第17話
最近、椿が痩せた。
それにどこか具合が悪そうに見える。
元々ぽっちゃり体型だったのもあるけれど、それでも痩せすぎのガリガリ女などから比べたらよほど健康的だった椿は、見た目を気にしてダイエットなどをしていたようだったけどほとんど成功したためしはなかった。と言うか、俺が途中で止めさせたりしていたのだが。
何せ『食わないダイエット論』と言うものを実践していたせいか、少しだけ貧血体質の椿に必要量のカロリーを摂取しないというのは自らの身体を痛めつける行為にしかならない。それで痩せたとしても、身体を壊しては身も蓋もないと思っていたからだ。最初こそ椿は俺が反対することに反発していたけれど、自分でも体調面の管理がしずらいと判断したのだろう、大学在学中には栄養面でしっかりとした物を食べるようになっていたはずだった。
大学卒業後、椿は橘の会社に入社し、そのまま総務部に配属された。
一部口さがない者達は椿もコネ入社だと揶揄していたが、事実はそうではない。椿は実力で内定を貰っていたのだが、自身の控えめな性格からそれを出さずにしていた為に、そう言った下らないやっかみの声が上がっていたのである。
もちろん慣れない仕事をやる以上、上司や先輩などからのプレッシャーもあるだろう。それでも椿は地道に仕事をこなしていた。そういう仕事をして行くうちに、徐々にだが椿の評価が上向いたものになっていったことにほっとしていた俺は、勿論樹にメールで逐一報告していた。
樹も椿が入社してからの境遇を気にしていたので、椿はよくやってるよと報告をすると、非常に嬉しそうな声が聞けたことに俺も嬉しくなる。勿論、樹も椿に話を聞いているだろうが、第三者の意見を聞く事で見えてくるものがあるのだろう。
こんなところにも、あいつの…樹の兄としての妹への思いを垣間見る事になった。
一方、中には既に専務に昇進していた楓との関係を面白く思っていない者もいるもので。
関係と言っても既に名ばかりの婚約関係なのだが、それでも他者から見れば二歩も三歩も進んでいるように見えるのだろう。更衣室などの見えないところで、チクチクと嫌味を言われていたようだ。
女の園と言われる秘書課に所属する社員もそれは例外では無く、当然先頭切って椿に嫌味を吹っかけるのは萌花だった。
一応義妹となるであろう椿に面と向かって、「さっさと楓さまとの婚約を解消しなさいよ」と言っていたのを見た事で、俺はすぐさまその場に割って入って椿を背中に庇った。お世辞にも広いとは言えない給湯室で、萌花を含め三、四人に囲まれていたようで、ほとんど泣きそうになっている椿に助けを入れたのはいいが、狭い。
狭さに辟易をしていると、思い切り萌花とその取り巻きに「バカじゃないの」と嘲笑された挙句、「さすがは麗しき敷島家のご兄弟ね。あ、一人違ったわ」と捨て台詞まで吐かれた。
俺としては、柏木なんて血ではなく、よほど敷島家に生まれたかったか。
あんな人として最低な一族に生まれた事が間違いだと、何度思った事だろう。
萌花を含め、家族全員が…いや、親戚縁者中を敵に回しても、俺は敷島家に味方してやる。
ちょうど樹も日本に帰って来る。
そろそろあの家族に引導を渡してもいいころだ。
「秋くん?大丈夫?」
心配そうな椿の声ではっと我に戻って彼女を見ると、声と同じく心配そうな顔で俺を見ていた。椿を背に庇ったために背中を向けていた分、他者に見せない黒い面を出していた俺の顔を見られていないことにほっとすると共に、急いで表情を取り繕って笑顔を見せる。
黒い表情を見せるのは俺が裏の仕事をしている時だけと自分の中で決めていることもあって、裏の顔は表に出したことはない。公私混合はしないと決めていたはずが、思わず出ていたらしい。気を引き締めて表の穏やかな顔を表情筋に貼り付けると、いつも椿が見ているであろう笑顔を作った。
「あ、いや。なんでもないよ。椿、萌花が言ってることなんか気にするなよ。お前は婚約者なんだから、どっしり構えてればいいんだからな」
「……そうだね…」
泣きそうな顔で笑う椿を見て、心が苦しくなる。
なあ、鳥谷部。
お前がこんな顔させてる自覚はあるか?
