第12話
祖父が死んだとは言え、元々家族と疎遠だった俺がそのまま実家に留まるはずもなく、さっさと実家から立ち去っていた。葬儀の間ですら家族と一緒にいた時間は二時間もないのではないだろうか。
かと言って、それを咎める者などいないのだが。
義務だからと、嫌々出席した初七日と四十九日。
それが終わったら絶対に忌避すべきイベントが俺を待っている。まあ、忌避しているのは俺だけで、他の親兄妹達にとっては待ちかねたイベントだと言っても過言ではない。
だが、心配する事自体が間違いだった。
祖父の遺言公開の場には俺は必要なかった。と言うよりも、元々祖父の『家族』と言う勘定の中に俺と言う人間は入っていなかったんだろう。
弁護士が読みあげた祖父の遺言内容には、当然伴侶である祖母や息子夫妻、そして孫達に振り分ける財産などが事細かく並んでいたが、俺の名前は最後まで呼ばれることはなかった。
まあ、こんな事だろうと思ったがな。
悲喜交々(ひきこもごも)と言った言葉が相応しいほどのカオスが充満した部屋を、冷めた目でぐるりと見渡した。
自分が考えていたよりも取り分が少なかった祖母、物足りないのか憮然とした表情をした両親、欲しかった土地が算段通りに手に入って喜んでいる次兄。それとは対象的に欲しかった物が手に入らなかったのか、悔しそうな長兄。
そして、萌花はと言えば…
「もえ、土地とかいらないんだけどー」
と言いながらも嬉しそうな表情を崩さない。
萌花なんかに土地を遺した祖父の考えの無さに嘆息するとともに、それだけ孫娘を可愛がっていたんだろうと言う漠然とした考えが浮かんだ。勿論、萌花に遺したのは土地だけでない。相当額の現金と貴金属類も萌花へ遺された。
俺はそれを見届け、部屋を後にした。
それからしばらくした休日のある日、俺は椿の家へ来ていた。
目的は特に無いのだが、ここ暫く大学に入学したばかりで忙しかった椿の顔を見ていなかったというのもあるし、何故か敷島のご両親の仏前を見たくなったのだ。
見たくなったと言うのは適切な言い方ではないかもしれないが、俺は仏前に飾られている敷島夫妻の写真が好きだった。穏やかに微笑んでいて、本当に人を和ませるような、そんな顔だったから。
樹が遺影の写真を選ぶ際、家族四人で写った写真を元にした。在りし日の敷島家が写ったそれは、まだ椿が生まれたばかりの頃で、今の様に椿が病院通いをするわけでもなく、樹が危険な地域へ赴任しているわけでもない。勿論、両親が亡くなってもいない。
幸せな家族。
そう言った言葉が正しい、そんな写真だった。
「秋くん?お茶入ったよ」
「あ、ああ。サンキュー…」
椿が淹れてくれたお茶を飲みながら、他愛の無い話をしていた。
入学したばかりの大学で何を選択するのかとか、サークルには入るのかとか。勿論、さり気なく三神小百合の事も聞いた。
あの女は椿よりも学力的に劣っている。私立の女子大に入学したので友人関係はそこで終わるかと思われたのだが、食いついたスッポンよろしく椿から離れようとしない。離れないのは、鳥谷部楓との縁が切れると思っているのかどうかは知らないが、未だに椿と親交があるようだ。
事実、椿へのネットでの誹謗中傷はピーク時よりも随分と減ったとは言え、未だに根強く残っている。
三神小百合の目的はある程度わかっている。鳥谷部楓との交友関係も既に調べは付いているのだが、矢面に立たされる椿の事を考えると結局手出しは出来ないままで。
そう、一番傷付くのは椿だからこそ何も出来ない。
そんな事をつらつら考えながら椿と取りとめのない話をしていると、来客を告げるベルが鳴らされた。椿の方を見たのだが、彼女の方も誰だろうと言う顔をしていたのを見ると、三神小百合ではないのだろう。
はーいと、返事をした椿が玄関の方へ駆けて行くと、耳障りな声が俺の耳に届いた。
まさかと思って玄関へ行ってみると、やはりそこにいたのは俺の妹で。
「お前、何しに来た」
「は?なんでここにあんたがいんのよ。ていうかー、そこどいてくれるぅ?」
「ちょ、萌花さん、いきなりなんですか?」
「う・る・さ・い・なー」
