐き出される紫煙を睨むように見ていた俺は、先日樹から聞いた話を思い出していた。
確かに樹は椿が婚約破棄を申し出たと言っていた。だが、まさか椿が仕事を辞めるとまでは聞いていない。
多分、樹は知っていたのだろう。椿にしてみれば兄の樹に当然相談するもんだろうし、確かに樹は俺に『婚約破棄』と言う純然たる事実を告げていた。
にも関わらず、冗談だと笑って足蹴にしたのは俺自身。
あの時の樹の声を思い出す。
何時の時も怖いと思っていたはずの、あの底冷えのする声。
何も感情がこもっていない樹の目。
俺に向けられた、あの声の意味は。
ガンガンと頭痛がしてくる中、何も言えずにいる俺を見ていた海斗さんが吸っていたタバコの灰を携帯していた灰皿に落とした。
「秋…お前さあ…………前から思ってたけど、樹と椿に執着しすぎじゃね?」
「は……?」
「柏木家で大事にされてなかったお前が、敷島の四人に抱いてる感情は間違いじゃねえと思う。だけど、本質を見間違うな。お前は、樹の実弟ではないし、椿の実兄でもねえんだぞ」
「………どういう意味ですか…」
「お前は『柏木秋』だ。『敷島秋』じゃない」
目の前の彼が何を言っているのかわからない。
そんなのわかりきったことだ。
当然じゃないか。
樹は俺の兄じゃないし、椿は俺の妹でもない。
俺の血の繋がった兄は、結婚話で女を舞い上がらせるペテン師と、被虐趣味の強姦魔。
妹は他人の男を欲しがる娼婦。
そう、俺の兄妹は立派に妹を守り育てたり、兄を心配させないために無理して笑うような人間では
――――ない――――
「私ね、これからゆっくりしようかなって思ってるの。最近温泉とか、海とか行ってなかったから。それに、兄さんも戻って来てくれるし!せっかくだから家族水入らずって言うのを久しぶりにしてみたいのよね」
「だからって、何で婚約破棄なんだ?椿、お前ずっと我慢してただろ?なのに、何で…」
「私ね、ようやく気付いたの。相手にされてないのに、ずっと縋り続けるのって空しいだけだって。だったら自分から手を離さなきゃ。もっと早く離してたら、こんなに長い間皆を巻き込んで苦しませなかったのに…本当に私は馬鹿なの…」
「椿……」
「それに…私が楓さまと婚約破棄したら、兄さんも解放されるでしょう…?」
その言葉にびくりと震えたのは、兄と言う言葉に対してなのか。
それとも、解放と言う言葉に対してか。
多分そうなんだろう。
『樹の本質をしっかりと見ろ。あいつは決して優しい人間なんかじゃない。惑わされるな』
脳裏に海斗さんの言葉が浮かんだ。
そして第1話の冒頭に繋がるわけです。