お前は見た事ないだろう?
「そう言えば、兄さんが帰って来るらしいの。聞いた?」
「え?あ、ああ、聞いた。ようやくメドが付いたらしいな!樹が帰って来るなんて何年ぶりだ?」
「前に帰って来たのがお父さん達の命日だったから…かれこれ三年?四年?」
「そうか、そんなに経つか…なんかつい最近のような感じがするな」
「秋くん、その言い方なんかおじさんくさいよ」
「おじ……一応樹より年下なんだけど…」
ふふふと楽しそうに笑った椿の顔に先程の憂いがなくなったことに安堵する。そのまま他愛のない話をしていていると、ふと椿がしている腕時計が目に付いた。その腕時計は樹から大学の入学祝いに贈られたもので、大分前から椿が愛用しているものだ。
多少値が張ったであろう、ブランドの腕時計。当時樹が中東への赴任を目の前に控えてバタバタしていた頃、長く使えるようにと贈ったものだったが、椿は「こんな高そうなものはいらないよー…」と固辞したものだった。買ってしまった手前、返品するのももったいないと言う事で結局は椿が受け取ったのだが、その顔は恐縮しまくっていたのを思い出す。
萌花の強奪まがいの略奪行為にも耐えた、と言うか、途方に暮れている椿に目もくれずに敷島家に置いてある財産に手を付けていたので、気が付かなかったと言うのが正しいだろう。多分気付いていたら、手首から外してでもあいつは持っていったはずだ。
そんな想い出のある腕時計のバンドの部分。
今まで付けていた穴よりも二つばかり前に留まっている事に気付いた。バンドが皮で出来ているため、今まで付けていたところがよくわかるようになっている。それから比べれば大分前で留めている手首は細い。
ようよう椿を見てみると、いつも見ていたからか「痩せたなぁ」と、漠然にしか思わなかったのが、この痩せ方と顔色の悪さに少しだけ背筋が寒くなる。
「椿、お前無茶なダイエットとかしてないよな?」
「ううん、してないよ?でもね、最近やたら疲れやすいって言うか…なんかお休みの日に一日ゆっくりしても疲れが取れないんだよね。働きすぎかなぁ」
「最近俺もそっちの家に行けてないもんな…」
「お互い忙しいからしょうがないよ。私のところも忙しい時期だし、秋くんのところも」
「資料部に忙しいなんて言葉は存在しませんー」
「あ、ごめん…」
「別に気にして無いから。地下社員なのは俺がよーくわかってるしさ」
俺が気にしてませんよと朗らかに笑ってみせると、椿は苦笑していた。
総務部は年の瀬が近くなった為に忙しい時期だし、俺も会社とは別の件で動いている。その為、なかなか椿と顔をつき合わせて話すことが出来なかったこともあり、椿の体調面の不調を見逃してしまったのかもしれない。
秋口から冬に入った今の時期、ちょうど季節の変わり目だったという事もあり、身体を壊す者が社内にもいなかったわけではない。風邪は引き始めが肝心。早い所病院に行っておけよと椿に念を押して、俺はそのまま仕事へと戻った。
結局椿が病院を受診したのは、年が明けてから。その間もずっと体調が悪そうなのを我慢していたらしいが、ついに我慢がならなくなって病院に行ったらしい。
この時、俺は想像だにしなかった。
椿が一年しか生きられないという、残酷な余命宣告を受けたなんて。
そして、その帰り道に目撃した光景。
それによって今まで頑なに拒んでいた鳥谷部楓との婚約解消を決意したことも。