第15話
少しだけですが性的な描写が出てきます。ご注意。
樹が再び日本を離れた。
今度帰って来る時は今回以上に帰って来るまでの期間が長いだろうと椿に話していた通り、樹はそれから日本に帰国出来るまでの三年間、一度も帰って来ることはなかった。だが帰って来れなかった間も、椿への連絡は欠かさなかったらしいし、彼等の両親の命日になるとちゃんとメッセージカードと一緒に花が贈られてきたりもした。勿論、その花を贈るように言われていた店は例の花屋だったりするのだが、当時まさかそんな未来のコトを予想出来るはずもなく。
椿が樹が贈ってくれた花を持って亡き両親の墓前に供える。そんなことを毎年している内に、椿が無事大学を卒業し、うちの会社に新入社員として入社した。配属は女子社員という事もあって総務部。ここの部長は手癖が悪いので有名だが、まさか自分の会社の専務の婚約者である椿には手を出さないだろう。名ばかり婚約者だとは言え、流石にこう言ったことには効力を発するようだし。まあ、一応気を付けておくに越したことはないので、注意だけはしておくことにした。
樹が中東に赴任してから四年目に入り、今年もまた樹がいない季節を迎えようと言う頃に海斗さんが子会社の社長に就任した。
会社では既に本家の当主である嵐を筆頭に、専務に鳥谷部楓、常務に鎧塚の現当主が座っていたが、海斗さんは上に行くことを拒否していた。
それだったらと日本国内の支社長のポストを提示されたのだが、それすらも一刀両断で断ったらしい。まだ若いながらもすでに海斗さんよりも若い鳥谷部が専務の椅子に座っている以上、御三家最後の一家の時期当主である彼を一社員にしておくには勿体無さ過ぎる。優秀な人材であるのは確実な海斗さんの処置に困った重役達であったが、ここで海斗さんらしい一言が出る。
「うちの子会社の中で経営が思わしくないところの社長にしてください。十年…いや、五年で立ち直らせてみせますよ」
その言葉通り、海斗さんはあっさりとそれまでのキャリアを捨て、長年赤字経営が続いていた子会社の新社長に就任したのであったが、当然それを面白半分で見ている人間もいるもので。
「ねえ、聞いた?御崎家のー…」
「ああ、御崎か…聞いた聞いた。長い間赤字だった子会社の社長になるなんて、相当酔狂な人間じゃないと無理だな」
「元々何を考えてるのとかわかんない人だったけど、まあ、もえには関係無いしー」
誰も来ない地下の資料室で裏の仕事をしていると、コソコソと話している声がドアの向こうから聞こえた。
この資料室付近はめったに人は通らない。今時手書きの資料なんぞ正直俺には資源ゴミにしか見えないのだが、それでもこの資料室を訪れる人間がいないわけではない。とは言え、そのほとんどが密会、もしくは仕事の合間の息抜きがてらの逢引に使われているのは暗黙の了解なのだが、本当に資料を探しに来る人間も存在する。その時はとりあえず探しだすのに手を貸したりするのだが、一般的には閑職なこの部に所属している俺は、明らかに新人らしい奴からも冷ややかな対応を取られたりする。
就職したての頃こそ憤っていたが、今では別になんとも思わない。そんなことにエネルギーを消費するだけ無駄で、今は社内で行なわれている不正の所在を確かめる為にいろいろと忙しい。
部屋には俺意外誰も居ず、一緒に仕事をしているはずの同僚…というか上司も今日は御大からの呼び出しがかかっており、今現在この資料室にいるのは俺一人。元々裏に関わる仕事なので人員は最小限。本社・支社合わせても三十人未満な俺達の仕事は、当然一人一人の量が尋常ではない。それぞれが特化した能力を持った人間の集まりだから成り立っているようなもので、上の連中だったら一週間と持たないだろう。
裏側に関わるからには口が固いのも要求されるし、個々の情報に対する危機管理は並大抵ではない。勿論個人が関わっている仕事を同じ同僚と言えど口にしないし、ごく稀に同じ部署の人間と組むときがあっても、その仕事が終わるまでは一種の仲間意識が芽生えるが、終わったら途端に解消と言うことはザラ。
その為、同僚と飲みに行こうぜなんて会話は絶対に成立しない。
会話をするとしても、差し触りのない程度のもの。
たまに社内の人間のコトを話すとしても、結局上の連中が話して居るような噂話程度のものでしかない。
そんな静かな部屋に響く甲高いあの声の持ち主。最早顔を見なずとも誰かわかるのだが、一緒に居る人間が誰だかわからなかった。
「ねえ、今日奥さんいるの?」
「いや、あれは子供達を連れて実家に帰ってるよ。明日から一週間、あっちの母親と一緒に韓国に行くって言ってたからしばらくは帰って来ない」
「ほんと~?じゃあ、もえ、部屋に行ってもいい?」
「ああ、いいよ」
「きゃー、内田課長だいすき~!!」
「こら、もえ。もう少し声押えないと…」
「声押えて何する気~?まーくんったらえっちな目してる~」
「ここに来てすることと言えば、一つだろう?……なんだかんだ言っても、もえも期待してるくせに。ほら、もうこんな…」
「あっ、やん…っ」
別に萌花の嬌態なんぞ細胞レベルで興味無いが、その相手と言うのは問題だ。
どこか空々しい萌花の喘ぎ声を聞きながら、相手の情報を社員名簿にアクセスして検索する。ちなみに俺達に社員名簿から子会社までの関係者リストに常時アクセスできる権限を持っている。一応アクセス記録こそ残るものの、俺達のような人間にしかわからないような暗号になっているために表にでることはない。
すぐさま『内田』『課長』と言うワードに引っかかった人間が検索結果で表示される。その中から未婚の人間と本社以外の人間を外すと、一人の男が浮かび上がった。
『内田正志 開発部課長 既婚』
開発部と言えば樹が所属している部で、しかもその課長と言えば樹が中東に赴任してから本社に戻って来て課長職に就いたやつ。たまに開発部の奴等が話している愚痴のようなものを聞きかじる限り、あまり有能な人間だとは言えないようだ。
元々開発事業に携わっていたわけではなく、資料を見る限り設計部からの異動で開発部の課長に納まったらしい。100%素人と言うわけではないが、それでも部内の人間からすれば素人に変わりはない。ほとんどがアジアやアフリカ、樹と同じく中東に赴任した経験のある開発事業の猛者揃いの中に一人だけ初心者が紛れ込んでいる環境は確かに厳しいだろう。
ふむ…とパソコンの中を覗いていると、妻の欄に備考が書かれてあるのに気付いた。
『妻は大手ゼネコン会社の社長令嬢』
なるほど、これでか。と納得する。
にしても、女の趣味が悪いな、内田。
ぎしぎしと資料室に置かれたテーブルが軋む音が響く中、俺はひっそり歪んだ笑みを浮かべた。