第11話
樹が赴任する為にいろいろと忙しく走り回って、ようやく日本を離れたちょうどその頃、柏木家の祖父の容態が悪くなった。
年も年だったし、その年の冬に心臓発作を起こして入院していたこともあり、そろそろかと家族が一様に覚悟を決めていた最中、二度目の発作が祖父を襲った。
幸い入院していた時に起きた発作だったので、早い段階で適切な治療を受けられた祖父はなんとか一命を取りとめた。とは言え、既にあの威厳たるや完全に見る影を潜め、ただひたすらに小さく皺だらけの老人に成り下がっていた。
命を繋ぐのは細いチューブと、無機質な音で生きている事を知らせる機械。だが、それでも声は出せるようだし、物を考える力は衰えていなかったようだ。
介護が必要と言われ、父は一も二も無く金に任せて完全介護の病室に祖父を移した。しかし、いくら完全看護とは言えそれに任せたまま、家族は誰も祖父を見舞わなくなった。
家族に見放された哀れな老人はそれでも確かに生きていたのだが、心情的には死んでいたのかもしれない。
祖父が発作を起こしたと言う一報を海斗から聞き、嫌々だったが一応祖父の見舞いに行った俺は、たまたま見舞いに来ていた次兄と一緒になった。
「久しぶりだな」
「そうですね」
別に次兄と話すこともなくただ見舞いに来たとだけ告げ、持ってきた花やらを置いて、さっさと帰ろうと踵を返そうとした。
だが、次兄が何事か祖父に声をかけていたのを何気なしに見た。
「おじい様…どうかあの別荘は僕に下さい。あそこの別荘は僕が非常に思い入れのあるところなんです。覚えていますか?昔、夏休みになると、兄さんと萌花と三人で別荘のプールで遊びましたよね。それをおじい様はとても楽しそうに見ていらした。僕はあの想い出が忘れられないんです」
だからお願いします…と締めくくった次兄は、祖父の皺くちゃな手を両手で包みこみ、それはそれは美しい祖父と孫の図を見せていた。
黙っていると反吐が出そうだった俺は、さっさと病室を後にした。
次兄が見舞いに来ているので珍しい事もあるもんだと思っていたら、こう言うことだったのかと腑に落ちた。
死に行く祖父が遺すものと言ったら、父の名前に名義変更していない土地や家屋、それに株券などの金目の物。それをハイエナ達は死臭がするより早く嗅ぎつけて、自分のものにしようとしている。
そこに親兄弟の境はないらしく、あれだけ妹を可愛がっていた次兄ですら妹より取り分を多くしようと躍起らしい。
「浅ましいな」
ぼそりと呟いた俺の言葉が兄や、ましてや妹に聞こえるわけもなく。
樹が中東へ行ってから一週間後、祖父は息を引き取った。
祖父の葬儀には本家からは嵐が出席し、御三家も御崎家以外は出席した。後に海斗に何故葬儀に出なかったのかと聞いたところ、一笑された。
「何で格下の、しかも家督を譲ってる者のところへいちいち行かなきゃいけない?ましてや、俺には関係無いしな」
御崎家が出席しなかった事で多少は揉めたものの、式は滞りなく進められた。
久しぶりに全員揃った柏木家の面々を見渡すと、意地も根性も悪いので長生きしている祖母と、そんな祖母と亡き祖父から『柏木家たるや』と言うものを小さいころから刷り込まれてきた傲慢な父。目上の者には媚び諂い、目下の者を見下す典型的な高慢ちきな性格を恥とも思わない母と、父に似て傲慢なところのある長兄。人の足を掬うことしか出来ない次兄に、自己中心的でワガママな妹。
これが血の繋がった俺の家族だと思うと、ぞっとするどころではない。
むしろ、あの穏やかでお互いに思いやる力が強い敷島家の方がいい。
『もしも』が存在するならば、俺は敷島家に生まれたかった。こんな見栄っ張りで情の薄い家族などではなく…
「敷島は来ないのか?」
はっと物思いから返ると、泣いている萌花を慰めている長兄の姿が目に入った。
どうせ嘘泣きだろうが。と内心毒づいた俺の心境を知らない兄妹は、憤りも露わにして叫んでいた。
「来ないのよ、お兄様!信じられる!?普通は来るでしょう!?」
「なんて事だ、あいつ…うちのおじい様を軽んじているのか?身の程知らずも甚だしい!」
「もえ、絶対許さない!」
許すも許さないも、身の程知らずも何も…
そもそも樹が帰って来れるわけがない。
つい一週間前に中東へと旅立った樹が現地入りした四日後、緊迫状態が続いていた地域でNATO軍の車両を狙った自爆テロがあった。幸いにも樹が行った地域とは距離的に離れているが、それでも危険な事に代わりは無い。
状況は更に悪く、そのテロによって国内の空港から飛ぶ全便の離発着が出来なくなり、唯一の日本への帰国ルートは隣国から発着する便だけ。だが、その国境付近は避難勧告が出されている箇所でもあるので、当然選択肢の中には存在しない。
幸いにもネット回線は無事なようなので、樹にネット経由で連絡を入れてみたところ、そう言うような状況なので帰国出来ないと言われていたのだ。
そんな樹の置かれている状況も知らずに、安全な国にいてのうのうと暮らしているこいつ等なんぞ、俺の
家族ではない。
一家の柱だった祖父が死んだ。
丁度いい機会が巡ってきた。
柏木家から出ようと思う。
名実共に。