クリスチャン・ルブタンのハイヒールをぽいぽいと脱ぎ捨てた萌花は、椿が制止するのも聞かずに家の奥へ入って行った。
俺は揃えもせずに脱ぎ捨てられたハイヒールを見て、これが柏木家で置かれていた俺の立場であったならと頭の片隅で考えを巡らせた。
幼い頃、脱ぎ捨てられた履物を見ては祖父と祖母は二人がかりで説教をし、帰って来た父に折檻まがいの暴力を振るわれた。それを止めてくれるはずの母は知らぬフリを始終通し、兄二人は自分に影響が及ぶ事を忌避していた。
だが、あいつらが心配するまでもなく、厳しく当たられていたのは俺だけだったと言う事も俺は早いうちに気付いてた。
忌まわしき昔の記憶を垣間見ていると、椿の悲鳴混じりの懇願が聞こえてきた。何事かと思って声の聞こえてくる部屋へ行くと、そこにはもみ合っている椿と萌花がいた。
見ると椿が萌花が掲げている何かを必死に取り返そうとしているが、身長差のある椿では萌花が掲げ上げたそれを取り返せずにいる。
「ダメ!それは返して下さい!」
「うるさいわね、別に取るに足らない指輪なんかべつにいいじゃない!」
「取るに足らないと思うんだったら、返して下さい!」
「もう、うるっさい!!」
腕を伸ばしてどんっと萌花が椿を思い切り押すと、それに負けた椿が尻餅をついた。その瞬間を狙って萌花が玄関へ駆けて行ったのを、俺は何が起きているのかわからずただ呆然と見ているだけだったが、椿が悲壮な声で呟いた声で我に返った。
とりあえず尻餅をついて転んだ椿の無事を確かめようと、慌てて彼女の方へ駆け寄ってみると、あれだけ気丈な椿が今にも泣き出しそうな顔をしていたのに驚く。
「椿?どこか痛めたのか?」
「…ちが……」
「椿?」
「指輪…あれは、大事なものなの……」
「指輪?もしかして萌花が持って行ったやつか?」
「………」
頷いて肯定を示した椿は、次の言葉を発するまでに少し時間を置いた。多分自分の気持ちをどう言葉にすればいいのかわからなかったのだろう。だが、椿が言う指輪の意味を聞いた時、俺は気付いたら走って萌花を追いかけていた。
幸いにも萌花はタクシー運がなかったようで、俺が追いつくのも造作はなかった。
まさか俺が追いかけてくるとは思わなかったのだろう。肩を掴んで振り向かせると、ぎょっとした顔の萌花を見る羽目になった。
「てめえ…その指輪、返せ…!」
「な、なによ!なんで関係無いあんたにそんな事言われなきゃいけないわけ?」
「『関係無い?』てめえ、自分の方が関係ねえだろ!その指輪、樹の両親の結婚指輪だぞ!てめえがおいそれと持ち出していいもんじゃねえんだよ!!」
「はあ~?」
萌花は俺が必死に取り上げようとしている指輪を自分の指へ嵌めると、にやりと厭らしく笑んだ。
「あんた、やっぱりバカよねぇ。もえ、その『敷島』の家に入るのよ?だったらこの指輪も、もえの物になるの。そんなのもわかんないの?」
「…っ!…だとしても、樹から貰うもんだろうが…それを、窃盗紛いの振る舞いで勝手に持って行くお前はどうなんだよ」
「もえが格下相手なんかに嫁がなきゃいけないのよ。コレくらい別にどうってことないじゃない。むしろ、もえが結婚『しなきゃ』いけないのよ?ソレがなかったらもえは、もっと良い所と縁があるのに、それを、よ?もえの人生お先真っ暗なの。それを考えれば、こんな指輪なんか損害賠償にもならないわ!」
その言い草たるや、まさに自己中心的な考え方で、実に利己的。
俺は瞬く間に頭に血が昇るのがわかったが、その前に萌花が察したのかタクシーを呼びとめてしまい、結局指輪はあいつに持ち去られた。
俺は走り去って行くタクシーに短く罵り、急いで椿の元へと戻った。
てっきり椿は泣いているのかと思ったら、彼女は両親の仏前の前に静かに座っていた。
俺はそっとその後ろに立つと、気配に気付いた椿がぽつりと呟いた。
「…持って行かれちゃったんだね…」
「…すまない。必ず取り戻すから…だから安心してくれ」
「…ありがとう。でも、兄さんに言っておかないとね…」
俺は、見る事が出来なかった。
椿の顔も
あれだけ好きだと言っていた、敷島夫妻の遺影も。